第二十三話:その、心は——
世界は、歓喜の産声に包まれていた。
帝都の広場を埋め尽くす数万の民衆。彼らの顔には、長きにわたって奪われていた「感情」という名の豊かな色彩が戻っていた。涙を流して抱き合う者、天を仰いで笑う者。
空からは、魔神ハートレスが浄化されて生まれた虹色の光の粒子が、雪のように優しく降り注いでいる。
「……ミッション、オールクリア。見事な、デプロイ(展開)でした」
私は、その美しい光景を網膜に焼き付けながら、小さく息を吐いた。
世界中の数億という人間の「心」に直接アクセスし、そのすべてを整頓して元の場所へ帰す『世界調和』。
それは明らかに、ただの人間の脳(CPU)が処理できる情報量を逸脱していた。
指先から、感覚が消えていく。
足の裏の熱も、風の冷たさも、まるで接続ケーブルを引き抜かれたかのように、急速にシステムから切り離されていく。
「……ああ。どうやら、私のハードウェアは、限界(寿命)を迎えてしまったようです」
私が小さく呟いたその瞬間。
プツリ、と。私の意識を繋ぎ止めていた最後の糸が切れ、体は重力に従って前へと傾いた。
「——ねづっち!?」
隣で笑っていたリリアが、悲鳴を上げて私を抱き止めた。
しかし、私の体はもはや彼女の細い腕で支えきれるような力を持たず、二人して冷たい石畳の上に崩れ落ちた。
「おい、旦那!? どうした、しっかりしろ!」
「ウソでしょ、リーダー!? 体が、すごく冷たい……!」
ガルドとミラが血相を変えて飛び込んでくる。
「ねづっち様……! ああ、神様、そんな……っ! 【極光の祈り(フル・ヒール)】!!」
セレナが泣き叫びながら、ありったけの魔力を込めて回復魔法を放つ。黄金の光が私の体を包み込むが、私の感覚は一向に戻らなかった。
「……無駄、です。セレナ」
私は、焦点の合わなくなり始めた瞳で、ボロボロと涙をこぼす彼女を見上げた。
「これは物理的な欠損ではない。私という器が、世界の心を受け止めるために、完全に焼き切れてしまっただけ。……修復は、不可能です」
「そんなこと言わないでよ! あんた、言ったじゃない! 一〇〇パーセント生還できるって!」
リリアが私の胸ぐらを掴み、激しく揺さぶる。彼女の瞳から溢れた大粒の涙が、私の頬にポタポタと落ちてきた。
「……計算、違いでした。どうやら私は、システムエンジニアとしては……三流だった、ようだ」
声が掠れる。視界がどんどん暗くなっていく。
前世で、一人きりの暗く冷たいサーバー室で死んだ時のことがフラッシュバックする。
あの時は、ただ寒くて、恐ろしくて、孤独だった。
でも、今は違う。
「死なないでよ! ねづっち、お願いだから! 私を置いていかないで!」
「旦那ァ! 目ェ開けろ! まだ俺たち、祝杯もあげてねえだろうが!」
「リーダー! やだ、やだよぉ……!」
「ねづっち様、ねづっち様ぁっ……!」
私の周囲には、こんなにも温かい、四つの命がある。
私のために泣いてくれる、不器用で、愛おしい仲間たちがいる。
こんなにも騒がしくて温かいシステムダウンなら、悪くない。
「皆さん……泣かないで、ください。……最後に、私から、ログ(遺言)の出力を……」
私は残された僅かな力を振り絞り、微かに動く右手を伸ばした。
リリアが、その手を両手で包み込むようにギュッと握りしめてくれる。
「ガルド」
「……おう」
「あなたの巨大な背中は……世界で一番、安心できる場所でした。ありがとう」
「……ッ! 馬鹿野郎……!」
ガルドが顔を伏せ、地面に拳を叩きつけて号泣した。
「ミラ」
「ひぐっ、うう……リーダー……」
「あなたの予測不能な笑顔(変数)が、私のガチガチだった計算式に……いつも、楽しいエラーを起こしてくれました」
「やだ……エラーなんかじゃないよ、あたし、もっとリーダーと笑いたい……っ」
「セレナ」
「はい……はいっ……!」
「あなたの祈り(セーフモード)があったから、私は……何度でも、立ち上がることができた。最高のヒーラーです」
「私など……私など、ねづっち様に救われた命なのに……っ!」
そして、私は視線を動かし、目の前で顔をくしゃくしゃにして泣いている、銀髪の魔法使いを見つめた。
「リリア」
「……バカ。……大バカ、ポンコツリーダー」
「……ええ。私は、ポンコツです。ずっと、心を閉ざして、人間をただの数字として管理しようとしていた。……傷つくのが、怖かったから」
私は、彼女の手の温もりを感じながら、ゆっくりと口を開いた。
ずっと、自分の中で定義できなかった、最大の命題。
「その、心は——」
魔神は言った。心はバグだと。世界を乱すノイズだと。
私自身も、そう思っていた時期があった。感情などなければ、エラーも起きないのだと。
だが、彼らと旅をして、彼らと笑い合い、彼らのために命を懸けた今なら、はっきりと分かる。
「その、心は——……決して、世界を壊す『バグ』なんかじゃなかった」
私の声は、もはや無機質な機械音声ではなかった。
