家に帰れるだけマシ
「……終わらねぇ」
佐藤健一、四十歳。
どこにでもいる、ごく普通の会社員――ただし、「ブラック企業勤務」という一点を除けば。
深夜二時。俺は薄暗いオフィスの一角で、青白い光を放つパソコンの画面を睨みつけていた。
デスクの上には、すでに空になったブラックコーヒーの缶が数本と、飲みかけの栄養ドリンクが一本。
周囲を見渡しても、もう誰の姿もない。
つい数時間前までは何人か残っていたはずなのだが、日付が変わる頃には一人、また一人と帰っていき、今では広いフロアに残っているのは俺だけだった。
こんな時間まで会社にいるのは、もちろん仕事が好きだからではない。
「佐藤、明日の朝までにこれ頼むわ」
上司からそう言われたのは、午後十一時を過ぎた頃だったと思う。
今日中に終わるとは到底思えない量の仕事を、まるでコンビニにでも立ち寄るような気軽さで押しつけられた俺は、反射的に「はい」と答えてしまった。
そこで「無理です」と言えるほど、俺は器用でも要領が良くもなかったし、そもそも、そんなことを言えるような職場なら最初からブラック企業とは呼ばれていない。
「はぁ……」
深いため息を吐きながら、再び画面へ目を戻す。
大学を卒業して就職した頃は、まさか自分がこんな生活を送ることになるなんて思ってもいなかった。
普通に働いて、普通に生活して、いつか結婚でもして――。
そんな、特別なことなど何一つない、ごくありふれた人生を漠然と思い描いていたものだ。
大学生の頃には彼女もいた。
大学を卒業する少し前から付き合い始めた彼女とは、それなりに上手くいっていたし、就職してからも、忙しくはなるだろうが時間を作って会えばいい。
仕事が落ち着けばまた以前のように過ごせるだろうと、当時の俺はそう考えていたけれど、現実はそんなに甘くなかった。
度重なる残業、休日出勤、突然の呼び出しで俺の時間は奪われていく。
最初のうちは彼女も「仕事、大変なんだね」と笑って理解してくれていたのだが、会える時間が少しずつ減り、連絡する余裕さえなくなっていくにつれて、彼女との距離もまた少しずつ開いていった。
それでも俺は、どうにかなると思っていた。
仕事が落ち着けば、また会える。もう少し頑張れば、以前の生活に戻れる。
そうやって自分に言い聞かせながら仕事を続けていたある日、スマホに一件の通知がきた。
『ごめんね……私、もう無理』
それが、彼女から来た最後の連絡だった。
あのときはさすがに堪えたが、落ち込んでいる暇すらなかった。
翌日には仕事があるし、仕事をしている間は余計なことを考えずに済む。
そうして一日、また一日と過ごしているうちに、気がつけば俺は四十歳になっていた。
「……まあ、いいか」
諦めたように呟き、デスクの片隅へ置いていたスマホを手に取る。
画面に映っているのは、最近活躍している若手プロレスラーの写真だった。
鍛え上げられた分厚い身体に、堂々とした立ち姿。
テレビや雑誌でこういう身体を見るたびに、俺もこんなふうに逞しくなれたらな、と思う。
昔は俺だってそれなりに体を鍛えていた。
プロレスラーの肉体に憧れて、暇を見つけてはジムに通っていた時期もある。
けれど、就職してからは仕事に追われ、そんな時間も体力もなくなってしまった。
今の俺に残っている趣味といえば、仕事の合間や帰宅後に読むWEB小説と、録画しておいたプロレスを見ることくらいだ。
「俺も、こんくらい逞しくなりたかったなぁ……」
スマホの画面を眺めながら、そんな言葉が自然と口から漏れた。
それから何気なく画面の端に表示された時刻を見る。
午前四時十七分。
「……もう朝じゃねぇか」
思わず乾いた笑いがこぼれた。
◇
結局、仕事が終わったのは午前五時を少し過ぎた頃。
会社を出ると、外はまだ薄暗かったものの、東の空はすでにわずかに白み始めている。
始発電車が動き始めるような時間帯で、駅へ向かう人の姿もちらほら見えたが、今の俺にはそこまで歩いていく気力すら残っていなかった。
タクシーを拾い、後部座席へ身体を沈める。
「……眠い」
シートに背中を預けて目を閉じると、車の揺れが妙に心地よく感じられた。
ほんの少しだけ、このまま眠ってしまいたいと思ったが、さすがに自宅へ帰る前に寝てしまうわけにもいかない。
そう考えているうちに意識がぼんやりしてきて、気がつけば自宅近くまで来ていた。
アパートに着いた頃には、空はすっかり明るくなっていた。
「ただいま……って、誰もいないけどな」
独り言を呟きながら部屋へ入るが、当然、誰からも返事はない。
一人暮らしなのだから当たり前なのだが、疲れ切った頭では、そんな当たり前のことすら少し可笑しく感じられた。
服を脱ぐことすら面倒で、シャワーも浴びたいとは思うものの、今から浴室まで歩いていって、身体を洗って、また着替えて――。
そんなことをするくらいなら今すぐ寝てしまいたいという気持ちのほうが勝ってしまう。
結局俺は何もせず、そのままベッドへ倒れ込んだ。
「……少しだけ寝るか」
枕元に置いたスマホを手に取って時間を確認すると、午前五時五十八分。
次に起きる時間を考えようとして、そこでふと気づく。
「……ああ、そうだった」
明日は休日――いや、もう今日か。
その事実を思い出した瞬間、身体の奥に残っていた最後の緊張が、ゆっくりと抜けていくような感覚がした。
久しぶりの休日。それも、今日は特に予定がない。上司から呼び出されなければ、会社へ行く必要もないし、好きな時間まで眠っていても誰にも文句を言われない。
そう考えると、ほんの少しだけ楽しみになってきた。
録画してあるプロレスを見ようか。それとも、途中まで読んでいたWEB小説の続きを先に読もうか。いや、せっかくの休日なのだから、昼過ぎまで何も考えずに寝てしまうのも悪くない。
そんな、とてもささやかな予定を頭の中で考えているうちに、眠気が一気に押し寄せてくる。
「とりあえず、寝る……か」
誰に聞かせるでもなく呟きながら、俺はゆっくりと目を閉じた。




