第二十三話 熱砂舞う地で -4-
「いつまでついて来んだよ」
狭苦しいスラムの路地を、二人はどちらが先導するでもなく進んでいた。チビがなにも知らないと分かってもなお、ハキムが彼と共にいたのは、この後に起こることが気にかかっていたからだった。
それは当時、ハキムがさらわれた友人を救い損ね、肩を落としてスラムに戻ろうとしていたときに起こった。午前には出ていなかった霧が低く立ち込め、気温が急激に下がったのを覚えている。
不穏な寒さと相前後して、スラムを襲った集団がいた。どこか遠くから来たらしい、食い詰めた野盗の一団だった。
市街の南側から侵入した十人ほどの野盗は、スラムを通り抜ける際、持て余した暴力衝動を過激に、そして大した意味もなく発散した。
そのうち、スラムには命のほかに奪うものがないと悟った一団は、血の酔いに任せて北に移動し、スラムの外側にも襲い掛かった。しかし野盗たちが優位だったのはそこまでで、間もなく守備隊が駆けつけて彼らを包囲し、そのほとんどを速やかに殺害した。
ハキムは幸か不幸か、野盗たちと入れ違う形になったため、直接対峙することはせずに済んだのだった。
野盗は結局スラムの外側にまでは大きな損害を与えなかったので、町全体としてはそれほど騒ぎにならなかった。スラム内の被害は、町民にとっても為政者にとっても、勘定に入れる必要のないものだったのだ。事件そのものも、すぐに人々の記憶から失われてしまったことだろう。
しかしもちろん、ハキムの記憶にこの日の出来事は刻み付けられている。そして今、ハキムの記憶にあるものと同じような霧が発生していた。朝晩ならともかく、日中のラウラではほとんど見られない気象だ。冷気が足元だけでなく、ハキムの背筋までもを寒くした。
「どうした?」
ハキムの様子を見て、チビが怪訝な顔をする。
「いや……」
周囲は妙に静かで、それが漂う霧をなおのこと不気味にしている。
事件が起こったすぐあとに、ハキムは町を離れた。だから時間が歪んでいるとしても、チビはこれから起こることをまだ知らないはずだ。
「ハキムのじいさんが心配だ。チビ、案内してくれ」
なんで俺がと言いかけて、ハキムの真剣な雰囲気を感じ取ったのだろう。チビは現在地を思い出そうとするようにぐるりと辺りを見回してから、こっちに来いと目で合図した。
スラムに漂う霧はその底に濃い影を作り、影はやがて霧自体を奇妙に変質させた。黒く、重く、粘度を増したなにかがハキムの足元に絡みつき、歩む力と意気を萎えさせる。
「なんだよこれ……」
チビが怯えた声で言った。ハキムもまた怯えていた。自分を捉えているのが、実体のない恐怖そのものであるような気がした。今までは歪んでこそいたもののまだ理解できる情景が広がっていたのに、この急激な変化はどうしたことだ。
どこかから悲鳴や怒号が聞こえる。一度、壁に飛び散った派手な血痕を見た。
少しすると、黒い霧は場所によって粗密があり、そこを選べば比較的楽に移動できることが分かった。相変わらず泥沼の中を進むような調子ではあったが、二人はなんとか目的地の近くまでやって来ることができた。
「おい、ジイさん! 無事か? おーい!」
チビが呼びかける。答えはなかった。ハキムはぼろ家の戸口まで歩いて行き、黒い霧に沈みかけていた身体の一部を引き上げる。
ぐったりと柔らかいそれは、頭を割られた老人の死体だった。ハキムは無言でチビに示す。
「ジイさん! ああクソ――」
幻であっても過去は変えられないのだろうか。ならばこの体験にはなんの意味があるというのか。ただただ精神を揺さぶられ、正気を試されているだけなのだろうか。
「おい兄ちゃん、シスターのところも見に行こう」
チビに促され、ハキムはそのあとを追う。憂鬱な結果しか待っていないことは知っていたが、それを告げる気にはなれなかった。
二人は先程と同じだけの苦労をして、教会までやってきた。このときになると空気は濃い血の臭いを孕み、霧の冷気は足の骨を侵すほどになっていた。頭上の太陽さえその光を弱め、情景は世界の終わりめいた様相を呈してきた。
ようやく辿り着いた小さな広場にも、やはり黒く重い霧が横たわっている。広場の端にあるはずの花壇も、既に見えなくなっていた。周囲に人影はなく、風の音さえ聞こえない。
ずんずんと進んで教会の扉を開くと、屋外の霧がどろりと室内に流れ込んだ。ハキムを押しのけて、チビが中に入る。
床に倒れているシスターの身体が、黒い霧に浸るのが見えた。当時の彼女の姿を想えば、それはむしろ都合がよかった。チビが彼女の半身を抱えたが、手足はだらしなく投げ出されたまま、ぴくりとも動かない。
まったく胸糞悪い光景だった。
「兄ちゃん、ここはもうダメだ。どっか霧の出ない、遠くまで逃げよう」
チビもさすがに涙声で言った。
「……」
「こんなとこ、もう戻るもんか。こんなクソみたいな町……」
これがただの自然現象ならそれでいい。しかしこの黒い霧がハキムの記憶に根差したものならば、心根に潜む恐怖そのものならば、どこに行ったところで逃げることなどできはしないだろう。
黒い霧は今や膝のあたりまで上がってきていた。このままでは動けなくなるどころか、首まで浸かって溺れてしまう。しかし同時に、霧はわずかながらハキムを避けているような動きも見せていた。
ふと、尻のあたりにじんわりと熱を感じたハキムは、ポケットに入ったままだった玻璃球の存在に思い至った。
