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千の夜を越えて  作者: 皐月
番外編
10/10

桜咲く、桜散る

「由葉、ちょっと」

「え?」


 正座して着物を繕っていた由葉は声をかけられて顔を上げた。部屋の入り口のところに腕組みして立っていたのは由葉の幼なじみだった。芳影ではなく、少女である。彼女も弥栄の里の者であり、妖しの血を継ぐ者であった。

 由葉は破顔して着物を脇に避け、立ち上がって彼女を迎えた。

「どうしたの、紗雪(さゆき)

 名の通り驚くほど白く綺麗な肌の紗雪は、むっつりと眉根を寄せた。丸みを帯びた由葉の目とは違い、紗雪の目は切れ長の涼やかな目で、睫が長く伸び、唇は紅をさしていないのにうっすらと赤い。由葉よりも背が高く手足が長いこともあってか、随分と大人びて見えるのだが、実は由葉より一つ年下だ。

「蒼藍様、知らない?」

 紗雪の仏頂面の意味を知って、由葉はくすりと笑った。

 彼女は蒼藍に昔から想いを寄せていたのだ。由葉は蒼藍のことを素敵な兄として大好きであったが、紗雪のそれは兄を想う気持ちではなかった。幼い頃から、由葉は弥栄に、紗雪は蒼藍に、恋をして二人で色々と相談しあっていたのだ。素直でない彼女の恋心を一番よく知っているのは由葉である。おそらく蒼藍は、紗雪も由葉も同じように妹のような存在としか見ていないのだろうけれど。

 由葉は姉が妹にするかのような表情を浮かべ、紗雪の腕のあたりをそっと撫でた。

 ゆっくりと、諭すように話しかける。

「紗雪、蒼藍様は駄目よ。蒼藍様には千夜様っていう人がいるんだもの。あなただって知ってるでしょう? あのお二人がどれだけ仲睦まじくいらっしゃるか」

「でも、その人は里の者じゃない」

 ぴしゃりと紗雪は言い捨てた。

 特殊な血を持った彼女達は長い間人と関わりを持つ中で純粋な血を失っていったが、それでも里の者とそうでない者との境界線には厳しかった。蒼藍の言う所の「じじい」、つまりは里の長老達も最初は千夜を里へ迎え入れることに良い顔をしなかったが、そこは蒼藍は飄々とした態度で言い負かしてしまった。何も絶対に里以外の者を里へ入れてはいけない訳ではないのである。ただ、里の者との境界線がくっきりと引かれているだけなのだ。――それも、里の者と同じようになれば消える。

「だって人の匂いしかしないもの」

 心底嫌そうな表情をする紗雪を、由葉は仕方ないという風に肩をすくめて見ていた。


 紗雪は幼い頃から人が嫌いだった。嫌いなものを挙げていくと一番に口に出るくらいに、嫌いだった。

 由葉や芳影はそうでもなかったのだが、仕事に出ていた彼女の父が人に殺されてからというもの、紗雪は人全てを目の敵にしているのだった。里を出た際に殺されるのはその者の不手際だったとされる。そのようなことは紗雪も勿論分かっているのだが、どうしても人は許せなかった。

「……人なんて、嫌いよ」

「紗雪……」

 人に家族を殺されたこともなく、千夜以外の人をろくに知らない由葉は、紗雪にかける言葉を見つけられず、ただその名を呼んだ。

 由葉に非がないことなど分かっているのだが、紗雪は苛立った。

 思わず感情的な言葉を漏らしてしまう。

「どうして人なの。……由葉なら、諦めたのに」


「それは聞き捨てならんな」


 第三者の声に、由葉と紗雪はぱっとそちらを見た。紗雪の後ろ、つまり入り口の方で腕を組んで壁にもたれかかっていたのは、弥栄だった。長身の彼がそうするとひどく絵になる。弥栄はいつものごとく穏やかで、それでいて何となく人をからかっているような笑みを浮かべていた。一体いつから話を聞いていたのか、妖しの血を継ぐ由葉にも紗雪にも分からなかった。弥栄はこの里の長で、蒼藍と同じくらいの妖しの力を持った者である。彼が本気で気配を断てば、由葉や紗雪には気取ることなどできないのであった。

