第二十二話 熱砂舞う地で -3-
玻璃球を取り戻して教会を出たハキムは、一度は相まみえた過去の自分を捜し歩くことにした。不条理な幻の中で、はっきりとした目論見があったわけではない。単純にこのころの自分はどんな顔をしていたのか、かつての知己と会う内に確かめてみたくなったのだ。
日干し煉瓦に覆われた室内は案外快適なのだが、直射日光に晒される路上の暑さは現地民でも耐え難い。それでもハキムは、探し求めることこそが意味をもたらすのだろうと信じた。刻々と増していく渇きに喉をひりつかせながら、熱砂の舞い上がるスラムを行く。
途中で一度、古い井戸を見つけて覗き込むと、底の方からわずかな水の気配がした。ハキムは足を止め、深くまで釣瓶を下ろして塩味のする水を飲んだ。
喉を潤すと、疲弊していた五感がいっとき鋭さを取り戻す。ふと耳を澄ますと、どこかから金属同士の擦れる音が聞こえた。それはハキムにとって馴染みのある音だった。
桶に余った水で首の後ろを濡らし、井戸をあとにする。音の出所を探してみるつもりだった。
カチカチ、カチ、となにかが不規則に鳴っている。これは鍵穴に金属の器具を挿し込み、錠を外そうとしている音だ。しかし、お世辞にも巧いとはいえない。明らかに力任せだし、時間もかかり過ぎている。こんな風にするぐらいなら、扉を蹴破ったほうがまだしもスマートだ。
ハキムが路地を東に向かうと、そこはスラムの出口だった。音は細い通りを挟んで反対側から聞こえる。どれだけ不器用な人間が鍵開けをしているとしても、これほど遠くまで音が届くはずはない。町に蔓延る歪みによるものか、あるいは啓示めいたなにかなのか。
人の行き交う通りを横切り、漆喰の塗られた倉庫らしき建物の裏に回る。足音を忍ばせながら角の向こうを覗き込むと、戸口に跪き、鍵穴になにかを挿し込んでいる小柄な姿が目に入った。ハキムから玻璃球を盗んだ子供、チビに間違いなかった。
焦っているのか、集中しているのか、こちらの存在に気づく様子はない。ハキムは彼の視界に入らないよう注意しつつ、その無防備な背中に忍び寄った。
逃げられない距離まで近づいてから、がっしりと左右の二の腕を掴む。捕まえるだけなら殴りつけるのが手っ取り早いが、さすがにそれは憚られた。
「おいクソガキ。ちゃんと後ろにも注意しないと、長生きできねえぞ」
いきなり自由を奪われたチビは、身体をこわばらせて動きを止めた。暴れられても面倒なので、ハキムは手に力を込める。
「乱暴する気はないから安心しろ。道具を折るなよ。鍵穴が詰まったら面倒だ」
なるべく敵意を感じさせないように言うと、チビはほんの少し肩の力を抜いた。
「あの玉っころを取り返しに来たのか?」
「いや、それはちゃんと返してもらった」
「……シスターになにかしたのか?」
「普通に話しただけだ。知り合いみたいなもんだからな」
肩を掴んだ手を外しても、チビは逃げなかった。振り返り、ハキムと正面から向かい合う。チビは確かにハキム自身だった。改めて見ると、憎たらしい、小賢しい感じの顔をしている。精神的、肉体的に飢えた人間特有の、ぎらぎらした光を両眼に宿していた。
背丈だけ見れば八歳か九歳ぐらいの子供と同じだが、実際の年齢はもう少し上だろう。もっとも、ハキムは自分が正確にいつ生まれたのか知らないので、年齢も大体のところしか分からない。
「じゃあ、なんの用だよ」
「探し物をしてる」
「探し物? なにを」
「分からん」
はあ? と声を上げ、チビは狂人に向けるような目でハキムを見た。至極真っ当な反応ではあるのだが、もしかするとなにかを知っているのではないか、というわずかな期待は裏切られた。
「それより、お前はなにしてんだ」
気分を切り替えて、ハキムはチビの背後にある建物を見た。覚えがあるような気もするが、このあたりの建物はどれも同じような外観なので、個々の用途が判別しづらい。
「ここは人さらいの家だ。昨日ダチが捕まったらしいんだよ」
「ああ」
思い出した。これも過去にあった出来事だ。
