ナスとキュウリで踊りだす
連日、明晰夢を見ていた。私はひとりやぐらの上に立っていて、どこかから祭囃子が聞こえてくる。
やぐらを取り囲むようにして私の背丈ほどある巨大なナスとキュウリが四本足を生やして踊っていた。
牛田さん直伝の夏野菜料理はどれも絶品だけれど、夢にまで見るほどだとはと思わず苦笑してしまった。
グルグルとやぐらを回り踊るナスとキュウリたち。その中に人間が混ざっていることに気がついた。
榎本家のご主人と達也くんがナスにまたがっていた。メリーゴーラウンドを内側から眺めたらきっとこんな感じなのだろう。
達也くんの笑い声が背後に回る頃、今度は鷹林さんが現れた。彼のまたがるキュウリは大きくたわんでいる。ああ、折れる、折れるぞと思っている間にキュウリは真っ二つに割れて鷹林さんは派手な音を立てて尻餅をついた。その音で榎本家の奥さんがパタパタと駆けつけてくる。
足をジタバタさせているキュウリをふたりがかりで起こしてあげると、それは上半身と下半身がバラバラのままに再び円陣の中へと消えていった。鷹林さんは今度は太めのナスに乗り直す。奥さんは、一周回って戻ってきたご主人たちのナスにまたがった。
祭囃子の音が大きくなる。そこかしこで真っ赤な提灯が気球のように空中を漂っている。その提灯が膨張するにつれて上昇をし始めて宙を舞い踊る。その内に提灯が隊列を成して、一筋の光のラインが完成した。それは天空を目指しているようだ。
提灯でできた道をナスが歩き出した。アパートの住人が乗ったナスも続いてのぼり始める。やぐらに取り残された私を、榎本家のご主人がおいでおいでと手招きをした。目の前を通過していく最後の一匹ナス。そのお尻に大慌てで飛びついたところで夢から覚めた。
実に不可思議な夢だった。まだあの祭囃子が耳鳴りで残っている気がする。ぐうと背伸びをして時計を見ると朝の十時を回ったところ。少し眠り過ぎてしまったようだ。
今日は馬場さんに宣告された当日であるが、何にも変わった気がしなかった。しかしそれも達也くんの奇行を目撃するまでのことで、宣告された最終日はやっぱりいつもと変わった一日であったのだ。
「くるくるー。くるくるー」
玄関を開けると階段のところに達也くんがいた。一本調子に歌いながらなぜか階段を上り下りしている。奥さんは困ったような表情を浮かべ、ご主人はすっかり青ざめていた。
「たっくん、降りてきなさい!」
奥さんがたしなめる。榎本一家は二階の私に気がついて、慌てて達也くんを捕まえたのだった。奥さんの腕に抱かれた達也くんは、真ん丸の瞳を私に向けている。
「どうかなさいましたか」
「この子ったら、起きてからずっとこんな状態で……」
こんな状態とは、と首を傾げると達也くんは拙い言葉で必死に私へ何かを訴えてきた。
「くるくるーってなってね、どーんってしたの。どーんって、たっくん、どーんってしたの」
その言葉の意味を解釈するならば、ひとつだけ心当たりがあった。不思議に見続けたあの夢を、もしかしたら達也くんも見ていたのではないかということだ。どーんはよく分からないが、くるくるしていたことには違いない。
奥さんはますます困惑している。しかしご主人の方は今にも卒倒しそうなほど青ざめているくせに、その表情には怒りすらも見えていた。
「きゅーってしてね、くるくるーってなってね、それからどーんって……」
「やめてくれ!」
パチンと乾いた音がして、次の瞬間には達也くんの泣き声が轟いた。奥さんは「どうして叩いたの!」とご主人を詰る。私はどうすることもできずに静観するばかりだ。
