その7 柊の答え
厳島神社での鑑賞は、不可能だった。
回廊の中をギッシリと人が埋め尽くしているのである。無理をすれば間に割って入る事は出来そうだったが、そうして見る祭りが楽しいものとも思えない。
かといって、沿岸にも人が密集している。少し歩いて様子を見たが、提灯を持った先客が横に広がっているのである。一つ一つは小さな灯りでも、ズラリと並んだそれは幻想的な輝きを放っていて、これはこれで見応えがあるといえるだろう。とはいえ、柊が本当に見たいものは管弦船である。残念ながら、行き遅れた者には相応の結果かもしれない。
「むぅー、これ無理かなあ……」
小さく溜息をつき、とぼとぼと帰路に着く。
周囲では、姿の見えぬ蝉がジワジワジワと鳴き続けている。それがまるで自分をあざ笑っているように聞こえて、なんとも悔しかったが、どうしようもない。所在なく厳島神社の回廊の端を一瞥したが、そこで柊の視線は止まった。
暗闇の中、無数に輝く提灯に擬態するように、鮮やかな金髪を揺らしている者がいたのである。
「おさんき……あー、うー……お客さんっ!」
反射的にその者、おさん狐の名を口にしかけたが、よく考えれば、人前で何と呼べば良いのか分からない。仕方なく、今日は客ではないのに客呼ばわりすると、おさん狐は首だけで振り返り、目を細めながら笑ってみせた。
「やあやあ、柊さん。君も来ていたのかい?」
「はい。管弦祭を見た事がないので、お店のみんなが気を利かせて、来させてくれたんですよ」
そんな会話を交わしながら、おさん狐に近づく。回廊の端で鑑賞している者は他にもおり、おさん狐との間を隔てていたが、会話に支障はない距離だった。
「なるほどね。確かに見ておいた方がいい。私は毎年のように来ているんだが、これは実に荘厳だよ」
「おぉ、常連でしたか!」
「ちなみに、その度に十二支屋に泊まるのが恒例行事。……だけど、今日は無理だろうね」
「はい。今日は満員御礼ですが、知ってたんですか?」
「君がこの時間まで働いているという事は、繁盛しているという事だろう。それよりも、こっちにおいでよ。良い場所で見た方がいい」
「あー……いえ、他の人もいるし、横入りは止めておきますよ」
「私と代わるのなら問題ないだろう。……皆さん、構いませんね?」
おさん狐は周囲にそう声を掛けると、許可も得ぬうちに人の間をすり抜け、柊の前に来た。
間近で見るおさん狐は、今日も黒の和服を着ている。その和服の袖からオペラグラスを取りだしてみせた。真鍮製でハイカラに見え、意外にも和服には合う。おさん狐は、それを柊に無理矢理持たせてきた。
「え、えっ? いきなりなんですか?」
「これを使うと良い。面白いものが見れると思うよ。もう間もないはずだ」
「……いーんですか、本当に。お言葉に甘えちゃいますよ?」
「構わないさ。言っただろう、私は何度か見ているんだ。それに実物はいつでも見れるから」
「実物……?」
祭りの後に船を見る、という意味なのだろうか。
「ふふん。失礼」
だが答えを聞く前に、おさん狐はその場を去ってしまった。
柊は首を傾げながらも、おさん狐と同様に人の間を抜けて、回廊の前列へと出る。それとほぼ同時に、辺りから小さな拍手が沸き起こった。周囲の人々を見回せば、みんな西側の海上を向いているようである。それに習って視線を海上に移すと、水平線が見えない黒い海の中、橙色の明かりが近づいていた。
「あ。あれかな!」
オペラグラスを掲げて明かりを見れば、提灯を掲げた三艘の和船が多くの男性乗組員によって漕がれ、その後方で大きな船が曳かれている。
後方の船が管弦船である事は、一目瞭然だった。山代から聞いたとおり、鮮やかな金飾りの施された神輿が載っているのだ。それだけではなく、船は色鮮やかな幔幕や提灯で飾られているし、屋形船のような屋根も着いていて貫禄がある。そしてなによりも、船自体が特別な造りだ。別の三艘の和船を横に並べて一艘に船組されているのだ。この雄大な船は、明らかに『親玉』である。
屋根の下には人がいるようだったが、その前方に置かれた神輿が視界を塞ぎ、中を窺えない。仕方なく、船が近づくのを待ってから確認すると、平安時代の貴族のような恰好をした人々が、笙や琴等を手にしていた。彼らが雅楽を演奏するのだろう。経験豊富な者が選ばれているのか、中高年が多いようだったが、中には若い者もいた。髪は黒のミディアムで、白の長着が良く似合っている。手には琵琶を持っていた。その者だけなぜか立っており、切れ長の目で船外を見ていて……、
「い、樹さんっ!?」
思わずオペラグラスを手放し、叫んでしまう。