ただの、一人の人間としての、震える声だった。
「誰かと繋がり、痛みを分かち合い、共に明日を生きるための……最も美しくて、温かい、人間の『機能』だったんだ」
私は、頬を伝う冷たいものを感じた。
それが自分の流した「涙」だと気づくのに、数秒かかった。
前世で心を殺してから、一度も流したことのなかった、熱い涙。
「リリア……。冷たいサーバー室で蹲っていた私を、見つけてくれて……ありがとう。あなたたちと出会えて、私の人生は……本当に、幸せでした」
そして私は。
いつものように眼鏡のブリッジを押し上げることもなく、理屈っぽい言葉で本心を隠すこともなく。
ただ、心からの、何の計算もない「笑顔」を浮かべた。
「みんな……大好き、です」
「——いやあああああああっ!!」
リリアの悲痛な叫び声が、広場に響き渡る。
私の意識は完全にブラックアウトし、深い、深い闇の底へと沈んでいった。
……はずだった。
『——管理者権限、再起動ヲ確認』
『——世界中ノ「心」ヨリ、バックアップ・データノ送信ヲ受信』
「……え?」
暗闇の中で、私は不思議な温かさを感じていた。
冷え切っていたはずの私の胸の奥に、無数の小さな光が灯り始めている。
「リリア……諦めるな! 俺たちの魔力(命)を、全部旦那の心臓に注ぎ込むんだ!」
「にゃはっ、リーダーがバグったんなら、あたしたちがデバッグしてやるんだから!」
「ねづっち様の心に、世界中の祈りよ、届け……!」
耳元で、仲間たちの必死な声が聞こえる。
それだけではない。
世界中の人々が、空から降り注ぐ虹色の光(心の欠片)を受け取った瞬間、彼らの心から生まれた「感謝」と「生きる喜び」という強大なエネルギーが、ネットワークを通じて、空っぽになっていた私の器へと逆流してきていたのだ。
ドクンッ、と。
止まっていたはずの心臓が、力強く脈打った。
「ねづっち……!? ねづっち!!」
リリアの叫び声に引っ張られるように、私は重い瞼をゆっくりと開いた。
「……まったく。他人のシステムに、無断で強制アクセスするとは……あなた方は、最悪のハッカーですね」
私が掠れた声でそう言うと、リリアは信じられないものを見るように目を丸くし、次の瞬間、私の上に覆い被さるようにして大声で泣き崩れた。
「ばかぁ……っ! ばかばかばか! 本当に、心臓止まってたのよ!?」
「ぐぇっ……リ、リリア、重……」
「旦那ァァァッ!! よかった、本当によかったぜ!!」
ガルドが泣きながら私とリリアをまとめて抱きしめ、そこにミラとセレナも飛び込んでくる。四人の重みと熱気で、私は本気で圧死するかと思った。
「ちょっ、皆さん、苦しいです……! 再起動直後に物理ダメージを与えないで……」
私が苦笑しながら身を起こすと、仲間たちは鼻をすすりながら、涙まみれの顔で一斉に笑い声を上げた。
そして、私はふと顔を上げ、息を呑んだ。
「……これは」
世界が、変わっていた。
魔神の呪縛によって、長く灰色のノイズに覆われていた帝都の空。
そこには今、私の前世の記憶にすら存在しないほど、抜けるように青く、透き通った空がどこまでも広がっていた。
それだけではない。
崩れ落ちた黒の尖塔の瓦礫の隙間から、石畳の割れ目から、世界中に満ちた命のエネルギーに呼応するように、色とりどりの花々が一斉に咲き誇っていた。
灰色の世界が、息を呑むほど鮮やかな色彩を取り戻していたのだ。
赤、青、黄、緑。
人々の心と同じように、無限のグラデーションを持つ世界。
「……綺麗ね」
涙を拭ったリリアが、私の隣に寄り添い、花々に彩られた街を見渡した。
「ええ。こんなにも、この世界は美しかったのですね」
もう、ノイズだらけの散らかった世界ではない。
いや、厳密に言えば、これから先も人々は悩み、ぶつかり合い、世界は様々な感情で散らかっていくのだろう。
だが、その散らかった感情の一つ一つが、この花のように美しい「命の色」なのだ。
私は、ゆっくりと立ち上がった。
ガルドが肩を貸してくれ、ミラが私の土埃を払い、セレナが優しい光で傷を癒してくれる。
そしてリリアが、私の手をしっかりと握ってくれている。
私は、愛用していた手帳も、感情を隠すための眼鏡も、もう持っていなかった。
そんな防壁は、もう私には必要ない。
私には、この温かい仲間たちと、自分自身の確かな「心」があるのだから。
「ねづっち」
リリアが、悪戯っぽく笑って私を見上げた。
「あんたの、最後の『仕事』……聞かせてよ」
私は、仲間たちの顔を一人一人見渡し、そして、色鮮やかに蘇った美しい世界へ向かって、心の底からの、満面の笑みを浮かべた。
胸を張り、これまでのどの瞬間よりも誇らしく、そして温かい声で、私は告げた。
「——整いました……みんなと一緒に!」
歓声と、笑顔と、色とりどりの花束に包まれて。
最高のシステムエンジニアと仲間たちの、最も騒がしくて、最も幸せな新しい日常が、今、希望の光の中で幕を開けた。
(了)