最初に気がついたのは号泣していたはずの達也くんだった。私ではなく、さらにその向こう側へと視線が注がれている。次にご主人、そして奥さんまでも同じ方へ視線が向いて、それから私も振り返る形でそちらを見た。
気配もなく立っていた牛田さん。いつも通り柔らかいはずのその笑顔に言い知れぬ不安感を抱く。
「朝から皆さん、元気なことで」
「どうも、騒がしくてすみません……」
ご主人が伏目がちに牛田さんへ頭を下げるが、その瞳は恐怖に染まりきっている。私は再び牛田さんを見やる。
「あっ」
不意に背中を突き抜けた冷気。出てしまった声を飲む込むように唇を結んだが、先の不安感はますます膨らんではちきれそうだった。牛田さんは眉を下げながら静かにつぶやいた。
「……残念ね、もうそろそろでお別れみたいね。もっとみんな、ゆっくりしていけばいいのに」
心臓が踊っているのかと思うほど激しく動悸して立ちくらみしてしまう。ご主人は膝から崩れ落ちてすっかり縮こまっていた。
私、なんでここに住んでいるのだろう。
不安感の正体は、違和感だった。なんで私はここに。その引っかかりを解きほぐすように、達也くんの無邪気な声がささやかれた。
「パパ、ぼく、もうヘーキ」
その言葉にご主人はとめどなく涙を溢れさせた。奥さんは未だに状況を掴めていないようだが、達也くんはおしゃべりを止めなかった。
「ママ、ねんねしてたもんね」
「たっくん、どうしたの?」
「どーんってしたとき、ねんねしてたもんね」
足りない語彙を必死にかき集めながら達也くんは訴えを続ける。その目は幼児のそれではない気迫があった。
「でもね、でもね、たっくんもすぐねんねしたの。だからもう、ヘーキなの」
「達也、ごめんなあ」
「もうヘーキなの。パパとまた、しゅうしゅうしゃであそぶの」
ぷくぷくの小さな指が、路地を走り去るゴミ収集車を指した。達也くんは車が好きだったと聞かされている。
「ねえ、あなた。どういうことなの……」
奥さんは困惑を消せないでいるままだ。ヘーキという達也くんの主張は、さっき叩かれたことではないのは私でも気がついていた。奥さんを諭すようにご主人は口を開いた。
「もういいだろう。そろそろ分かってくれよ。俺たち、もうここにいるべきじゃないんだよ」
「またその話なの?」
「俺たち、もうとっくに死んでるんだからさ」
いつだって具合の悪そうなご主人は、もうそこにいない。
――カーブの直前でタイヤがバーストしたんだよ。美優もこれだけは覚えているよな。ダムの観光放水を見に行こうって言った帰り道だよ。U字カーブが続いていたからそんなにスピードは出していないつもりだったけど、曲がり角の直前じゃあ……そこだけガードレールが途切れていたんだ。言い訳にもならないね。ハンドルは取られてしまったしブレーキは間に合わなかった。
榎本一家を乗せたファミリーカーはそうして、ガードレールの隙間をすり抜け崖を転げ落ちていった。ご主人が最期に聞いたのは下を通る沢に叩きつけられる音にかき消された達也くんの叫び声だけだ。
奥さんにとっては幾度となく聞かされていた話のようだけど、奥さんもまた表情が一変していた。クマの取れず神経質な雰囲気を振りまいていたのに、すとんと憑き物が落ちたような清々しさすら見せている。
「そっか、そうだったの……」
「お前は寝ていたから知らないだろうけど、達也には恐ろしい思いをさせてしまったよ」
「いいえ。ここにきてからずっと、そんな夢を何度も見ていてあまり寝れなかったの。貴方もてっきり同じ夢を見ているんだと思っていたから、本当にただの夢だと思っていて……」
彼らはとっくに死んでいるとは?