 くすりとおかしそうに笑う彼を見て、由葉は花が開くように笑顔になり、紗雪は自分の失言にさっと顔を赤らめた。

「弥栄様、お帰りなさいませっ」

「お、お邪魔しております……」

「ただいま。紗雪、由葉のお喋りに付き合うのは構わないが、間違っても由葉をそそのかすなよ。悪友に妻を取られる里長になるのはご免だぞ」

 少しも怒っていないようで弥栄は随分と楽しそうである。由葉が決して蒼藍になびくことがないことを、そしてまたその蒼藍が由葉を相手にすることがないことをよく知っているからだった。

「は、はい。申し訳ありません」

 紗雪はすっかり恐縮してしまって、蚊の鳴くような小さな声で謝った。

「弥栄様! 由葉は弥栄様以外の方と添い遂げるつもりはございません!」

 一方、紗雪とは対照的に頬をふくらまして声高にそう言いつのる由葉の頬を一撫でして、弥栄は低く喉で笑った。

「どうだかなあ。蒼藍を見るたびに抱きついていたのは由葉ではなかったか?」

「そ、それは前のことです! 今は弥栄様にしかしてません!」

 夫婦喧嘩を聞かされているのか、それとも惚気話を聞かされているのか分からなくなってきた紗雪だった。縮こまったままでそっとこめかみを抑え、さっさと出て行こうと踵を返す。

 由葉をからかっていた弥栄はそれに気付き、紗雪に視線を寄越して言った。

「紗雪、あいつなら、里のはずれにある桜のところにいるぞ。……ただ、お前の恋敵もいるがな」

 紗雪が振り返ると、弥栄はにこりと笑った。食えない笑みである。

 この場に蒼藍がいれば呆れ果てて物も言えないとでも言っただろうが、紗雪は丁寧に頭を下げることで返事に変え、部屋を後にした。


 去っていく彼女の背中を見つめ、それから由葉は弥栄を見上げて眉根を寄せる。

「弥栄様、何を考えていらっしゃるのですか。紗雪がお二人の邪魔したら……」

「紗雪は千夜殿のいる前で蒼藍に話しかけはせんだろうよ。そこまで無粋でも物わかりが悪い訳でもない。ただ、一度二人を見てみた方が良いだろうと思ってな」

 弥栄はどこまでも楽しそうに笑った。

 千夜が一方的に蒼藍を想い、この里まで押しかけてきたのであれば紗雪は許さなかったであろう。もしそうならば弥栄だって反対である。が、弥栄がよく知っているように、あの二人はそうではない。蒼藍が千夜をここへ連れてきたのだ。妖しの真名まで与えた人の娘を、妖しの里まで。

「……弥栄様、何を企んでいらっしゃるのですか」

 じとっと由葉が睨みあげる。

 弥栄は「これは心外な」とおっとりとした口調で微笑んでみせた。

「人聞きが悪い。私は何も企んでなどいないさ。悪友の恋の手伝いでもしてやろうと思っただけだ。あの馬鹿はいつまで儀式を渋るつもりなのだろうなあ」

「……蒼藍様は、何をお考えなんでしょう……」

「さて。あれの考えは私には分からんよ」

 ぽんと由葉の肩を軽く叩いて、弥栄はそれ以上は何も言わなかった。






「う、わあ……っ!」


 そう声を上げたきり、千夜は何も言えずにただ見えるもの全てに圧倒されていた。

 ぽかりと開けた空間をぐるりと桜の木々が囲み、幻想的な風景を創り出している。太い幹がいくつも無造作に並んでいるのに少しも乱雑な感じはしない。どの木も生命力豊かにまっすぐに伸び、枝を広げ、そして桜色に彩られていた。儚げな色でしかないのに、力強さを感じさせる。風もないのに、ひらりひらりと花びらが舞い落ちて、そこは、桜色の世界だった。

 こんなにも素晴らしい風景はおそらく京でも見られないと千夜は思った。滅多に館から出なかったので京の桜がどんなものなのかは知らないが、こちらの方は逞しい自然そのものの桜だった。

「……今年はいつにもまして咲き誇っているらしい」

 後ろから聞こえる声に振り返ると、蒼藍が桜を見上げているところだった。

 長身の蒼藍の立ち姿は目を瞠るくらいに凛々しく、少し細められた目は優しく、すっきりとした輪郭や風にあそばれる髪は見とれてしまいそうになるほどで、広い肩に桜の花びらが舞い落ちるのを払った指先までがどこか優雅だった。

