49、秘めたる思いは香しいもの
リルルは部屋のドアを叩く音で目が覚めた。スタンドライトの明かりをつけると、見慣れないベッドの装いに、一瞬ここがどこなのか分からなくなる。
ああ、ここは中つ国の、ハープシャー公爵の王都にある別邸だったかな? 確か、クグロワたちと別れてかくれんぼをしている最中だったわ。ロックが一緒だった気がする。
ナイトウェアの上にガウンを羽織り、眠り眼のままドアの近くにまで寄った。
「リルル様、リルル様、」とドア越しに聞こえる声はロックのものだった。
「なにかしら、もう朝なの?」
少しだけドアを開けると、ロックがまだ昼間着ていたスーツ姿のまま立っていた。
「申し訳ありませんが、移動をお願いします。前公爵様にはお話が済んでおります。」
「何があったの?」
「ペンタトニーク公の別荘に、ヴァルター第二王子殿下がお泊りになることになりました。」
「は?」
リルルは一瞬にして目も頭も覚めた。
「今、ペンタトニーク公が王子の足止めをされています。それで…、申し訳ないのですが、こちらのお屋敷から馬車を出して、リルル様には先に港の別荘に向かっていただくことになりました。」
「それはいつ?」
「リルル様のお支度が出来次第、です。」
「え…、」
それって、今からってことじゃない? リルルは絶句する。
「申し訳ありませんが、お急ぎください。」
いくら抵抗したって、決まっちゃったんだろうな、とリルルは思った。
「わかりました、そのようにしてください。急いで着替えます。」
「お待ちしております。」
ドアを閉めると、リルルはしぶしぶ着替え始めた。時計を見ると、まだ日にちが変わっていなかった。真夜中に移動かあ…、ここには半日も滞在しなかったわ、とリルルは思った。
トランクには、かくれんぼするのと伝えてあったからか、品のいい紫色のワンピースと黒いタイツが入っていて、黒いトレンチコートも入っていた。
鏡の前で着こなしを確かめてくるりと回ると、かさかさと、ポケットに何か入っているのを見つけた。手を突っ込んで確かめると、紙に包まれたチョコレートが入っていた。
「あら、クグロワの字…?」
包み紙は二重になっていて、外側の紙には、「必ずお迎えにあがります」と書いてあった。
口にチョコレートを放り込む。甘じょっぱい。リルルは涙目になっていて、味なんかわかんないよ、とひとり言を呟いた。手紙を広げて丁寧にたたみ直し、大事にポケットにしまった。
クグロワが来てくれる。そう思うと、勇気が湧いてきた。
部屋を片付け身支度も整え、リルルはトランクを片手に部屋を出た。あまりの眠さにあくびを噛み締めながら歩く。
廊下にはロックと前公爵が立ってリルルを待っていた。沢山の執事たちが廊下で出立の支度をしてくれていた。
「すまないね、リルル様。匿って差し上げられなかった。」
「いいえ、つかの間でしたが、よい時間を過ごさせてもらいました。ありがとうございました。」
リルルがにっこりと微笑むと、前公爵もロックも目を見張った。傍で控えていた執事たちの頬が赤く染まる。異国の美少女な王女様が滞在していたのは本当だったのだと、彼らは実感していた。
「このまま私の領地の別荘に行ってもらって、そこで休んでもらうといい。街道を突っ切れば難なく着くだろうし、出航時間まででも休められるだろう。」
「何から何までありがとうございます。」
わがままも言わないし部屋で大人しくしているし、理想的なお客様な王女様は文句も言わずに旅立つと言う。前公爵たちはリルルが気の毒に思えてきた。
「なんの、こちらも申し訳ない。このジョシュアとバランという執事たちを護衛につける。語学も堪能だし腕もたつ。襲撃にも強いぞ。別荘での護衛にもなってくれるだろう。」
襲撃って! さらりと凄いことを聞いたわ。
「助かりますわ。ロック、クグロワたちの用意はどうなっているの?」
「今、向こうは向こうで、こっそり移動をさせているはずです。リルル様とは現地で落ち合う手筈になっております。」
「そう、それはよかったわ。」
リルルはほっとすると、前公爵の差し出してきた手を握った。紹介されたふたりの見目麗しい執事たちとも握手する。
「歓迎、感謝いたします。次回はもっとゆっくりお話しさせていただきたいですわね。」
「もちろん。こちらこそ、至らぬことばかりで申し訳ありませんでしたな。」
ふるふると首を振って、リルルは微笑んだ。
「巻き込んでしまって申し訳ありません。お邪魔いたしました。」
最後まで好印象な王女様だった、と前公爵は思った。
「リルル様、よい旅を、」
