第一話:整いました!
世界は、あまりにも乱雑すぎる。
たとえば、現代社会の情報の氾濫。スマートフォンの画面に無秩序に並ぶアプリのアイコン。本屋の平積みの乱れ。
そして、人々の感情の起伏から生じる不規則な行動パターン。すべてが想定外のエラーと非効率の温床であり、私の神経を逆撫でする。
私の名前は根津千尋。
都内の中堅企業に通う、ごく一般的な20代後半の会社員——であるはずだ。
ただ少しだけ、人よりも「整理整頓」に対する情熱が異常なだけである。
部屋のレイアウトはミリ単位で計算し、一日のスケジュールは五分刻みで最適化する。人生のロードマップも、すでに六十歳までの分をエクセルで完璧に作成してある。
だからこそ、今のこの状況は、私にとって極めて強いストレスだった。
「おお……! 成功じゃ! 異界からの召喚陣が繋がったぞ!」
「しかし大神官様! 魔力の波長が乱れすぎています! 次元の座標がずれています!」
「ええい、構わん! このまま固定しろ!」
うるさい。とにかくうるさい。
目を開けると、私は石造りの薄暗い広間に立っていた。床には幾何学模様の陣が発光しながら描かれているが、線の太さが均一でなく、円の半径もわずかに歪んでいる。コンパスと定規を貸してほしい。今すぐ書き直したい。
周囲を取り囲んでいるのは、古びたローブを羽織った老人たちだ。彼らは私の顔を見るなり、絶望したように頭を抱えた。
「な、なんだこの青年は……? 伝説の勇者のような屈強な肉体も、あふれんばかりの魔力も感じられんぞ!」
「ああっ、召喚は失敗じゃ! 座標のズレのせいで、ただの一般人を引き込んでしまった!」
「終わりだ……この世界はもう、魔神の呪縛に飲み込まれる運命なのだ……」
勝手に呼び出しておいて、勝手に絶望しないでいただきたい。情報が錯綜しすぎていて、状況の把握に支障をきたす。
私は小さくため息をつき、スーツの埃を払った。今日は重要な営業会議があったため、完璧にアイロンがけされたスーツを着ていたのだ。
「静かに。まずは状況を整理させてください」
私の淡々とした声に、老人たちは一瞬だけ口を閉ざした。
「ここはどこで、あなた方は誰ですか。そして、私をなぜ呼んだのか。簡潔に、三点でまとめてください」
「えっ……? あ、いや、ここはエトスという世界でな……」
大神官と呼ばれた老人がしどろもどろになりながら説明しようとしたその時、私の視界の端に、半透明のパネルのようなものが浮かび上がっているのに気づいた。
どうやら、私自身のステータス画面らしい。異世界召喚モノのライトノベルで読んだことがあるシステムだ。しかし——。
【Name:ネヅ ちヒロ】
【Job:???(Error_0x00F)】
【HP:10/10】
【MP:5/5】
【Skill:#%&乱調*+】
文字化けとバグのオンパレードだった。
私は眉間を揉んだ。許せない。情報の非対称性以前に、インターフェースとして完全に破綻している。この世界の神はUIやUXデザインという概念を知らないのだろうか。
私は思わず、手を伸ばしてそのパネルに触れた。
「……整えます」
その瞬間だった。
私の中に眠っていた「何か」が、明確なロジックを持って起動する感覚があった。脳髄に冷たい電流が走り、眼前に散らばる混沌とした情報群が、瞬時に最適解を求めて再構築されていく。
バチッ、という軽い音と共に、半透明のパネルが鮮やかなブルーに変わり、文字がきれいにフォーマットされた。
【名前】根津千尋
【職業】巻き込まれし者
【レベル】1
【固有スキル】整える力(絶対最適化)
固有スキル、『整える力』
詳細を確認するまでもなく、直感で理解した。これは、物理的な事象、情報、ステータス、あらゆる「乱れ」を最適化し、あるべき形に再配置する能力だ。
