おさかなさんと、うさぎさん
ある日の休日。
前日から釣りに行くと約束していたせいか、普段なら休日になると昼近くまで寝ている父さんが、珍しく早起きをしていた。
まだ朝の空気に冷たさが残る時間だというのに、すでに身支度を整え、玄関には釣り竿や仕掛けの入った道具箱、魚を入れるための籠まで用意されている。
どうやら今日という日を、よほど楽しみにしていたらしい。
母さんも朝早くから家族分の弁当を作ってくれていて、俺とルークが準備を終える頃には、出発の用意はすべて整っていた。
釣り道具一式に籠、水筒、そして母さん手作りの弁当を持ち、俺たちは家を出る。
「忘れ物はないか?」
玄関を出る前に父さんが確認する。
「大丈夫!」
ルークが元気よく答えると、父さんは満足そうに頷いた。
◇
早朝のオルテンシアは、まだ人通りも少なく、いつもの賑やかな街とは少し違った顔を見せている。
そんな街を家族四人で歩き、俺たちは王都方面へと街道が伸びる北門を抜けた。
門の外へ出ると、街の中とは空気が変わる。
街道から少し離れてヴェルス川沿いを西へ進んでいくと、朝日に照らされた山々が遠くに見えてきた。
街の外には危険も多い。魔獣が出ることもあるし、野生動物だっている。普通なら子どもを連れて気軽に歩けるような場所ではないのだろう。
ただ、俺たちの場合は少し事情が違う。父さんは元Aランク冒険者で、今ではオルテンシアの衛兵隊長。
そして母さんも元Aランク冒険者で、治癒魔法よりも攻撃魔法のほうが得意だと本人が堂々と言っている。
この二人が一緒なら、万が一など起こりようがない。
……いや。むしろ問題は、何かが起こった場合だ。魔獣が現れたとしても、俺たちが危険になる可能性は低い。
たぶん、一瞬で父さんか母さんに倒されるだろう。その結果、辺りが血の海か、焦土になってしまう可能性のほうがよほど高い。
できれば何も起こらないでほしい。俺はそんなことを考えながら、両親の後ろを歩いていた。
しばらく川沿いを進むと、父さんが足を止める。
ヴェルス川が大きく蛇行している場所で、川岸には大きな岩がいくつか並び、水の流れも比較的穏やかだった。
「ここがいいな」
父さんは周囲を見渡して満足そうに頷く。どうやら父さんのお気に入りの場所らしい。
荷物を下ろし、釣り道具を準備する。父さんが手際よく仕掛けを作っている横で、俺も自分の釣り竿を受け取った。
釣りをするのは、前世以来だった。最後に釣りをしたのは小学生の頃で、父親に連れていってもらった記憶がある。
あれから何十年も経っているわけだから、ほとんど初心者と変わらない。
まあ、今日は釣れなくてもいい。家族で出かけて、川辺でのんびり過ごす。それだけでも十分楽しそうだった。
そんな気楽な気持ちで釣り糸を垂らした、その瞬間だった。
「……ん?」
手元に、ぐっと重みがかかった。次の瞬間には竿が大きくしなり、俺の身体が前へ引っ張られる。
まさかの即当たりである。
「うわっ!」
「レオ、来たぞ!」
父さんの声が飛んできた。
水面の下で魚が暴れているらしく、竿がぐんぐん引っ張られていく。慌てて竿を立てようとするが、思った以上に力が強い。
六歳児の腕力では、とても一人で耐えられそうにない。
「無理するな!」
すぐに父さんが後ろから支えてくれた。
「竿はそのままだ。魚が弱るまで少し待て」
「う、うん!」
父さんに教えてもらいながら、少しずつ魚を引き寄せていく。
水面が大きく揺れ、魚の姿がちらりと見えた。
「もう少しだ!」
最後に父さんと一緒に力を込めると、魚が水面から勢いよく飛び出した。
「釣れた!」
思わず声が出た。そこそこの大きさの魚だった。
父さんが針を外して籠へ入れてくれると、俺は自分が釣った魚を眺めながら、なんとも言えない達成感を味わっていた。