 千夜は今度は、桜ではなく蒼藍に見入ってしまった。

 この幻想的な風景よりもずっと見慣れているはずなのだが、どうしてだか視線を外すことができない。

 初めて出会ったころ、よくあのような態度を取れたものだと千夜は自分のことながら感心してしまった。よくよく見なくとも分かる、際だった面立ちには圧倒されるだろうに。あれだけ奔放に話せたのは自分が幼かったからだろうか。うむむ、と眉根を寄せて蒼藍を見つめていた千夜は、急に視界が遮られたことに情けない悲鳴をあげた。

「何だ、蒼!!」

「何だとは何だ」

 頬に触れた絹の滑らかさに驚いてもがくも、腰に回された逞しい腕に阻まれてままならない。抱きしめられているのだと理解するまでにそう時間はかからず、見る間に顔に熱が溜まっていく。幼いころは見上げるほどだった蒼藍に、もう随分目の高さが近づいた。けれどそれは幼いころに比べてみればの話で、実際は今となっても蒼藍は千夜より一回りも二回りも背が高いので、こうして抱き寄せられると自分が小柄であることを思い知らされる。

 心地いい体温と規則正しく響く鼓動に、落ち着けばいいのか照れればいいのかもう分からなくなって、千夜は唇を尖らせた。

「さ、桜が見えないぞ……」

「そうか」

 悔し紛れの言葉にも低く笑う声が返ってくる。いつもより近い距離で響く声に、髪を揺らす吐息に、どう反応したものか考えるのもどうでもよくなって、千夜は素直に蒼藍の腕の中に納まった。

「何なんだ、まったく……」

「俺に見とれてばかりで桜なんぞ見ていなかったくせに」

「っ!? そ、そんなことはない!! うぬぼれすぎだぞ蒼!!」

「どうだか」

 くっくっ、と蒼藍が笑っているのが見上げなくとも絹越しの振動で分かる。恥ずかしさと悔しさで腹いせにぐりぐりと頭を押し付ければ、より一層蒼藍が面白がるだけで、勝ち目のなさに千夜はそこはかとない敗北感を覚えた。

 もぞ、と何とか身じろいで顔を横向ける。

 ひらり。ひらり。

 不規則に揺れて落ちていく桜色に、ほうとため息を漏らす。

「……きれいだな……」

「だろう?」

 自慢するように蒼藍が語るのがおかしかった。「蒼が咲かせたわけではないだろうに」と言おうとして、千夜はやめた。

 そっと蒼藍の胸元に手を置いたまま、黙って木々を見つめる。音もなく落ちてくる花びらが目の前を過ぎって、蒼藍の衣に着地した。ほんのりと端だけが色づいている花びらはとても繊細なのに、咲き誇る様は圧倒されるほどの迫力だ。だが今は満開のこの桜も、数日のうちには葉桜となるだろう。

「あっという間に散るんだな……」

「ここの桜は毎年狂喜さえ感じるほどの咲き方だからな。──だからこそ、美しい」

 低い声に込められた確かな称賛に、なるほどと納得した千夜は、その直後戦慄した。


 狂い咲きの桜。

 一斉に花開き、そして時を待たずに儚く散っていく。


 それは、まるで。



 まるで、蒼藍に比べてはるかに短い千夜の命を指しているかのようで。



 ぎゅうと蒼藍の袂を握りしめて、千夜は「だからなのか」と小さく呟いた。

「……どうした?」

 千夜の固い声色に気付いた蒼藍が少し腕の力を抜いて見下ろす。それでも千夜は顔を上げることなく、複雑な柄を描く蒼藍の衣を伏し目がちに見つめたまま、言葉を重ねた。

「だからなのか、蒼」

「何が言いたい?」

「……蒼がわたしに血を分けてくれないのは……」

「千夜?」

「いつまで経っても蒼と同じ時をくれないのは、儚さのあるものの方が美しいからか」

 ぎくりと蒼藍の身体が強張ったのが伝わってきて、千夜は息を呑んだ。次いで目頭が熱を持ちじわりと視界がにじむ。戯言(ざれごと)を、と千夜の不安を笑い飛ばして欲しかったのに。