前公爵と執事たちに見送られて、リルルはハープシャー公爵家の4頭立ての馬車に乗り込んだ。向かいの席にはトランクを持ったロックとジョシュアが乗り込む。彼らの足元には猟銃が寝そべっている。
バランは馭者台に座った。馭者と5人だけの夜の逃避行が始まった。
※ ※ ※
「ねえ、ロック、ペンタトニークのおじさまの別荘に、どうして遠く東方の国の王子が泊まったりするのかしら?」
雲が流れていく窓の外の夜空を見上げながら、リルルは尋ねた。猛スピードで走り忙しく揺れる馬車は、心地よい眠りには向かなかった。体を揺らす勢いに、姿勢を正すのも疲れてくる。
「先程、リルル様からお預かりした今日お召しになっていたドレスを、王都の別荘の方へ洗濯を頼みに持っていっていたのです。ペンタトニーク公にお会いして、今後の予定を確認している最中に、第二王子がお供の方を連れていらっしゃったのです。」
ロックには夕食の前に、着替えたドレスがトランクに入らない相談をしてあった。あのまま持って行ったのね、とリルルは思いながら聞いていた。
「…建国記念行事には出席されなかった第二王子は、関連の貴族と親睦会を楽しまれたようです。大変心地よくお酒を嗜まれて、舞踏会からお戻りになったばかりのペンタトニーク公と飲みなおされたいとお越しになったそうです。」
それ、かなり酔っ払いの発想だよね、とリルルは思った。
「ペンタトニーク公もお酒を飲まれていましたから上機嫌で、お二人でお話しされているうちに、第二王子がそろそろお帰りになりたいと仰ったのです。こんな夜遅くもなんですからと、社交辞令でお引止めしたところ、そのまま『そうか』とお泊りになることになりました。」
「…。」
ヴァルターは初めからそのつもりだったんだろうな…。
「ペンタトニーク公は私にあとのことをお任せになって、『このままヴァルター様をお引き留めして酒宴を開くから、今のうちに移動なさいますようにお伝えしてほしい』と仰いました。」
不機嫌な表情のリルルは、ロックに向かって「要するに、夜逃げして欲しいってことよね?」と呟いた。
くすりと笑ったジョシュアに気が付いて、リルルはジョシュアに話しかけた。
「ごめんなさいね、あなたたち公爵家の人たちには迷惑をかけて申し訳ないと思っているわ。夜中に移動なんて、しかも異国の王女の護衛なんて、断りたくても断れない仕事よね?」
「いえいえ、こういう刺激的な夜は滅多にありませんから、楽しませてもらいますよ。私も、バランも、前公爵様のお傍で冒険にお付き合いするのが楽しいですから。」
意外な反応に、リルルはちょっと安心した。公爵家の見目の麗しい執事たちは、案外猛々しい性格なのかもしれない。
「良かったら、一緒に海を渡る? 私の国まで来てくれたら歓迎するわよ?」
「そこまでは勘弁してください。私は前公爵様にお仕えさせていただく者ですから。」
リルルはにっこりと微笑んで頷いた。それはそれでいいと思う。リルルはロックを見つめると、疑問を口にした。
「ねえ、一日前倒して出港することになるのかしら?」
「そうですね。このまま走らせれば、4日の午前の出航予定の定期船には間に合います。その方がリルル様には安全に出航していただけそうな気もします。」
「クグロワたちも間に合いそう?」
「ええ、恐らく。」
「じゃあ、クグロワたちと合流出来たら一緒に午前の定期船に乗るわ。間に合わなかったら、明日のもともと予定していた船に乗りたいわ。」
「わかりました。定期船と言っても、リルル様たちのお部屋は一等貴賓室のご用意をしますから、安心して船旅をお楽しみください。」
「別荘の手配も、私たち公爵家で責任をもってご案内しますから、ご安心を。」
「何から何まで済まないわね、ありがとう。よろしくお願いします。」
「いえいえ、リルル様、もともとは我が主のペンタトニーク公が請け負ったお話ですから、これぐらいは当たり前です。そうでないと、ヨハネス殿下に申し訳が立ちません。」
「そうです、請け負ったのも公爵家も同じです。ハープシャー公爵家の名誉にかけて、お約束はお守りいたします。」
どっちもどっちなんだよなあ、とリルルは思ったけれど黙っておいた。他国では王女という身分もなんの意味も持たないのだと、よく判った。自力で何もできない私はちっぽけな人間だわとリルルは思う。
「少し、眠ってもいいかしら。ちょっと疲れちゃったの。」
目の前にいるのは、知り合いとはいえ、自分と婚約もしていないし、異国の貴族に使える従者だった。眠って無防備になるには気がひけた。
殿方の前で眠る顔を晒すなどもっての外です、いけません、とクグロワに怒られそうね、と思いながら、リルルは睡魔には勝てず眠ることにした。
