千の花
舟びとよ、心ゆるすな、
河波に呑まれ果てなん。
されどああ歌の強さよ、
甲斐あらず舟は沈みぬ。
(ハインリヒ・ハイネ『ローレライ』片山敏彦訳より)
深夜。
邸に程近い病院に、美玻璃は忍び込んだ。
こういう探索や潜入には、昔から万智人と共に慣れがある。
四角く無機質な病室に、酸素吸入器をあてがわれた万智人が横たわる。
心臓の部分の白い布は微かに上下していて、そのことが美玻璃を安堵させた。
ピピ、ピピ、と万智人の命を知らせる心電図の音が響く。
「万智人。聴いてる?」
美玻璃は万智人の頬に右掌を当てた。
「もし万智人が死んだら、私は海を呼ぶよ。私の嘆きごと、この町を沈めてやる。でも、万智人はそんなの嫌だろう、私にさせたくないだろう、そんなこと」
美玻璃の目に涙の膜が盛り上がる。
「だから私は、生かす道を選ぶ」
そう宣言した唇を、美玻璃は自分の歯できり、と噛んで血を滲ませた。
酸素吸入器を外し、血が滴る唇を万智人の唇につける。
万智人の喉が微かに動き、鮮血を嚥下したことを示す。
新開家の令嬢は人魚の末裔。
その瞳は世を見張り、その歌声は人を魅惑し海を招く。
そしてその血肉は人に生きる力を与える―――――――。
それが言い伝えの全てだった。
万智人が全快して退院したのは、それから二週間後のことだった。
しばらくは検査入院などで日数を費やしたが、もう通常の生活をしても全く支障が無いようで、すわ新種のウィルスかと身構えていた医師たちは、一様に狐に抓まれたような顔だった。
これが美玻璃による行為の賜物と知る万智人は、美玻璃と一緒に顔を見合わせて破顔した。
「美玻璃の血を飲んで、僕は不老不死になったのかな?」
「まさか。私の血にそこまでの力は無いよ。彼岸に行きそうな命を呼び戻すだけ。そしてほんの少しの生命力の強化を施す」
「秘密にしたが良さそうだな。欲深い人間たちに知れたら厄介だ」
「………」
「美玻璃?」
「万智人。私は、万智人が死ぬかもしれないと思った時、一瞬、町を沈めてしまおうかとさえ考えた。そのくらい、悲しかったんだ――――――ねえ、でも万智人は今、元気で生きている。この、」
そう言って、美玻璃はテーブル上にあった蜻蛉玉を手に取る。
「蜻蛉玉の名前はミルフィオリと言う。ヴェネチアの蜻蛉玉の代表格でね。ミルフィオリはイタリア語で千の花と言う意味だ」
黄色地に、朱色で縁取られた白い花弁を持つ紺の花模様めいた柄が一面に咲いている。
「万智人が生きている。それだけで私はこの世界に千の花を見出す思いなんだよ」
「僕を信じて、愛してくれるのかい?」
ひたむきに自分を見つめる万智人に、美玻璃は頷く。
「時をかけて。少しずつで良いのなら。私は美しいもの以外にも、信じるべきものを持とうと思う。硬い玉石とは異なる、生の脈動を。その初めに成り得るのは、万智人しかいない」
万智人は座っていた椅子から立ち上がると、美玻璃の座る正面まで歩いて跪いた。
それから、王冠を押し戴くように美玻璃の両頬を手で包み込む。
寄せられる唇と受け容れる桜色。
今度は血を介さず、そこから洩れる吐息は幸福と、微かに海の匂いがした。
<完>