だが、それと同時に樹の姿が消えたような気がした。慌ててオペラグラスを構え直せば、やっぱり男の姿が見える。間違いなく樹だ。しかも彼は、あろう事か船の縁を踏み台にして、十数メートルは離れている牽引船へと飛び乗ってしまった。明らかに人間ができる行動ではないのに、周りの者は誰も驚愕の声を漏らさない。オペラグラスの取っ手を強く握りながら観察するうちに、ふと、おさん狐の言葉を思い出した。
「……面白いものが見れるって、こーいう事なのかな……」
オペラグラスを外せば、予想は的中していた。飛び乗ったはずの樹が見えないのだ。そして、また構え直せば現れる。しかも、向こうも自分に気が付いたのか、にやりと歯を見せて笑い、こちらへと手を振っている。樹か、オペラグラスか、あるいは両方かに不思議な力が働いているのだろう。神様とはいえ、なんとも大胆な事をするものだ。
呆気にとられながらも観察し続けると、船団はライトアップされた大鳥居を順番に潜り、そのまま厳島神社前へと進んだ。
すると、また周囲から拍手が沸き起こる。
先程の比ではない、激しい拍手。まるで雷でも走ったようだ。
そしてそれは、祝いの唄の始まりであった――
「エエ、ヤア」
距離はあったが、声はハッキリと聞こえてくる。
船に積み込まれた太鼓の音に合わせて、舟歌が唄われたのだ。
力強い唄。
魂を感じさせる唄。
それを象徴するかのように、船が動く。
回廊の中で、旋回しているのだ。
船首では采振が采を回している。
「ああ……」
溜息のような声が漏れる。
樹は、何をしているだろうか。
采振の乗っている樽に背中を預けていた。
彼もまた歌を口ずさみながら、琵琶を弾いている。
軽やかにバチが振られ、
細やかに、弦が抑えられる。
音色は、聞こえてこない。
おそらくは、聞こえないようにしているのか。
でなければ、出どころが問題になるだろう。
でも。
「本当に治ったんだ……」
柊は、泣きそうな顔をしていた。
彼女の頬は紅潮している。
夏の暑さのせいか、それとも気持ちのせいだろうか。
ただただ、樹の演奏姿に見惚れた。
音は聞こえなくても、分かるのだ。
きっと、素敵な音色が流れている。
自分の味覚の代わりに、宗像三女神に治してもらった手で、生命の唄を奏でている。
樹は。
宮島は。
生きているのだ。
広島の人々とともに。
船が、三回廻った。
樹の唄は、まだ終わらない。
◇
祭りの後も、厳島神社の周囲は喧騒に満ちていた。最後の汽船が出たとはいえ、島に住居を持つ島民や、宿に戻る観光客だけでも、相当な人の数になるのである。柊はその間を掻き分けて移動し、船から降りた樹と合流するのには苦労した。
「樹さん、お疲れ様です」
「おう」
ただそれだけの会話を交わし、二人して帰宅の途に着く。その最中、柊は樹に気づかれないように何度か小さく深呼吸した。感動した、と素直に気持ちを伝えるのを恥ずかしいとは思わないが、気持ちが高ぶっていて、思いもしないような事を口走りそうだったからだ。
それほどまでに、感動的な光景だったと思う。琵琶も、今度はちゃんと音色を聞いてみたい。今更ねだるのは失礼だろうか。いや、樹ならば喜んで演奏してくれるはずだ。
「ういー、今夜は楽しかったなあ。やっぱり琵琶は面白いな」
柊の予想を後押しするかのように、樹が笑う。
彼の手には、先程演奏していた時の琵琶が握られている。改めて見ると全長は1メートルほどありそうな大型の琵琶だ。手が麻痺してれば、容易には持ち運べないだろう。
「ご機嫌ですね、樹さん」
「そうか? なんだかお前も機嫌良さそうに見えるぞ」
「そーですかね。まあ、なかなか見応えはありましたからね」
「だろー? ハッハッハッ! 褒めろ、もっと褒めろ」
「……樹さんよりも、船の方がですよ」
バカ笑いを受けて、急に褒める気が失せてしまい、口を尖らせながら言う。
一方の樹は、変わらず機嫌が良さそうに笑い続けた。周囲に他の者がおらず、咎められないのは幸いである。
二人は、石垣で綺麗に整地されている御手洗川沿いを北上した。春は桜が美しい通りだが、今の青葉もそれはそれで見応えがあり、絵になる場所である。
「ところでお前、どーするんだ?」
不意に、樹が笑うのを止めて尋ねてきた。
無論、それだけでは意味が分からない。黙って続く言葉を待つと、彼は半歩前を行き、視線を合わせずに話を続けた。
「十二支屋の事だよ。……この質問は、一つ目入道が来た時にもしたと思うが、これ以上、働く意味はあんのか?」
「あ……もしかして私、本当にクビなんですか」
「んなわけねえだろ。このまま十二支屋に残るのは、お前の為になるのか? って聞いてるんだよ。今日の客の入りを見れば、十二支屋の未来は明るい。集客もなんとかなんだろ。お前に無理してもらう必要はないんだ」
「まだ味覚は治っていませんから、働く意味はあると思うんですよ」
「その件は、母親の死が原因かどうか分からなくなっただろ。って事は、気分転換に効果があるかどうかも分からない。前に聞いた時とは事情が違うだろ。仕事の面でも、味覚がない本当の理由を調べる意味でも、十二支屋を出た方がいいんじゃないか」