「ロック、あとは任せたわ。」
クグロワの恋人なら身内のような者だわ、と眠すぎて思考も怪しいリルルは考えることをやめて開き直る。揺れた拍子に壁に頭をぶつけそうになり、そのまま凭れかかった。
今日はティンクの夢へと出かけた。日中もいろいろあった。疲れ切った表情のリルルが「おやすみ、」と小さく呟くと、ロックもジョシュアも、「大丈夫です、我々がお守りしますから、」と答えてくれた。
ひどい揺れの馬車なのに、すんなり眠ってしまったリルルの寝顔を見つめながら、ロックはジョシュアに囁いた。
「私の恋人は、このお姫様に忠誠を誓っていて、彼女の為に無事に送り届けないといけないんだ。」
「わかります。珍しいご容姿の上に、とても美しい方ですね。」
寝顔に見惚れながら、ジョシュアは頷く。
「直々に頼まれちゃったしね。努力はするさ、」
「男冥利につきますね。」
小さく笑って、ロックは頷く。
「遠く東方の国の王子が、恋に狂って追いかけている気持ちもわからなくはないよな。とっても魅力的な、可愛らしい少女だものな、」
「そうですね。海の向こうの大陸の王女が、こんな国まで出てきてくれていることは奇跡ですからね。帰国される前に捕まえておきたいところですよね。」
「捕まらせてはいけないんだけどな。」
「リルル様は我が主の公爵家の婚約者様ですからね。私としてもご無事にお帰り願わないと、首が飛んでしまいます。」
小さく笑ったジョシュアに、ロックは「すまないなあ、」と謝った。
「我が主は、遠く東方の国での利権が絡むとガードが緩くなってしまうんだ。リルル様を無事に送り返さないといけないと判っていても、綱渡りをしてしまうんだよ。」
「私の主も同じですよ。お嬢様の為になりふり構わず、王太子との婚約解消をあの手この手で進めておられますからね。」
「…一国の王太子と婚約解消を願うって、もったいない気がするのは私だけだろうか?」
ロックはさり気なく自分の気持ちを聞いてみる。
「隣国の王子やペンタトニーク公のご子息の方が、我が主にとってはいい条件なようですよ?」
「ブルーノ様の奥さまになっていただけるのなら歓迎したいけれど、貴族様のお考えになることは庶民な私にはよくわからないなあ、」
「ええ、本当に。私もそう思います。」
二人は壁に凭れてすやすやと眠るリルルの可愛らしい寝顔を見つめながら、小さく笑った。
※ ※ ※
明け方近くにハープシャー公爵領に辿り着いた馬車は、そのまま公爵の別荘へと向かった。港のすぐ近くになる大きな屋敷の前に止まると、リルルはロックに「起きてください、リルル様、」と起こされた。
先に降りたジョシュアとバランが、別荘の者たちに前公爵たちからの言伝を伝えているのが見える。
眩しい朝日の中、馬車のドアが開いて、リルルは目を細めて外の様子を伺った。馬車の外で立って待っているクグロワとサミラの顔を見つけると、急いで馬車から降りてクグロワに抱き着いた。クグロワもサミラも、疲れた様子など微塵も感じさせない笑顔をしていた。
「クグロワ、無事だったのね。」
「リルル様、大丈夫に決まっているじゃないですか、サミラが一緒だったんですよ?」
サミラにも抱き着くと、リルルは「だって、怖かったんだもの、」と口を尖らせた。
「ロックが真夜中に起こしに来て、どうなっちゃうんだろうってドキドキしたもの。」
リルルが振り返ると、ロックとジョシュア、バランがニコニコとリルルたちを見守っていた。
「リルル様、午前の定期便までお時間があります、朝食の準備をさせていただいても?」
「ありがとう、お願いします。着替えたいし、ちょっとだけでもゆっくりしたいわ。」
クグロワやサミラはさっそくリルルの荷物を持って、屋敷の中へと入っていった。
リルルは大きく伸びをして、ジョシュアとバラン、ロックに「ありがとう、クグロワたちに会わせてくれて、」と礼を伝えた。
別荘ではリルルたちは事情を理解した使用人たちに歓迎されて朝食をとった後、着替えや支度をし直して、定期船に乗船することになった。
港まで送ってくれたジョシュアとバランに別れの挨拶をして、船の甲板から手を振って別れた。
動き出した船から港を見ていると、リルルは慌ただしかったけれどそれなりに楽しい旅行だったなと思った。
また来るまで、ミカエル、待っててね、と心に思い浮かべたミカエルにゲームでの再会を誓った。
「カロヨンたちより先についちゃうのね、」と風に靡いた髪を耳にかけながらリルルが言うと、トランクを片手にクグロワは、「それはそれでびっくりさせられますね、」と笑った。
