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悪役令嬢の歩き方  作者: 高坂千穂
第三章 リルル 13歳
21/161

21、望まなくても価値のあがるもの

 父や宰相たちは、1月25日にグロケット領の港から出港するすべての自国の船を出国停止にすることに決めた。

 現時点で書類上は出国を認めている船もすべて白紙の状態に戻し、特に食料を積んでいる船は荷を降ろさせ、他の港に迂回するように指示を出した。外国船は、留めることもなく出国させるという措置が取られた。

 夕食の後で寛いでいたリルルの部屋に、父が決まった話をしに来てくれたので教えてもらったのだった。

 時間はあるようでない。一週間を切っていた。

「どうして今回は教えてくださるのですか?」と尋ねたリルルに、父は「グロケット公爵の子息と婚約しただろう?」と尋ね返した。戸惑いながら頷くリルルに、「結果次第では婚約を解消しなくてはならないからね、」と笑った。

「リルルの見る夢は不確定な未来であって、回避してもどう変わるかなんて変わってみてからではないと、対策が正解だったのか分からないのだ。」


 リルルは、夢は見ても夢の解釈の仕方を教えてもらえないので意味が判らなかったけれど、今回は決まった結果だけでも教えてもらえて嬉しかった。

 大抵の場合、気にするなのひと言で教えてもらえないことの方が多かった。婚約してよかったかも、とちょっとだけ思った。


「当然この判断に、グロケット公爵はさっそく抗議をしてきた。事情を伝えずに、様子を見るようにとだけに回答した。公爵には、有無を言わさず外国籍の船を優先させる国の指示が不快に取られているだろう。」

 ヨハネスは、現時見の巫女の存在が公にされていないだけに、グロケット公爵には曖昧にしておいた方がいいと判断したのだった。

 賠償金もちらつかせる公爵に揺らぐことなく、国としては無傷となる可能性に賭けていた。

「その、グロケット領の港への措置はもう通達が行ってるのですか。」

 リルルが首を傾げると、父は頷いて答えた。

「王都の公爵邸からは既に返答も帰ってきてるよ? 25日よりも前倒しで出航させるか26日にずらすかの判断は公爵に任せた方がいいからね。」

「そうですか…、」

 リルルは瞳を伏せて、海に落ちていった人たちの顔を思い浮かべた。夢の中の出来事とはいえ、大きく絶叫してとても苦しそうだった。あんな悲しみを生まないように、現実を変えていけたら…。

「その…、日にちまで決まっていることなんですね?」

「ああ、リルルの夢に出てきた巨人は、オリオン座のことだろうとわかったからね。オリオン座の正中は1月25日と昔から決まっているのだよ。」

「オリオン座の正中ですか…。」

 夢に見た本人は知らない情報だった。リルルは星を見てもさっぱりだった。図鑑を見ても何が何なのかよくわからなかった。照らし合わせているうちに、眠ってしまうのだった。

「あの、お父さま。その日は港に監査に入る日があると理由をつけるとか、異国から要人がやってくるとか、誤魔化す方法はなかったのですか?」

 父はリルルの質問に、にっこりと笑った。

「監査に入るとすれば事前に漏れてしまうだろう。疚しくなくても煩わしいと思う者は必ずいるからね。そうすると、抜け駆けするように早朝に出港する船が出るかもしれない。我々の判断が正しければ、グロケット領の船が夢の対象になる。そして問題なのはペリカンの羽がもげてしまった事だ。ペリカンは自己犠牲の象徴だ。」

「自己犠牲なのですか? 巨人に翼を掴まれて、食べられそうになったのに…。」


 大きな口を思い出すと、リルルは震えた。

 人が死んだり、血が飛び散ったりする夢は初めて見た。

 誰かが話していたり、天候が荒れたり、農作物が実らなかったりと、自分は透明人間になって見ているだけの夢がほとんどだった。

 しかも、久しぶりに、謎解きの夢を見た気がする。


「捕まると、意味があるんですか、お父さま。」

 父は大きく頷いた。

「逃れられないという意味だろう。恐らく何隻か沈没する。グロケット領の船を救出するか損失を補填するかして、我が国が甚大な被害を被る予知だと私達は判断したのだよ。」

「グロケット領の港から出るすべての我が国の船が、損失を生むのですね。」

「そうだ。何か不具合があるだとか、良くない噂がグロケット領から発信されてしまうと、それはそれで外国船の多いグロケット領の港の価値が落ちる。単に我が国の船だけを休港日にしてしまった方が、影響は少ないと推測している。」