私は三度牛田さんの方へ顔を向けた。私はこの表情に覚えがある。先立った息子たちを偲んでいた時と同じ表情だ。
達也くんも落ち着いたことで、榎本一家は自部屋へと引き上げていった。これから彼らはどうなるのだろうか。きっとこの裏野ハイツで過ごす時間は残りわずかであろう。残された私は牛田さんと顔を突き合わせるばかりで、頭の中では疑問符が駆け巡っている。
降ってくる感覚とはこのことなのだろうか。なんで私は、ここにいるんだろう。きっと榎本家のご主人と、そしておそらく先日突然に現れて突然に消えた青年もこの疑問に悩まされ続けていたのだろう。
「私も、死んでますか?」
不思議と怖くもなくそんなことを牛田さんに尋ねていた。牛田さんは息を吐くように頷いた。
「馬場さんはいつも言うのよ。死者はさっさと成仏させるべきだと。私はそうは思わないの。ちょっとくらいゆっくりしていっても、どうせあっちの世界は長いんだから」
でものんびりするなら住み心地をよくしないとね、そう付け足されて牛田さんと馬場さんの家だけリノベーションされていない意味を知る。一〇一号室の鷹林さんも綺麗な部屋に住んでいるから、とっくに死んでいる人なのか。
「住み心地はどうだったかしら」
「死んでる気がしないんで、最高なんだと思います」
「それは良かった」
成仏するまでの時間を長引かせることが良いのか悪いのかと問われれば即答できかねるが、馬場さんの騒音被害を差し引けばそう悪い日々ではなかっただろう。その騒音だって今思えば、無意味な騒音などではなかったのかもしれない。これは彼の口から直接聞かねばならない。
「ねえ牛田さん。ありがとうございました」
「私もぼちぼちお迎え来るだろうから、その時はまたよろしくね」
互いに手を振り合う。もう私は牛田さんを見ることはない。
そしてまっすぐに一〇二号室のチャイムを鳴らした。「入ってこい」という声がして、思わず笑みがこぼれだす。迷惑なだけだと思っていたおじさんだけれど、なんだかんだで苦労人なんじゃない。
「ねえ馬場さん。とりあえず私に謝ってください」
「なんだと」
「やっぱり天井をドカドカされるのは迷惑です」
「いつまでも居座るヤツが悪い」
「どうせ最期なんだから、のんびり穏やかに過ごさせてくださいよ」
「なんだと。あのババアに何を吹き込まれた」
「あの天ドンって、除霊的な何かですか。お札貼りとか、もっとサイレントな感じにした方が良いと思いますよ。もし私が反感覚えて地縛霊にでもなったらどうするんですか」
「その時は建物丸ごとお焚き上げにしてくれる」
「二度焼き勘弁してください。もう火葬されてるはずなんで」
馬場さんの額に青筋が浮いているけれど、今はそれすらもおかしく見える。
「私はどうして死んだんでしょう」
「俺が知るわけないだろう」
「えー。榎本さんは知ってるのに?」
「あれは事故だからな」
「ということは私は事故死じゃないと」
「どうだろうな。嫁と同じパターンもあるぞ」
「寝てる間に死んじゃった系ですか」
うんうんと頭をひねってみてもまるで心当たりがない。私は危ない趣味もなくごくごく平均的な暮らししかしていなかったはずだ。風邪だって滅多に引かない健康体だったのに。
「あんまり気にするな。自殺とか、隣の旦那みたいなのでもない限り大抵は知らない奴ばかりだよ。一号室の親父もそうだ」
「鷹林さんもそうなんですか?」
「見りゃ想像はつくけどな。どうせ寝ゲロでも詰まらせたんだろ」
「お酒かっ」
大好きなお酒で死んだなら本望なのか。人間、二度は死ねないからもう死ぬ心配もない。好きなお酒も飲み放題だし、鷹林さんがいつまでもここで暮らしている理由も見えてきた。それならば私は……。
「答えの出ないことは考えないほうがいいんだぞ」
「あの世に行けば自分の死因が分かりますか?」
「行ったことねえから知らねえよ」
「うわー、無責任」
「さっさと行っちまえ!」
ドカンと弾ける音が鳴り飛び上がる。別にこれ以上居座る気分ではないのだけれど。
「あとひとつだけ質問させてください。どうして馬場さんと牛田さんはこんなアパートに住んでるんですか」
「あの世も今、人がいっぱいで順番待ちなんだよ。お前だってそれまでの居場所がないと困っただろ。居場所を用意してやってんだ、感謝しろ」
「成仏にも順番待ちとか世知辛いですね」
「あとが詰まってるんだからお前もさっさと出て行け」
「あんまり乱暴なやり方だと、マジでいつか取り憑かれますよ?」
「毎年暮れにお祓いしてる。余計なお世話だ!」
ピシャリはねのけられたらそれっきり。私は馬場家を後にする。もうそろそろ行かねばなるまい。
気分は明るい。車に轢かれかけた幼女を身を挺して守ってみせたとか、そんな誇れる死に様であれば文句なしなんだけれど。