「兄ちゃん、尻……」
ハキムは重くなった扉を身体で押し開け、屋外に出た。玻璃球を取り出して眺めると、確かに青白い光と柔らかな熱を発している。
それはハキムの恐怖を少しばかり薄れさせたが、同時に強い怒りを呼び起こした。
なにが探求の旅だ。ふざけるな。
腕を振り上げて、玻璃球を地面に叩きつける。固い音と同時に光がその強さを増し、黒い霧がさっと外側に退いた。それはまるで海から引き揚げた軟体動物に、松明の火をを突き付けたときのような動きだった。
黒い霧は一瞬できた空白を再び埋める代わりに一段と後退し、広場を囲むような形で高く、分厚く集まりはじめた。自らの存在に対抗するなにかを封じ込め、押し潰すための壁を作っているのだ。
やがて壁の一部が盛り上がり、そのまま膜を突き破るようにして、三つの人影が広場に入り込んできた。
顕現した恐怖の形。それは汚らしい毛皮を纏い、血脂で固まった髪と髭を持つ野盗だった。二人は手斧、一人は曲刀。敵意も露わにこちらを見据えている。
子供のハキムにとって、武器と悪意を持った大人というのは恐ろしい存在だった。それこそ不可視の力を操る魔術師や、丸太のような腕を持つアンデッドと比肩する脅威だったのだ。だから今、恐怖がこういう形をとって現れたのも理解できる。
大人のハキムにしたところで、既に発見され、武器もなく、逃げることもできない現状、三人の野盗と相対するのはかなりまずい事態だと言えた。
しかし、これが克つべき試練だというのならばやってやろう。ハキムは覚悟を決め、相手の攻撃に備えて半身に構えた。
手斧を持った一人がまず襲い掛かってきた。暴力に馴れた者特有の大胆な動きで得物を振り上げ、怒号を上げながら大股で迫って来る。膂力や技量で優っても、この迫力に臆せば致命の刃を喰らう。
ハキムは咄嗟に身体を沈めて強く踏み込み、低い姿勢で一気に距離を詰めた。斧が振り下ろされる寸前に、間合いの内側へと潜り込む。硬い柄で背中を打たれたが、刃に傷つけられることはなかった。そして突進の勢いそのままに肩でぶつかり、空いている腕で相手の両脚を刈る。
小柄な体格と素早さを生かした体当たりは、力で優る先頭の一人を転倒させた。尻もちをついた相手の鼻面に膝蹴りを喰らわせ、奪い取った手斧の柄で額を砕く。そのまま二人目と対峙すべく、両脚に力を込めた。
しかしそのとき、死にかけの一人目がハキムのベルトを掴んだ。柄の追撃で手は外れたが、思わず作ってしまった隙は二人目の敵が付け入るのに十分だった。次の瞬間、大振りな曲刀がハキムの左肩目がけて斜めに振り下ろされた。
避けるのが間に合わない。ハキムは半ば破れかぶれに、手斧を右から左に振り抜いた。目前で野盗の頬骨が粉砕し、衝撃で眼窩から目玉がこぼれる。
それと同時に、曲刀がハキムの肩深くに食い込んだ。鈍い刃は鎖骨を派手に叩き割り、胸のすぐ上で止まった。
傷口が灼けるような感覚。極度の興奮は肉体の痛みを薄れさせているが、それでもなお命が警鐘を鳴らしている。しかしハキムはそれを無視して、大きく息を吐いた。顔面を破壊された男の身体越しに、最後の相手を見据える。もう少しの間なら身体は動くだろう。
「兄ちゃん」
背後でチビの声がした。
「下がってろ!」
仲間二人が倒されてなお怯む様子もなく、手斧を持った三人目が襲い掛かってきた。ハキムは二人目の顔に刺さったままだった手斧を抜きつつ、前方に転がった。勢いのままそれを振り下ろし、敵の爪先に叩きつける。
怒りに満ちた叫び声が響き、次いでハキムの背中に重い反撃が突き刺さった。骨の砕ける音が脊髄を駆け上がり、頭の奥まで響く。
ハキムの疲労と苦痛は限界を超えつつあった。このまま全てを諦めて、二度と覚めない深い眠りに落ちたくなった。
このとき死の誘惑に抗ってハキムの身体を動かしたのは、ある強い想いだった。
奪われたくない。
名前すら持たずに生まれてきた。大切なものを奪われてきた。だからこれ以上奪われるのが怖かった。
育った町を離れてからも、人一倍身の回りを警戒しながら生きてきた。危険を冒して手に入れたものさえ、奪われるくらいならと自ら手放してきた。
しかし今理解した。逃げてばかりではいつか奪われるのだと。決死で戦わなければ、守れないものもあるのだと。
奪われるものか。
ハキムは残り少ない力で左肩から曲刀を引き抜いて、狙いもつけずに上へと突き出した。
ずっぷりと柔らかい感触。大量の生温かい血が、刃を伝って頭を濡らした。
腹と内臓を貫かれ、野盗は二、三度痙攣してから完全に力を失う。その身体と折り重なるようにして、ハキムはどうと地面に倒れた。もう指一本動かせない。荒い呼吸とともに、ハキムは自分の身体から命が流れ出していくのを感じた。
ひゅうひゅうと音がする。スラムを襲った惨劇に、風が悲鳴を上げているような気がした。それでも頬に吹き付ける砂は、少しばかり熱を取り戻していた。
チビはどこにいる? 霧は晴れただろうか? 確かめようにも目蓋は重く、首を巡らせることすらできなかった。自分が果たして探求の旅に成功したのかどうかすら、教えてくれるものはなにもない。
とにかく今は休もう。次に目覚めたとき、正気でベッドの上にいればお慰みだ。
再び大きく息をつき、全身から力を抜いたハキムの意識は、やがて昏く静かな渦に呑み込まれていった。