「外国船はいいのですか?」

「我が国の港を出航した時点で、外国船が事故に遭おうと戦争に巻き込まれようと、その船の所属している国の責任に変わる。我が国の船が出国しないことで警戒して出国を取りやめるのも、気にしないで出国してしまうのも、私達の責任の範疇外のことなのだよ。」

 そういうもんなのね、と、リルルは父の話を聞きながら思った。

 何も起こらなければいいんだけどな、凶夢は当たらない方がいいな。母が倒れた時を思い出してしみじみと思った。


「ところで、リルル。」

 父は姿勢を正すと、向かいに座るリルルの顔をにっこりと笑って見つめた。

「オルフェス侯爵家に遊びに行って、どうしてリルルが寝てしまうような事態になるんだい?」

「え?」

 リルルがぽかんとしていると、父は低い声で尋ねた。

「しかもリルルと一緒にティンカードが送ってきてくれているよね? 馬車でも一緒だったそうじゃないか。」

 確かにティンクはリルルの手を握ってくれて、一緒に馬車にも乗ってくれた。

「慌てていて詳しい状況を私は聞いていなかったけれど、どういう関係なのかを詳しく、改めて教えて欲しいものだ。」

 クグロワやケイティといった侍女たちは、何故か頬を染めて控えている。カロヨンなど手で真っ赤な顔を隠している。

「ティンクとダンスを踊った後、ソファアに座ってたら足を揉んでくれたの。夜寝るとき攣らないようにって。もみもみされてたら気持ちよくなって寝ちゃって。あ、ちゃんと部屋には執事や侍女といった人達もいたわ。私が目を覚ました時、ティンクは本を読んでいたもの。」

「嘘じゃないようだね?」

「嘘なんかつくわけないじゃない。」

 リルルが可笑しそうに笑うと、父はじーっとリルルの顔を見つめた後、「そうか、杞憂か、」と言って立ち上がり、リルルの頭をわしゃわしゃと無造作に撫でた。

「お前はまだ婚約者を一人に絞っていない。それがどういうことなのかもう少し考えて行動した方がいい。」

「どういう意味なんですか?」

 上目遣いにリルルが尋ねると、父は「婚約者が一人なら許されることも、大勢いたら許されないということだ、」と意味深なことを言って部屋を出て行ってしまった。


 ぶーたれていたリルルは、お茶の用意を片付けるために傍に寄ってきた侍女たちに「ね、どういう意味か教えて?」と尋ねた。

 照れ笑いをしながら、クグロワがリルルを見て答えた。

「リルル様がティンカード様とあんまり仲良くされていらっしゃるので、男女の仲を疑われたのですよ。」

「は?」

 男女の仲って何? 首を傾げたリルルに、ケイティが答える。

「婚約をお済ませになった方は、夫婦同然の、恋人以上の関係になっておしまいになる方もあります。そういう方の場合は、婚約者は一人なので、あとは結婚するだけのことですから何も問題はないのでしょう。」

