【番外編】むしぱん
「ただいまー」
三葉商店街のアーケードに面した店表ではなく、裏通りのプライベートな玄関の前に立ち、赤いランドセルを地面に下ろすと、百合はランドセルにくくりつけられている紐を伸ばして鍵を開けた。
両親は共働きとはいえ、自営業。
三葉商店街の中にある【ねこまんま食堂】で夫婦なかよく、そして忙しく働いている。自宅は他にあるが、いつも学校から直接ねこまんま食堂へと帰る。
ここでおやつを食べ、宿題をし、商店街の友達と遊び、たまに親の手伝い。それが百合の日常だった。
帰宅の挨拶をしても返事はなかった。それは両親ともに店舗側にいるからだと察する。
数年前まで一緒に働いていたおじいちゃんとおばあちゃんは、この店舗の二階に住んでいるが、返事がないところをみるとどうやら出かけているのだろう。
玉野百合は七歳。現在、三葉小学校の二年生。
双子の弟妹がいるが、保育園に預けられているため、今はいない。
扉一枚隔てた向こうから、両親が働く音が聞こえる。
現在午後二時三十分。どうやらランチの営業が終わって、夜の仕込みの真っ最中のようだ。
百合は店舗側に繋がる扉をそっと開けた。
何かを炒める音、グツグツ煮立つ音がより鮮明に聞こえる。
おずおずと顔を出した百合に、母がいち早く気付いた。
「百合、おかえり」
「おかえり、ゆり」
「ただいま~」
厨房に立つ父と、店内を掃除する母の姿を見て安堵する。それから逸る気持ちのままに下校途中にお友達とした約束について訊ねた。
「今日、お友達の家に遊びに行ってもいい?」
「どこのおうちにお邪魔するの?」
「愛美ちゃんち。おやつを持って集まって、おやつパーティーするの。いいでしょ、行っても」
最後の言葉が少々強めになったのは、母の表情が少し険しくなったからだ。ここで反対といわれたら約束を果たせない。
子どもには子どもの付き合いがあるのだ。愛美ちゃん家に百合を含めて五人の女子が集まる。いつも仲良くしているグループだ。今日行けなくなって、明日遊んでもらえなくなったら困る。
「いいけど……」
「けど?」
「今日のおやつ、百合と作ろうと思ってたからまだ用意してないのよ」
反対はされずに済んだことに安心した百合ははりきる。
「何作るの? やる! 手伝う。すぐ作ろう!」
百合は宿題を手提げかばんに詰め替えると、手洗いうがいをして、自分のエプロンを着けた。
百合の後から二階に上がってきた母が、二階のシンクで手を洗う。
「蒸しぱんを作ろうと思ってたんだけど」
「え、虫ぱん?」
百合は驚愕に目を剥く。
虫入りのパンなんか食べたくない。
百合が誤解しているのを察して、母がクスクス笑った。
「百合、違うの。蒸して作るから、蒸しパン。百合も食べたことあるでしょ。三角の」
と、言われて、百合の頭の中に巨大で茶色くて三角の蒸しパンが浮かんだ。
「えー、でもあれ地味だし。美味しいけど、茶色いし」
パーティーに持っていくにはちょっと……と百合は眉をひそめた。
母はにっこり微笑む。
「茶色くない蒸しパンを作りましよ。すぐできるから間に合うわよ。今から言う材料を集めてくれる?」
「うん」
「まず、小麦粉。それから砂糖、ベーキングパウダー、牛乳」
「うん、それから?」
百合は冷蔵庫や戸棚を開けて材料を集めた。
「それだけ」
「え、それだけ?」
「あとはトッピングするものと、シリコン型と紙カップと、フライパン」
母が深さのある大きなフライパンに水を入れた。クッキングシートを底に敷き、その上に小さな穴がポツポツ空いた蒸し皿を乗せて火にかけた。
「さあ、急いで生地を作りましょう」
小麦粉180グラムとベーキングパウダー小さじ1と半分を合わせる。母は百合に粉の入ったボウルと泡立て器を渡した。
「これをまぜまぜしてくれる?」
「うん、いいけど。振るったりしなくていいの? 遼伯父さんは粉は丁寧に振るうもんだって言ってたけど」
この狭い台所で小学二年生の娘に粉を振るわせたら、辺り一面雪景色になることは想像に難くない。