「初めてにしては上出来だ」
「本当?」
「ああ。立派なもんだ」
父さんに褒められると、やっぱり嬉しい。
◇
昼を過ぎる頃、籠の中には何匹か魚が入っていた。
「そろそろお昼にしましょうか」
母さんが弁当を広げる。朝から外で動き回っていたせいか、腹はかなり減っていた。
母さんが作ってくれた弁当は、色とりどりのおかずが並び、ルークは嬉しそうに目を輝かせた。
「いただきます!」
みんなで弁当を食べる。川のせせらぎを聞きながら食べる昼食は、家で食べるのとはまた違った美味しさがあった。
父さんは今日釣れた魚の話をしながら楽しそうに弁当を頬張り、母さんもそんな父さんを見て笑っている。
俺はそんな両親とルークを眺めながら、こういう時間もいいなと思った。
昼食を終えると、俺たちは再び釣りを始めた。
午後になると少しずつ日が傾き始め、川面を照らす光も柔らかくなっていく。風も心地よく、俺はすっかり釣りそのものを楽しんでいた。
そして夕方。そろそろ帰ろうということになり、最後に今日の釣果を確認する。
父さんはそれなりに大きな魚を何匹も釣っているし、母さんも数匹。ルークも小さいながら二匹釣り上げていた。
そして俺も、最初に釣った魚とは別にもう一匹釣ることができた。
「今日はみんな釣れたな!」
父さんが満足そうに笑う。
「楽しかった!」
ルークも嬉しそうだ。
「また来ましょうか」
母さんがそう言うと、父さんも嬉しそうに頷いた。俺も笑いながら頷く。
今日みたいな休日なら、何度でも過ごしたい。そんなことを思いながら、俺たちは荷物をまとめて帰路についた。
夕方の街道を歩き、来たときと同じようにヴェルス川沿いを進んでいく。
釣った魚が入った籠を父さんが持ち、ルークは今日釣れた魚の話を何度も母さんに聞かせている。
その楽しそうな声を聞きながら歩いていたその時、父さんと母さんが足を止めた。
前方の草むらが、がさり、と揺れた。俺は反射的に足を止める。
そこからひょっこりと姿を現したのは、一匹の魔獣だった。
見た目は普通の兎によく似ている。ただし、その頭には立派な角が一本生えていた。
角兎。
以前、父さんから聞いたことがある魔獣だ。見た目と違ってかなり凶暴で、本来なら出会えば警戒しなくてはならない相手なのだろう。
しかし、俺は角兎の姿を見た瞬間、別の意味で血の気が引いた。
――馬鹿!
――この二人の前に出てくるなんて、命が惜しくないのか!
相手は魔獣なので俺の両親が誰なのか知らないのは当然だが。
俺は角兎を見つめながら、心の中で必死に願った。
――早く逃げろ!
――森へお帰り!
父さんが角兎へ鋭い視線を向ける。何も言わず、ただ、じっと見る。それだけだった。
角兎は父さんと目が合った瞬間、身体を大きく震わせた。耳がぴんと立ち、次の瞬間には――。
文字通り、脱兎のごとく逃げ出した。角兎は地面を蹴り、草むらをかき分けながら、森の方へ凄まじい勢いで遠ざかっていく。
「…………」
俺はしばらく何も言えなかった。父さんは何事もなかったかのように歩き始める。
「どうした、レオ。帰るぞ」
「あ、うん」
俺も慌てて後を追った。
……よかった。本当によかった。あの角兎は賢い。とても賢い。
ほめてあげたい。
もしあそこで角兎が父さんに向かっていっていたら、俺たちはきっと凄惨な光景を見せられていたに違いない。
せっかく家族みんなで楽しく過ごした一日なのだ。
最後の最後にそんな景色を見るなんて、絶対にごめんだった。
俺は角兎が消えていった森をもう一度だけ振り返り、早歩きで帰路についた。
なお、翌日の夕食に角兎の肉が出てきた時、俺はなんとも言えない顔でその肉を見つめていた。