 頷いて、クグロワが、残りを続ける。

「リルル様の場合は、お一人にお決めになるまでの間は、沢山の婚約者がいらっしゃる状態になりますよね?」

「そうね、成人したら一人に選ぶのでしょう?」

「その一人を選ぶまでの間は、ややこしい関係にならないように純潔を保って欲しいと仰ったのですよ?」

「え…。」

 リルルはあまりのことに絶句してしまい、真っ赤になって俯いた。

 遊びに行った先で眠るとそういう風に見られちゃうんだ。夢を見た場所が問題になっちゃうんだ。

「えっと、ほんとに何もないのよ?」

「ええ、私たちはリルル様がそういうことに縁が無い方だとわかっておりますが…、」

「ケイティ、『縁が無い方』はちょっと厳しい意見な気がするわ。」

「雰囲気がなさすぎですから、事実だと思います。」

「ちょっとクグロワ。そこ、胸を張って答えるところじゃないと思う。」

 カロヨンはくすくす笑っている。

 リルルはお城まで付き添ってくれたティンクが無事に帰れたのか、心配になった。野次馬に何か言われたりして傷付いたりしていないだろうか。

「ティンクは大丈夫だったのかな。」

「ええ、リルル様を執務室にご案内した後、私が通用門までお見送りしました。前回お会いした時も思いましたが、あの方、年の割には枯れてますね。」

「枯れてるって…、ケイティ…、」

 ケイティよりもうんと若いと思うよ? 確かにぶっきらぼうだけど、まだ若いよ?

「明日学校へ行かれた時に、リルル様もお話されればいいでしょう、夢のことは秘密ですが。」

 侍女たちはお互いに頷きあった。

「リルル様も早くお休み下さい。明日学校へ通われるのでしょう?」

「そうね、そうする。」

 明日はティンクになんて言い訳しようかな。リルルは首を傾げてそう思った。


 ※ ※ ※


 その日は朝からリルルはそわそわしていた。今まで予知夢を見ても、具体的な日にちが出たことはなかった。何も損害が出なければリルルの予知夢の回避は成功になる。何もないといいけどなあ、とリルルは思いながら学校へ向かった。

 教室の自分の席に向かうと、ティンクがリルルの席に座って本を読んでいた。あまりにも堂々と本を読んでいるので、一瞬、リルルは自分の席がどっちかわからなくなっていた。

「おはよう。えっと、ティンクは何をしているのかしら?」

「ああ、見ての通り。」

 本を読んでいる姿勢を崩さず、リルルを無視してページを捲っている。

「私はこっちに座ってもいいのかな?」

 ティンクの席に座ろうとすると、「ああ」とだけ答えて、ティンクはリルルを見なかった。なんだろう、何か言いたいことでもあるのかな。

 リルルはティンクの席に横向きに座って、ティンクの膝の上に手を置いた。身を寄せて、小声で囁いた。

「まだ怒ってるの?」

「何を?」

「この前送ってもらったのに、見送らなかったこと。」

 父の執務室に行く間にティンクは帰ってしまい、クグロワたちが代わりに見送ってくれていた。月曜に学校で会って謝った時には何も反応はなかったのに、今更な気分だった。

「ティンクには感謝してるわ。足で揉んで貰って、嬉しかった。」


 リルルの柔らかい足の感触を思い出して、ティンクは少し照れてしまった。リルルが帰った後、自分の部屋に戻るととても寂しく思えた。

 ずっと傍にいてくれたらいいのにと、リルルが座っていたソファアを眺めていたなんて言えなかった。


「そんな昔の話は忘れた。」

「じゃあ、何?」

「明日、高等学校に行くんだろう?」

 ミーシャとの約束の日だったっけ。すっかり忘れていたリルルは、動揺を誤魔化した。

 リルルの中では、今日の方が重要だった。大勢の人の運命がかかっていた。

「代わりに行く?」

 冗談で提案すると、「バーカ、」と振り向いて、やっとリルルを見てくれた。

「ティンクって不思議ね。」

 リルルはくすくすと笑いながら言った。

「何が?」

「私のこと、気にしてくれたりするのね?」

 当たり前だ、私は君の婚約者だぞ、君が一番好きだから婚約者のままでいるんだぞ、と言いそうになって、ティンクは言葉を飲み込んだ。

 ティンクはリルルの肩越しに、教室の出入り口に立つアレクセイの姿を見つけていた。

「リルル、お客さんだ、」

 冷静にリルルに告げると、リルルは振り返ってアレクセイの姿を見つけると、「アーリャ、」と嬉しそうに手を振った。

 リルルがアレクセイの傍に駆け寄っていく後ろ姿を見送ったティンクは、そっと、座っていた席を変えた。


「リルル、おはよう、ちょっといいかな。」

「アーリャ、おはよ、朝から来てくれるなんて珍しいね。」

 お昼のランチをたまに一緒に食べる仲のアーリャは、嬉しそうに目を細めた。

「あのさ、リルル、この前お城で護身術、習っただろ?」

「ええ、みんな盛り上がってたわね。」


 リルルはその間、ルーファスと話が出来て都合がよかった。

 あの日以来、土日に開かれているお城の護身術の講習会に、エリースたちの姿が混じるようになったとクグロワたちから聞いていた。それぞれ婚約者達と一緒に参加しているらしかった。