「よし。見やすくなりました」
私が一人で頷いていると、突如として神殿全体が激しく揺れた。
「な、なんじゃ!?」
「召喚陣の次元の裂け目から、魔力溜まりが逆流しています! 空間が裂けます!」
床に描かれた歪な召喚陣の中心から、どす黒い霧が噴き出した。霧はみるみるうちに実体を結び、体長三メートルはあろうかという異形の魔獣へと姿を変えた。
獅子のような頭に、山羊の角、蛇の尻尾。いわゆるキメラと呼ばれる合成獣だろうか。
「ひいぃっ! 次元の狭間から魔獣が!」
「逃げろ! 我々の魔法では太刀打ちできん!」
老人たちが蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。
魔獣は真っ赤な目をギョロリと動かし、一番近くにいた私に狙いを定めた。咆哮を上げ、鋭い爪を振り上げて飛びかかってくる。
普通なら死を覚悟する場面だろう。しかし、私の心は湖面のように凪いでいた。
私の目には、その魔獣が「ただの出来損ないのパッチワーク」にしか見えなかったからだ。
「無秩序に配置された角、太さの違う四本足。筋肉の連動性は皆無で、重心も完全にブレている。魔法器官と物理骨格の接合部にも無駄が多い」
私は迫り来る魔獣に向かって、右手をスッと前に出した。
「あまりにも、美しくない」
固有スキル、【整える力】を発動。
対象:眼前の魔獣。
実行コマンド:骨格の歪み、魔力動線、重心バランスの『整理』。
「——!」
魔獣の動きが、空中でピタリと静止した。
【整える力】の干渉を受けた魔獣の体内では、今まさに強制的な「最適化」が行われていた。不要なパーツが機能不全を起こし、絡み合っていた魔力回路がショートして完全に切断される。
複雑怪奇なキメラという存在は、その『複雑さ(乱雑さ)』によって強さを保っていた。それを強制的に『整理』してしまえば、残るのはただの脆弱な肉の塊でしかない。
「あ、あ、ァ……?」
魔獣は間抜けな声を漏らし、そのまま地面にドサリと落ちた。四肢は不自然に真っ直ぐに伸びきり、もはやピクピクと痙攣するだけの存在になり果てていた。
私はその傍らに落ちていた儀式用の短剣を拾い上げ、魔獣の首筋にある「急所(最も魔力が整理されて集まっている点)」に、すっと刃を突き立てた。
チリ、と光の粒子になって消滅していく魔獣。
私はスーツの袖口を正し、静かに宣言した。
「整いました!」
神殿の中は、水を打ったような静寂に包まれていた。
先ほどまで逃げ惑っていた老人たちは、腰を抜かしたまま口を半開きにして私を見上げている。
「……い、今のは……?」
「魔法……いや、魔力は全く感じられなかったぞ。ただ手をかざしただけで、上位魔獣が……」
その時、神殿の最奥にある巨大な女神像から、まばゆい光が放たれた。光は空中で収束し、美しい女性のホログラムのような姿を形作った。
『よくぞ……よくぞやってくれました、異界の者よ』
声が脳内に直接響いてくる。どうやらこの世界の神らしい。
「あなたが、私をこの不完全な座標に呼び出した張本人ですね。先ほども言いましたが、用件は三点でお願いします」
私が無表情のまま告げると、女神のホログラムは少しだけたじろいだように見えた。
『えっ……あ、はい。ええと……。
一点目、この世界「エトス」は今、古代魔神ハートレスが放った「心の呪縛」により、人々が徐々に感情を失い、無関心と争いが蔓延する危機にあります。
二点目、その呪縛を解き、世界を救うためには、異界の魂を持つ者の力が必要でした。
三点目、どうか、あなたのその力で、この世界を救っていただきたいのです』
なるほど。非常にわかりやすい。最初からこうしてプレゼンしてくれればいいのだ。
要するに、この世界は古代のウイルス(呪縛)によってシステムがバグり、人々の心が「散らかっている」状態にある。そして私に、そのデバッグと整理整頓をしてこい、ということだ。