「泡立て器でまぜまぜするだけで振るうのと同じになるのよ」
「ふーん、あ、これ、遼伯父さんはウィスクって言うんだって言ってたよ」
「そうね、そうともいうわね」
美晴は娘が真剣にボウルの中身を混ぜているのを横目に、別の大きなボウルに牛乳を180ccと砂糖90グラムをゴムべらを使って混ぜた。
きび砂糖が溶けて、牛乳が少し黄色っぽくなる。
「百合、その粉をこっちに入れて」
「はぁい」
バフッと豪快に粉を移す百合。どうしてそうなったのか、顎の下が粉で白くなっていた。
ゴムべらでさっくり、切るようにして液と粉を混ぜていく。
つぶつぶとした粉の粒がやがて滑らかになっていく。
「次はそのシリコン型にお弁当用の紙カップを敷いて」
「うん」
マフィン型のシリコン型に、百合が色とりどりの紙カップを敷いていく。母が横からスプーンで生地を流し入れていく。どろんと粘度のある生地が紙カップの八分目ほど入れられた。
「さて、何も入れなくても美味しいけど、トッピングしても美味しいわよ。どうする?」
「トッピングって何いれるの?」
「そうねぇ、定番はレーズン、さつまいも、甘納豆かしら」
「ええ~、なんか地味」
おじいちゃんとかおばあちゃんのおやつみたいだ、と百合は顔をしかめた。
「そう? 結構美味しいんだけどな」
そう言いながら、すでに母はさつまいもを輪切りにして皮を剥いている。
「そうだ! それ、可愛く型抜きしてもいい?」
百合は六歳のお誕生日に両親からもらった『ワクドキパティシエせっと』の中から、花や動物などの形の抜き型を出した。
そして、用意されたレーズンや甘納豆、チョコチップなどで可愛くデコレイトしていく。
白い生地の表面に花畑や、クマの顔が描かれた。
「可愛いね、百合。それじゃ、蒸します。蒸気で危ないからここはお母さんがするわね」
百合の見守る前で、百合の蒸しパンがフライパンの中に収まっていった。
母はフライパンの蓋を手拭いで包んでから、フライパンの上に戻す。
「何してるの。これじゃ、膨らんでるの見えない」
「蒸気で蒸しパンがべちゃべちゃにならないようにしてるのよ。さ、これで15分待ったらできあがり」
※※※
15分後、フライパンの蓋を開ける母の横で百合は、期待を膨らませて覗きこんだ。ふわふわして膨らんだ生地の上に描いたクマの顔が可愛らしく立体化されているのをイメージしていた。
「……!!」
膨らんだ生地の真ん中にパカッと裂け目ができている。クマの鼻は横っちょにずれ、チョコチップの目はとろけて泣いているようにみえる。花畑は地割れができて悲惨な有り様だ。
百合は頭の中の完成予想図との差にショックを隠せないでいた。
母、美晴もかける言葉に悩む。
「こんなの可愛くない……もう間に合わない……」
百合はしょんぼりと肩を落とした。
「そうか? うまいけどな」
いつの間にか傍にやってきていた父、咲が泣き出したクマの蒸しパンをひょいと手に取り口に入れた。クマは二口で父の口の中に消える。
「美晴、チョコペンあるか」
母からチューブタイプのチョコペンを受け取った父は、泣き出したクマの目元にチョコを乗せていく。
「あ、パンダ!可愛い!」
「だろ。それとこの花のやつはそのままでも大丈夫だ。百合がいうほど悪くない」
「そうかな」
「百合、お友達との待ち合わせまであとどのくらいだ」
百合は壁の時計を見た。
「あと10分くらい」
「それだけあれば十分だ」
父は四つ切りにした小さな春巻の皮にバナナとチョコ、あんこと切り餅を巻いて揚げた。
油を切って、イチゴ柄のパラフィン紙に包む。
箱に蒸しパン五つとスイーツ揚げ春巻を入れて、百合は宿題の入った手提げかばんを持つと、階段を勢いよく降りていった。
ふと思い出したように百合は足を止める。
「お父さん、お母さんありがと。いってきます」
両親に見送られ、百合は商店街のアーケードを駆けていった。
手作りおやつなんてダサいかもしれないと今さら心配をしていた百合だったが、蒸しパンと揚げ春巻は意外に好評で、百合はほっと胸を撫で下ろした。