 その後見た夢で、スキンシップがはかれていいよね、と姉リルルがニヤニヤしながらこたつで蜜柑を食べていたのを思い出す。だいぶ透けてるんだよねと心配になる。


「僕の兄も結構刺激を受けたらしくってさ、この前お父さまに頼んで、王都の屋敷で護身術の体験会を使用人たちとやったんだよ。」

「へ~、ハマっちゃったのね。」

「そうだね、でね、講師で来た先生が女性なんだよ。」

「すごいね、女の人がそういうことを教えているのね。」

「何でもアイキドーの王都の支部の師範代なんだって。」

「すごいね、会ってみたい!」

「ふふ、リルルがそう言うかと思って、今日は誘いに来たんだよ。昨日了承の返事が来てね、」

「ありがとう、アーリャ。それっていつ?」

「先生にも都合があるから、2月に入ってからかなと思うけど、どうする?」

「2月…、」

 グロケット公爵の誕生日の舞踏会があったよね、とリルルは思い出す。お城に帰ったら予定を確認しよう。舞踏会に向けてダンスの練習もうんざりするほど続けている。

「ちょっと確認してからでもいい?」

「大丈夫だよ、来週にでも教えてくれれば。」

「わかった。ありがとう、アーリャ。」

「今日はランチ、一緒にしても良いよね?」

「ええ、よろしく。」

 リルルの髪を触って、アーリャは「またね」と頬にキスをした。

「毎度のことだけど、その挨拶、照れるわ。」

 アーリャのうちでは普通らしかった。

「慣れて? 婚約者さん。」

 くすくす笑うと、アーリャは自分の教室に帰っていった。


 自分の席に帰ると、ティンクが呆れたようにリルルを見つめていた。

「リルルはあいつのことが好きなのか?」

 にやっと笑って断言を避けたリルルに、「バーカ、」とティンクは小さく呟いた。

 リルルはアレクセイのことを好きなわけではないんだろうな、とティンクは思った。好きなら好きと言うか、頬を赤らめて俯くだろう、ミハイルに対しての反応のように。

 あんなに好意を向けてもこういう反応なのかと思うと、少しだけアレクセイに同情してしまい、ティンクはこの小悪魔め、とリルルを見ながら思った。


 ※ ※ ※


 放課後、馬車が迎えに来るまで時間があったリルルは、一人で図書館へ向かった。

 旗の図鑑は、確か資料庫にあったよね、と夢で見た旗を確認しに出かけたのだった。

 めぼしい図鑑を何冊か手に取ると、恋人たちの窓へ持って行って座って調べ始めた。この前ここへはティンクと座ったっけ。ティンクの瞳や唇を思い出すと、耳が熱くなる気がした。

 そんなことを思い出しても、ティンクは今ここにいないのに。


 唇を噛んで図鑑を調べていると、三角の白色と水色の旗はグロケット領の領旗だと判った。ポールに二つ縦に並んでいる旗の様子は、夢で見たのと同じだった。

 緑色に黄色いしま模様の旗は、南方の大陸の海岸沿いにある国の一つだった。あまり交易がない国で、あまり豊かではない国だとしかリルルは知らなかった。

 お父さまは、食料を積んだ船は他の領の港から出国させると言っていたわ。もしかして食料を略奪する海賊船か何かなのかしら。

 戦争が始まるのはいつだって食べ物からだわ。

 リルルは俯いて、図鑑に描かれた国旗を指で撫でた。

 去年一年でリルルが見た夢で、天候の変動を予知するような夢は何回かあったように思った。父や宰相たちは、その度に食料を輸入したり輸出を制限したりして、国の食糧状況が大きく変動しないようにしていた。おかげで値段の高騰もなく、この国に大きな危機はなかった。