「理解しました、引き受けましょう」
『おお! 本当ですか! 恐ろしい魔神の軍勢と戦うことになるのですよ?』
「ええ。これほどまでに乱雑で、非効率で、整理されていない世界を放置しておくことは、私の精神衛生上、極めて不快ですので」
『……えっ?』
「世界を整理整頓する。それが私のクエストというわけですね。スケジュールを引き直す必要があります」
私が淡々と女神へと告げる。
「あ、はい……頼もしいです……」
と、どこか引きつった愛想笑いを浮かべて消えていった。
神でさえも困惑させる私の態度は、おそらく彼らの想定する「熱血で感情豊かな勇者」像から大きくかけ離れているのだろう。だが、私には関係のないことだ。
その後、私は大神官たちに案内され、神殿のふもとにある小さな村へと降りた。
「ここは始まりの村、ルミナス。勇者様には、当面の拠点としてこの家を提供いたします」
村長が案内してくれたのは、村のはずれにある一軒の空き家だった。
「……なるほど」
私は目の前の惨状を見て、眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。
屋根には穴が空き、床には土足の跡と得体の知れない獣の糞。家具は倒れ、壁には蜘蛛の巣がびっしりと張られている。控えめに言っても、廃墟だ。
村長は申し訳なさそうに身を縮めている。
「も、申し訳ございません。村の若者たちも心の呪縛の影響で無気力になっておりまして、手入れが行き届いておらず……」
「謝罪は不要です」
私は上着を脱ぎ、丁寧に折りたたんで傍らの比較的きれいな岩の上に置いた。
私の胸の奥底で、先ほどの魔獣との戦闘時よりも遥かに熱い、静かなる興奮が渦巻いていた。
「ここは……やり甲斐がありますね」
「えっ?」
「下がっていてください。埃を吸いますよ」
私は部屋の中央に立ち、両手を広げた。
固有スキル、【整える力】、最大出力。
「対象:家屋全体。実行コマンド:汚れの物理的排除、構造材の歪みの矯正、家具の最適配置、空間の整理整頓!」
淡い青色の光が、家全体を包み込んだ。
次の瞬間、物理法則を無視した光景が繰り広げられた。
壁や床にこびりついていた汚れが、まるで意思を持っているかのように一箇所に集積し、圧縮されて小さなゴミのブロックとなる。
折れていた柱の繊維が繋がり、歪んでいた建付けがミリ単位で修正されていく。
倒れていた椅子やテーブルが空中に浮かび上がり、私が頭の中で描いた「完璧な生活動線」に基づいた座標へと、寸分の狂いもなく着地する。
最後に、風の魔法に似た気流が発生し、室内の空気を完全に入れ替えた。
時間にして、わずか数十秒。
先ほどまで廃墟だったその場所は、塵一つ落ちていない、モデルルームのように完璧に整った空間へと変貌していた。
ベッドの位置、窓からの採光角度、テーブルと椅子の距離感。すべてが私の計算通り、黄金比に基づいている。
私は満足げに頷き、圧縮されたゴミのブロックをスキルで新たに構築した家の外の焼却炉へ放り込んだ。
「整いました!」
本日二度目の宣言。
背後では、村長が泡を吹いて気絶しかけていたが、私の関心事はすでにそこにはなかった。
私は完璧にシーツが張られたベッドに向かい、直角に仰向けになって横たわった。枕の沈み込み具合も申し分ない。
「今日はここで休み、明日から世界の整理に取り掛かるとしましょう。まずは、タスクの洗い出しとスケジューリングですね」
感情の起伏はない。恐怖も、使命への重圧も、異世界への戸惑いもない。
ただ、目の前にある「散らかった世界」を、私の手で一つ残らず「整頓」する。
根津千尋の異世界最適化計画は、こうして極めて効率的に幕を開けたのだった。