 腕を突っ張って蒼藍と距離を取る。

「千夜、」

「女扱いしてくれると言ったのは、蒼じゃないか」

「千夜」

「わたしには蒼しかいないのに」

 早くに亡くなった母も、愛してくれなかった父も、憐れむだけだった姉も。千夜の小さな世界にいた人はもういない。持っていたちっぽけなものを捨てて千夜は蒼藍を選んだ。知らない世界に飛び込むことに不安がなかったと言えば嘘になるだろう。それでも蒼藍がいるからやってこられたのに。

「蒼をおいてばあさまになっちゃうじゃないか……」

「千夜!」

 ぐい、と顎を持ち上げられて、蒼藍と目が合った。千夜の潤んだ視界に、端正な彼が眉を寄せているのが映る。いつも余裕綽々といった蒼藍とは違う様子に驚いて、泣いていたことも忘れて彼に見入ってしまった。

 離れた身体を引き戻されて、腰に蒼藍の腕が回る。

「違う、そうではない」

「……何が違うんだ」

 密着した部分から伝わる熱に鼓動が高鳴った。それでも消えることのない不安に、ぶっきらぼうに千夜は呟く。

 ひらひらと花びらが無音で舞い落ちる静謐さの中で、蒼藍が言葉を探すかのように黙り込み、ややあってようやく重い口を開いた。

「俺は千夜が傷つくのを見たくなかったんだ」

 言葉としては届いても、その真意をくみ取ることはできなくて、千夜は「意味が分からないぞ」と返した。

 里の中は至って平和で、由葉という相談相手もできたし、確かに千夜のことを遠巻きに見ている者もいないではないが、ただ蒼藍が連れてきた千夜のことを邪険に扱う者はいなかった。里長であるという弥栄にもよくしてもらっていて、この里で千夜が傷つくことなどないのに。

「お前には分かるまい」

 千夜の髪に落ちてきた花びらを丁寧に払ってやって、蒼藍は続けた。

「血が薄れつつある一族の中でも俺の血は弥栄に次いで濃い。言い換えれば、里の者たちも人も、同じ時を永らえることはできない。見知った者たちが自分を置いて死んでいくことに、お前は耐えられないと思ったんだ。……俺のように」

「蒼……」

「血を分けたことをいつか恨まれやしないかと、それが怖かった」

 だから儀式を先延ばしにし続けたのだと、蒼藍は静かに言った。

 少し速い鼓動が蒼藍の緊張を千夜に教えてくれる。千夜より九十以上も長く生きている蒼藍はいつだって悠然としていて、千夜だけがやきもきしているのだと思っていた。だが実際はそうではなかったのだろう。

 不意にこの男が愛しくなって千夜は精一杯腕を伸ばした。小柄な千夜ではその大きな背中を抱えることはできなかったが、身を寄せてしがみつく。

 (うち)に秘めたこの熱が、少しでも蒼藍に伝われば良いと願いながら。

「蒼は、やっぱりじいさまだな」

「……千夜?」

 今はそのような軽口を叩く場面ではなかろう、と不愉快さを滲ませた目を向けられて肝を冷やしながらも、千夜は続けた。

「蒼は長く生きているから、そういう風に小難しくしか考えられないんだろう」

 二十にもなっていない千夜には蒼藍がこれまでどのように生きてきたか、ほんの一部分しか知らない。蒼藍は何も語らなかったし、目の前にいる蒼藍のことさえ知っていればそれで十分だと千夜も何も聞かなかった。

 だから確かに、蒼藍の言う通り千夜には分からないだろう。

 長く生きることの孤独も、不安も。

「わたしはもう子供ではないが、蒼ほどは長く生きていない。でもきっと、蒼が思うようにはならないぞ」

 だって、と千夜は蒼藍を見上げてにこりと笑った。

「だって蒼はずっと一緒にいてくれるんだろう?」

 蒼藍は千夜よりずっと年上で、聡明で、逞しく、強い。それにあの狭い世界から連れ出してくれたかけがえのない存在だ。その蒼藍が一緒にいてくれるのならば、怖いものなど何一つないと思えた。

「千夜……」

 呆気にとられたような蒼藍に向かって、しかつめらしく眉間に皺を寄せ、聞き分けのない子供に言い聞かせるかのように千夜は指を突きつける。

「それに、悪い方にばかり考えるものではないと思うぞ、蒼」

「?」

「子や孫ができれば、周りが死んでいくばかりではなくなるだろう。きっと賑やかだ。何より、心配しなくともわたしはずっと蒼から離れないからな! どうだ、これなら寂しくないだろう?」