「……なるほど。確かにそうかもしれません」
それだけ呟いて、柊はこれまでの出来事を思いだした。
十二支屋での二ヶ月は、自分を大きく成長させてくれる日々となった。それは間違いないところだ。母の死は乗り越え、アナゴ飯が作れるようになった。人の心を救う為なら、どんなハードルでも乗り越える精神力も身に着いた。結果として、広島の料理人にもなれたのだ。
もう十分すぎるものを得ているのだ。味覚も現任が分からなくなった以上、十二支屋に意味は……、
「樹さん」
「あん?」
「……私は、十二支屋に残りたいです」
自分でも驚くような、澄んだ声がでた。
「おめえ、話聞いてたのか?」
樹が歩調を大股にしながら不満そうな声を漏らす。
早歩きでそれに着いていきながら、柊は力強く頷いた。
「もちろん聞いてましたよ。でも、他にも残る意味はあるんです」
「んだよ」
「十二支屋の人達です。みんな例外なく優しく、そしてあたたかい人達でした。浅野さん、八犬さん、彩巳さん、猿田さん、羊子ちゃん、他の眷属さん達……そんな人達と、もっと仕事がしたいって気持ちがあります」
「俺の名前がねえな」
「恥ずかしいから挙げないだけです」
そう言って、ぷう、と口を膨らませる。
樹も分かっていたのか、小さく笑い飛ばしてくれた。
「……でも、それだけじゃありません、むしろ本命はこっちですけれど、十二支屋には私の大事な役目があると思うんですよ」
「おお。言うじゃんか」
「だって、私が十二支屋からいなくなったら、誰があやかしさん達の心を料理で救うんですか? それだって、立派な広島の料理人の仕事です。しかも私にしかできない、大事な大事な役目なんです」
そう告げたところで、毛利の土産物屋の前まで来た。
だが樹は、十二支屋に続く石段を登ろうとせずに立ち止まる。
どうしたのだろうか。前に出て顔を覗き込もうとしたが、その前に樹は振り向いた。
初めて会った時と同じ、性格の悪そうな釣り目の顔が、そこにはあった。
「……お前って、本当にヒイラギだよな」
「当たり前ですよ。急にどーしたんですか」
「違う。『娘と鬼』ってあやかし物語があるんだが、聞いた事ないか?」
「初耳です」
「んじゃ、かいつまんで教えてやるか。話自体はよくあるもんだよ。鬼が村を襲って若い娘をさらうんだ。で、ある娘が村を救う為、鬼が苦手にしているヒイラギを探してくるんだよ。植物の方の、あれだ、ええと……」
「葉がギザギザして実が赤い植物ですよね」
「そうそう。それが魔除けになって鬼が来ることはなくなってな。……普通の昔話なら、これでめでたしめでたし、だが『娘と鬼』には、もうちょっと続きがある。村人が安心しきったところで、鬼はヒイラギを潰すべく、大岩を投げつけるんだよ」
「……私が、その潰されるヒイラギって事ですか?」
「そうだ。お前と、そのヒイラギがダブって感じられるんだ。確かにお前は人の心を救う料理人になったさ。けどな、前も言ったが、まだ端くれなんだよ。本当にやれんのか? 油断したところで大岩に潰されるんじゃねえのか?」
その言葉を受けても、柊は顔を伏せない。
確かに、今の自分は危うい状態なのかもしれない。もともと思慮深くないし、一度は前向きになると決意しながら、挫折もしてしまった。
だが。
柊の視線が、樹から逸れてその奥に移る。
「……大丈夫ですよ、樹さん」
「どーしてそう言えるんだよ」
「答えは、あそこにありますから」
その言葉を受けて樹が振り返る。
二人の視線の先には、元気に手を振る羊子の姿があった。
「あー、樹様に柊ちゃん! おかえり、おかえり。待っとったんよー」
「ただいま、羊子ちゃん。待ってたって言うと、台所絡みかな」
「そうなんよ。そろそろ朝食の仕込みやろうって、みんなで話してたんよ」
「ごめんね、今行くからー」
そう声を掛けて、樹の方を向く。
きょとんとした表情の彼に、柊はなおも言葉を続けた。
「私は、一人じゃありません。一人前になるその日まで、十二支屋のみんなが支えてくれます。だから、きっと大丈夫です。それが私の答えです」
「言うじゃねえか。分かった。好きにするといいさ」
「それより、樹さん自身は、どうして欲しいんですか?」
「聞きたいのか?」
「聞きたいです」
柊の言葉を受けて、樹は前に向き直った。
同時に背中を叩かれ、それに押される形で、二人して階段を上る。
「……十二支屋に残れ」
「もちろん、そうさせて貰います!」
元気よく返事をしたはいいが、もう一つ、彼に聞く事が残っている。
柊は最後の段に足を掛けながら、その疑問を口にした。
「ところで、鬼に岩を投げつけられたヒイラギって、どうなったんですか?」
「岩はハズれちまったよ。ヒイラギはすくすく育って大木になった。せいぜいお前も頑張んな!」