「やめとけやめとけ。どうせ無駄だし、後々厄介なことになるぞ」
「うるせえ。お前には関係ないだろ」
チビは吐き捨てるように言った。こういう頑固なところは昔からだ。彼は再び鍵穴に向かい合い、カチカチと不器用な音を立てはじめる。中々開かない。
「クソ」
「……どけ、俺がやる」
焦れたハキムはチビを押しのけ、自らが解錠してみせることにした。案外素直に場所を替わったチビには、背後を見張らせておく。
一度鍵穴から器具を取り出して眺めると、それは器具とも言い難い、ねじ曲がった針金に過ぎなかった。それでもハキムの技量をもってすれば、単純な錠を外すぐらいわけはない。
それをもう一度鍵穴に挿し込み、手指の感覚ですぐに正解を探り当てる。ふた呼吸の間に、錠はカチリと小気味よい音を立てた。
背後のチビに対して沈黙のジェスチャーを示してから、ゆっくりと扉を開ける。
「おい、カウィ。いるか」
隙間から中に滑り込んだチビが、ささやき声で友人に呼び掛けた。ハキムは後ろ手で扉を閉め、彼に続いた。
中はやはり倉庫のようで、埃っぽい床には樽や木箱、重ねられた羊毛の束などが置かれていた。動く人の気配はしないが、奥の暗がりに倒れた子供の姿がある。それを見てチビが声を上げた。
「カウィ!」
ハキムも倉庫の奥に進み、カウィと呼ばれた少年の身体を見た。背格好は十歳前後。痩せた手足は荒縄できつく拘束され、噛まされた猿轡には血がにじんでいた。見開かれた眼は白く濁り、首が不自然な方向に曲がっている。
カウィは無残に死んでいた。
彼をさらった人間も、はじめから殺すつもりはなかったのだろう。そんなことをすれば、労働力にも商品にもならない。しかし抵抗されたのか、たまたま虫の居所が悪かったのか、うっかり殴るか蹴るかで死なせてしまったのだ。
とはいえ、人さらいからすると大した損失というわけでもない。スラムの子供を誘拐するなら元手はゼロのようなものだし、死体の処理も、砂漠の適当な場所に放置して、風化するに任せるだけでいい。わざわざ彼を探して、官憲に通報するような人間もいない。
それは確かに不条理で悲惨な事件だったが、ラウラでは比較的ありふれた出来事でもあった。特に守る者のいないスラムの子供は、強欲な大人たちにとって格好の餌食だったのだ。
ハキムは傍らに佇む自らの分身を見た。彼は友人の死に対して、泣きも叫びもしなかった。表向きは怒っているようにも見えなかった。あのとき自分はどのような気持ちだっただろう。ハキムは思い出そうとしたが、今一つはっきりしなかった。
「……大人はいつも俺たちから奪いやがる」
なにも与えられず生まれた子供の、それが偽らざる言葉なのだった。しかし目前の死体に比べれば、彼は恵まれているはずだ。なんとか幼少を生き残っていくだけの賢さがあり、多少なりとも目をかけてくれる大人がいたのだから。そして今や、自分一人で生きられるようになった。
「まあ、生きてりゃそのうちいいことあるって」
「他人事だと思って適当言いやがって」
我ながら安易な慰めだった。不快に思われるのも当然だと言える。
そのとき、閉めてきたはずの扉がぎしりと軋んだ。慌てて振り返ると、戸口に倉庫の持ち主と思しき人間が立っている。口髭を蓄えた中年の男だ。
「そこでなにしてやがるネズミども!」
男の腰には立派な短剣が吊られていた。ハキムは倉庫の奥から助走をつけて、武器を抜こうとしていた男の半身に体当たりを食らわせた。相手はよろけながらもこちらを捕まえようと腕を伸ばしてくるが、背後から近づいたチビがその金的を思いきり蹴り上げた。乾いた風に苦悶の声が混じる。
「おい、とっとと逃げるぞ」
誘拐と殺人を官憲に訴え出たところで、逆に濡れ衣を着せられるのがおちだろう。ハキムとチビは先程来た通りを戻り、スラムに逃げ帰った。
「あの野郎、いつかぶっ殺してやる」
チビが口汚く罵るのを聞きながら、入り組んだ路地を二、三度曲がる。ハキムは少ししてから走ってきた道を振り返り、追手がないことを確かめた。
「きっとアイツもそう思ってんだろうな。嫌な町だ」