 えへんと胸を張って見せれば、目を丸くしていた蒼藍が少しして小さく口の端に笑みを浮かべた。

 蒼藍は千夜ほど表情豊かではないが、それでも多少なりとも喜怒哀楽を表してくれている。だがその時の蒼藍は千夜がこれまで一度も見たことがないほどの、破顔という言葉がぴったり当てはまる、嬉しそうな笑顔で。

「千夜、お前……()い女だな」

「な、何だ。今更分かったのか?」

 蒼藍の掠れた声と眩しいほどの笑顔に心を奪われながらも、千夜は意地で軽口を叩いてみせた。

 そうすると蒼藍はおかしそうに声を立てて笑った。






「──い、おい! 紗雪!!」

 ぐい、と腕を引かれて初めて紗雪は呼ばれていたことに気付いて、顔を上げた。

 見上げれば見慣れた幼馴染の顔があり、目が合った途端に彼がぎょっとしたのが分かった。

「紗雪、どうしたんだ? 転んだのか」

「~~~っうるさい!! そんなはずないでしょ。いくつだと思ってるのよ芳影の馬鹿!!」

 一つ年下だからといつまで経っても自分のことを子供扱いする芳影に無性に腹が立ち、かんしゃくを起こしたかのような声を上げたことに、すぐさま紗雪は恥じ入った。

「じゃあどうして泣いているんだ」

 真っ直ぐに問いただされたが、とても答えられそうになかった。


 あんな。──あんな風に笑うなんて。


「……」

「黙っていたら分からないだろう、紗雪」

「……どうして千夜様なの」

 俯いたままの紗雪がこぼした囁きを聞き取った芳影は、ああなるほど、とすぐさま事情を理解した。

 かつて芳影が味わった苦い思いを、彼女もまた抱いたのだ。

「あんな風に笑う蒼藍様なんて知らなかった。どうしてそうさせたのが千夜様なのよ! どうして……人なんかに……。由葉だったらまだよかったのに……!!」

 弥栄に咎められた先ほどと同じ言葉を口にして、紗雪は昂ぶった感情のままに涙を溢れさせた。どれだけ大人びて見えても泣き方は幼い頃と変わらないままで、そして涙混じりの言葉を受け取って、芳影はため息をついた。

「紗雪。そうじゃないだろう」

「……何よ」

「本当に由葉なら良かったのか。そうじゃないだろう。もし本気でそう思っていたなら、それは恋なんかじゃない。単なる憧れに過ぎない」

 少なくとも芳影は相手が誰であろうと嫌だった。由葉がどんどん娘らしく綺麗になっていくのが、そしてそうさせたのが自分ではなかったことが、悔しくて仕方がなかった。弥栄と祝言を挙げ、幸せそうに笑う由葉にかける言葉など、見当たらなかった。

「なによぉ……」

 少しも優しくない幼馴染の言葉に本音を見透かされて、紗雪は顔を覆った。

 芳影の言う通りだ。本当は由葉だろうが誰だろうが、諦められなかった。ずっと蒼藍の伴侶になることを夢見て育ったのだ。千夜が人であることや、由葉でないことなど、関係ない。紗雪自身でなかったことが悲しいのだ。

「分かってるわよぉ。勝ち目なんてちっともないもの……。あんな、あんな風に笑う蒼藍様なんて知らなかった……!! 永らえることに不安をお持ちなんて知らなかったもの!!」

 芳影の前でみっともなく泣いていることは分かっていたけれど止められなかった。

 ひんひんと泣き声を上げる紗雪に、芳影は眉尻を下げ、背中を撫でてやった。

「泣け泣け。目が腫れたって笑わないから、気の済むまで泣いてしまえ」

「嘘よ。芳影は絶対笑うわ……」

 彼の袂でしっかりと涙を拭いながら憎まれ口を叩く紗雪に、芳影は笑いをこらえるのに苦労しながら、言葉通り気が済むまで紗雪を泣かせてやった。


 里のはずれにある桜の木々から離れた花びらが、不規則に流れてくる。

 泣き続ける紗雪をなぐさめるかのように優しく彼女の髪に落ちて、そしてまた風に乗っていく。

 時折絡んだままになるそれを丁寧に取り払ってやりながら、芳影は抜けるように青い空を見上げた。


 狂うように花開いた桜が、散っていく。

 そしてまた来年が来れば優しい色を広げるだろう。



 ──ひらり。ひらりと。

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