プロローグ
カタ、カタカタ、カタン、タンッ。不規則な音が、静かな六畳一間を闊歩する。正月明け、まだまだ寒さで凍えそうな冬のど真ん中。僕は底冷えするフローリングに座りながら、テーブル代わりの段ボール箱の上でノートパソコンを開き、ひたすらキーボードを叩き続けていた。先日外着から部屋着へと降格したばかりのボロボロのダウンジャケットをはおり、空調も付けずに耐えしのんでいるのはもちろん、つまらない意地なんかのためではない。
四時間、五時間。やがて僕は手を止め、大きく伸びをしつつ顔を上げた。シミだらけの低い天井が、今にも崩れ落ちそうに眼前に迫る。思わず漏れたため息が宙に向かって白く伸びてゆく。まるで僕の苦悩を濃縮してできたようなそれは、誰に届くこともなく、このまましけた板張りに吸い込まれて新たなシミとなるのだろう。
僕は働いて一人暮らしをしながら、趣味で執筆活動をしている。否。趣味というのは表向きの言い訳で、本心ではプロの作家になりたいと願っている。真面目な転職活動なのだ、心意気だけは。
しかしなかなか結果が出ず、もう何年もうだつの上がらない貧乏アルバイターに甘んじている。一発当てて人生大逆転! なんて夢想に逃げてみても、生々しい空腹にすぐ現実へと引き戻される。
プロへの道は果てしなく遠く、険しい。
最近もとある小説投稿サイトで長編の連載を始めたところだ。が、ハッキリ言って全然可能性を感じない。
ジャンルは本格ミステリー。天才高校生探偵である主人公・葉栗千博がある日、校内で起きた殺人事件の現場に遭遇する。解決に向けて動き出した彼は、すぐに三人の犯人候補を洗い出す。しかし全員に完璧なアリバイがあり、これからどうアリバイを突き崩していくか……というところで、ぱったりと手が止まってしまった。
問題はいくつかある。
一つ。読者反応の悪さ。
いつもそうなのだが、僕の作品には固定読者が付きづらい。最初の数ページは読んでもらえても、起承転結の承にも至る前に皆離脱してしまう。
なぜか? 考えられる理由としてはおそらく、大衆ウケしない高尚なストーリー、凡人には理解し難い極めて文学的な描写、深すぎるメッセージ性。え? ジツリョクブソク? ……知らない言葉ですね。一体何語でしょう。
とにもかくにも、こんなに読まれないんじゃさすがにむなしいし、やる気も持続しない。
二つ。事前にトリックを全く考えていなかったこと。
これはちょっとだけ僕にも非がないこともないと認めざるを得ないのだが、僕はいつも「こういうシーンが書きたい!」と思ったら衝動を抑えきれず、ろくにプロットも組まずに見切り発車で連載を始めてしまうのだ。
例えば今回の場合、サスペンスの定番である犯人を崖の上でネチネチ追い詰めるアレをやりたい。じゃあ早速連載開始だ! とりあえず死体転がして、犯人候補を三人ぐらいポポポポーンッとお出しして、適当にアリバイ作って……までは良かったが、そのアリバイを崩す方法が思いつかず、頓挫してしまったのである。
書・即・詰。
いやはや、崖に辿り着くのがこれほど難しかったとは。ちなみにそんなんだから読まれないんだろうというご指摘は、効くのでやめてほしい。
そして三つ。これが一番重要で、致命的だ。
僕が利用している小説投稿サイト。そこは恋愛ジャンル(特に異世界モノのハーレムラブコメ)が栄華を極めるお花畑サイトであり、その他のジャンルではなかなか人気が出づらいのだ。
僕はこれまでずっと、愛だの恋だのにうつつを抜かす物語より「純文学」「ヒューマンドラマ」「本格SF」「時代小説」など硬派なジャンルを好んで書いてきた。なぜなら、僕が読者に伝えたいメッセージはラブでもコメでもない。もっと崇高で、高邁で、神聖で、プラトニックで、アーティスティックで、ドラマチックでエキゾチックでファンタスティック! なものだから。断じて、恋愛経験に乏しいから書きたくても書けないわけではない。本当だ。信じてほしい。
そんなわけで、今まで僕は矜持を持って恋愛描写を忌避していたわけだが。先ほど更新したページについた一つのコメントが、そんな誇り高きマンネリにそっとヒビを入れた。
【この人の作品、いつも童貞臭がするなw】
事実かどうかはさておき、動揺した。このアイコンは、僕にとっては数少ない常連の読者様。これまで孤独な執筆生活を支えてくれ、信頼していたその方に、僕はずっと童貞臭いと思われていたのだ。
悔しい。確かに、恋心やそれを匂わせる過激描写、「手を繋ぐ」などの性的すぎるシーンは今まで意図的に省いてきた。だが、そのことを=童貞と結びつけるのはいささか短絡的ではないだろうか? ってかお前こそ童貞なんじゃないの? 童貞って言う方が童貞だし、バーカバーカ!
……つまり何が言いたいかというと、僕にもプライドがあるのだ。恋愛モノを描かないからといって勝手に童貞だと決めつけられるのは癪に障る。事実かどうかはさておき。事実かどうかはさておき。
僕はもう一度天を仰ぎ、白い息を吐く。そしてパタンとパソコン画面を閉じると、仰向けに身体を投げ出した。
どれほどの時間が経っただろう。無意識に天井のシミを数えていた僕の身体は、突然稲妻のごとき快感に貫かれ、そして、賢者になった。
――読者を見返したいのなら、恋愛モノ童貞を捨てればいいじゃない――。
簡単な話だ。恋愛を描かないせいで童貞扱いされるのならば、描いてみせればいい。この三二年の人生で得た豊富な恋愛経験やテクニックを駆使した、至高のラブコメ小説を。カリ首洗って待ってろよ、このクソ童貞読者めが。
決意した僕はいつものように衝動に身を任せ、再びパソコンを立ち上げた。画面の中では、僕の分身である主人公が相変わらず、難問を前にウジウジと立ち止まっている。僕は遠く過ぎ去りし日々に思いを馳せつつ、語りかける。
いいか。今、お前が解くべきは殺人のトリックなんかじゃあない。思い出せ。
中学時代。授業中に二回も目が合ったあの子のこと。
高校時代。消しゴムを拾ってくれたあの子のこと。
大学時代。奇跡的にアパートの隣室だったあの子のこと。
想像しろ。運命のいたずらでついぞ結ばれることはなかったが、一度は心通じ合った彼女たちとの甘い学園生活を。そしてラブもコメも経験し、ロマンティックを掴み取ったその先で……僕の代わりにお前が、オトナになれ。
心のままにキーボードの上で指を踊らせる。白紙のページが文字で埋め尽くされていくと、僕の手で、天才高校生探偵はもう一度歩み始めた。
アリバイ崩しなんかよりもっとずっと難しい、恋の連立方程式を解くために。