「ペンタトニーク公の代わりに私が帰国までお付き合いしますから、ご安心下さい、」
荷物をすべて船室に運び終えたロックは甲板に戻ってくると、改まった顔をしてリルルに頭を下げた。
「この定期船はペンタトニーク公の船で、リルル様の国へ直行しています。途中港での寄り道も一度しかしませんから、予定よりも早く到着できると思います。」
「ロックで大丈夫かしら、」
「クグロワ、もう少し恋人を信用しなさい。」
ロックがクグロワを嗜めると、リルルとサミラは顔を見合わせて笑った。
「無事に送り届けたらクグロワがご褒美をあげるって、約束してるんですよ、リルル様。」
「あら、素敵じゃない。私も二人にご褒美をあげないといけないわね。」
「クグロワのご褒美も欲しいですが、リルル様のご褒美も気になります。」
「リルル様もロックも気が早いですよ? まだ帰るまで油断はできませんわ。」
クグロワがむすっとした表情になってしまうと、「照れてますね、」とサミラがリルルに囁いた。
「可愛いよね、クグロワって、」とリルルが答えると、「私のものですからね、あげませんよ?」とロックも小声で言った。
「もう、大人を揶揄ってはいけません。」
背を向けたクグロワの耳が赤くなっているのに気が付いて、リルルたちはくすくすと笑って、「クグロワって可愛いね、」とクグロワの脇腹をつついた。
船は滑らかに大海へと航路を進んでいった。
※ ※ ※
中つ国から自分の国へ近くなるということは、時差もあまりなくなっていくはずよね、とリルルはぼんやりと考えながら、どうにかして誰かと接触したいなと思いはじめた。
船室では、リルルはほとんど寝て過ごしていた。真夜中の移動でお疲れでしょうと、クグロワが気を利かせてくれていた。
最初のうちは夢も見ない程眠り続け、ここにきてようやく頭が働き始めたのだった。
アーリャのことが気になっていた。もちろん、気まずいまま別れたティンクも気になる。
中央の大陸での最後の港を出ると、あとは大海を渡るだけだった。今まで無事に航海してこれているからもう大丈夫だろうとリルルは思い、夢の鍵を使うことにした。
ティンクの鍵を手にリルルはドアの前に立ち、鍵穴がぼんやりと明るくなったのを確認してドアを開けた。
ドアの向こうの世界は、初めて見る景色だった。いつものオルフェス領の白い壁の港の家ではなかった。広く青い芝生に、開けた空が青く広がる。
どこかの庭園か草原だわ。ここはどこなんだろう。
大きな池にはいくつかの噴水が沸き起こり、植えられている草木も低木や白や紫色といったささやかな色合いのものばかりで、質実剛健な印象がした。
「ティンク? どこにいるの?」
リルルは自分が乗馬服を着ているのに気が付いた。綺麗に刈られた芝生を踏む靴は乗馬用のブーツで、髪は後ろで一つにくくっていて、濃紺の上着に白い乗馬パンツを履いていた。現実の生活の中で乗馬などしたことがないだけに、今まで縁のなかった格好だった。
「リルル、ここだ。」
馬の蹄の音が聞こえて、颯爽と赤毛の馬に乗って現れたティンクを見上げた。
かっこい~! とリルルは思わず言いそうになって、慌てて照れて俯いた。そのかっこいいティンクに無理を言ったのは自分だ。馬に蹴られたっておかしくはない。揶揄って怒らせたら話にならない。
軽々と地上に降り立つと、白いシャツに黒い作業ズボン姿のティンクは馬を撫でて、「いい子だね、おうちにお帰り、」と優しく馬の尻を叩いた。馬はこくんと頷いたように見えて、ぽくぽくと厩舎の方へと去って行った。
「リルル、来たんだな、」
視線を逸らして立つリルルの顎を掴み、ティンクは引き攣り笑いをしながら語りかけた。
「リルル、まず言うことがあるだろう、」
「その…、この前はごめんなさい。」
「ああ、そうだな、まあ、お互い様ということにしよう、」
リルルの頬を撫でて、ティンクはリルルのおでこに額を寄せた。
「会いたかった。」
「もう会ってくれないかと思った。」
「バーカ、」無理やり犯したとしたら、リルルはこうやって夢の中に立ってはくれなかっただろう?
リルルを抱きしめると、ティンクはリルルの顔を見つめて、「そろそろ帰ってくるんだな?」と尋ねた。
「ええ、中央の大陸の最後の港を出たわ。うまくいけば土曜にはグロケット領の港に入ると思う。」
「そうか、来週には学校で会えるんだな。」
ティンクは目を細めて、リルルにキスをした。深く甘い口づけに、リルルはティンクが怒っていないようで良かったと思った。
リルルを抱きしめて、耳元で「少し歩こう?」と囁いたティンクと腕を組んで、リルルは歩き出した。
ありがとうございました