 どうなっちゃうんだろう。戦争なんか嫌だ。


 他の資料を探して、その国のことを知ろうと思った。図鑑を閉じて立ち上がろうとしたリルルは、本棚に凭れて腕を組んで、じっと自分を観察しているティンクの姿を見つけた。

「ティンク、いつからいたの、」

 リルルと目が合うと、ティンクは黙って近付いてきた。リルルを出窓に押し戻し座らせると、腕の中にリルルを閉じ込めた。

「ここにいるってことは、こうして欲しかった?」

 耳を食まれ、リルルは俯いて頬を染めた。

「違う。たまたまだわ、」

「リルルはキスが好きだよね?」

 耳に口を付けるように囁かれると、ドキドキして動けなくなる。リルルは覆い被さるように自分の動きを殺すティンクに戸惑いながら、「でも、しないわ、」と答えた。


 今、そんな気分じゃなかった。戦争が起きるかもしれないのに、自分の喜びを願う場合ではないだろうと思った。

 苦しむ人が減るように行動するのが王族の務めなような気がした。だから、父や宰相は行動を起こした。


「どうして?」

 ティンクはにやりと、リルルの瞳を見て小さく笑った。

「私が王女だからよ?」


 今はそうとしか言えなかった。明日になってみないと、今日一日の出来事の結果は判らない。誰も死なないでいて欲しいけれど、まだ一日は終わっていない。

 リルルの毅然とした微笑に呆気に取られたような顔をして、ティンクは笑い出した。

 あれ? 私、変なこと言ったかな?


「そうだね、王女様だ。私は君が好きだ、リルル。すべてを捧げてもいいくらいに。」


 何を考えているのか判らないリルルが好きだ。傍にいるといつも意表を突かれる。今だってそうだ。まさか王女だからキスをしないと言われるとは、思ってもいなかった。

 ティンクはリルルの手を取ると、手の甲にキスをした。

 臣下としてリルルに従うと、貴族の子息として、誓った。


 ティンクはリルルの手元にある図鑑や資料を目にして、「それは?」と尋ねてきた。リルルは「何でもないわ」と微笑んだ。

 それは、起こるはずだった未来と回避した未来で、今の時点では秘密だ。

「何か誤魔化しただろう?」


 ティンクが見つけた時、リルルは領旗を熱心に調べ、南方の国の国旗を険しい顔で見つめていた。

 誰にも見つからずに探すことには思えなかったから、声をかけずに様子を伺った。何か理由がないと、旗なんかこっそり調べたりは普通はしない。


「何も?」

「何かあったのか?」

 何も起こらなかったはずなの。リルルは唇を噛んで、ティンクを見つめた。

 綺麗な顔のティンクが瞬きもせずに黙ると、人形みたいだわ。まるで、生きていないみたい。


 ふいに、海に落ちていく人の顔や悲鳴を思い出した。体にかかる何かの液体の感触を思い出す。

 体が、皮膚が、ぞわぞわと悪寒で汗ばむ。


 何度か瞬きして、リルルはこの人が今いてくれてよかったと思った。

 誰かに縋りつきたい。怖い。心が凍えてしまいそうだった。

 リルルはティンクの頬に手を添えて引き寄せると、自分からキスをした。唇を深く重ねて、舌を絡める。

 ティンクの手が、リルルの頬を撫で、髪を撫で、体を撫でた。肌に伝わる熱は、生きた人間の暖かさだった。

 綺麗な顔のティンクが生きているか死んでいるのかは、私にはキスをしないとわからないことなのかもしれない。

 この人は静かな情熱を隠して、感情を殺して生きているんだわ。


「キスはしないんじゃなかったのか?」

「やっぱり気が変わったの。」

 あなたが生きている証拠が欲しかった。そう思ったリルルは、本当は、自分が生きているか実感が欲しかっただけなのかもしれないなと、思った。

ありがとうございました

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