後編
私が職場から離れることを許された頃には、もうとっくに日は落ちて、頭上には、星のない漆黒の空が、光を鮮烈に放つビルの奥でいびつな形に沈んでいた。その闇夜に吸い込まれるような、そんな感覚を抱いてしまって、私はそれを振り払うように目をぎゅっとつむる。それから、さっきまで耳障りな合成音声で私の耳にしきりに指示を伝えていたイヤホンを取り外して、携帯端末の中にしまい込む。
とたんに、耳を風の走る音が撫でた。両腕が地面に引かれてだらんと落ちようとするのを、かすかに残った筋力で引き留める。どくどくと身体の中を走る血が熱い。私は今にも崩れそうな姿勢をなんとか保つと、疲れた、と誰にも聞かれないように小さくつぶやいて、道を歩き始めた。
無音の街は、しかし場違いなように、しきりに上から下までネオンの光を放つ。——いや、この場合場違いなのは私のほうだった。街をゆく人は皆どこか呆けた顔でイヤホンを耳に引っ掛けて夢に浸っている。きっと彼らにとって、そしてこの街にとって、本番はこれからなのだろう。
彼らが聴く街の音は、しかし私の耳には入ることがない。一人ひとりに合わせたコンテンツの提供を謳うそのシステムは、彼らの娯楽を特権たらしめていた。
しかしその煌びやかな街にも果てがあった。わずかに車が通るだけのがらんとした大通りの向かいには、複製を繰り返したようなマンションの群れが唐突に現れて、じっと暗がりに紛れている。私はその対岸に向けて、道を直角に渡ると、ぎらぎらとした非日常の街をじろりと眺めた。
その大通りに沿って、バスの停留所まで歩いている途中に、夜に沈んだ街の一角だけが淡い光を放つのを見て、——そこはスーパーマーケットだった——、ふと買い物のことを思い出す。いつもは家の近くの商店を使うのだけれど、今日は何かそこまで向かうのが億劫で、私はふらりと、自動ドアをくぐった。
そこは、さすが街の中心街というべきか、広い売り場は明るく、品揃えも豊富で、しかし私には到底買えそうもないものばかりだった。冷やかしのように売り場を見て回りながら、その売り場の隅に追いやられているらしい栄養スープの棚を目指す。結局私には、それしか買えるものがなかった。
その道中すれ違う、荷物を運び、棚を整理し、床を磨くマシンたちの中に一人だけ、生身の人間が混ざり込んでいて、私はそっと目をそらそうとする。
しかし、それには失敗した。私たちの目はもうすっかりと合ってしまっていて、しかし私たちは、しばらくの硬直の後に、まるで何かに合意するかのようにひとつ会釈をすると、それからまた、他人のように別れる。
私もきっと、あの人のような目をしているのだろう——。疲れ切った、しかしその中に、優越感に浸るような色を湛えて。
——ほとんどの労働がコンピュータとマシンに置き換えられたこの街で、仕事にありつけるのは、何も持たない私たちにとってはある種の特権だった。
その店の端に、栄養スープは積まれていた。その中からいつもの味を数ケースまとめて、カゴに放り込んだ。ずっしりとした重みが腕にかかって、バランスを崩しそうになるのを耐えながら、私はレジの方へと向かう。
その途中で、棚の一列に目が止まった。上等な箱に入ったそれを、私は何気ないそぶりで手に取る。思ったより軽かったその小箱に、私は今日の朝の彼女の姿を思い出す。岬にこれを買っていったら、彼女は喜ぶだろうか。それともこれは、——施し、なのだろうか。
そうじゃないとは言い切れなかったけれど、そうだとは言いたくなかった。私は半分意地みたいになって、煙草の箱を手に握り込んで、そのままカウンターへと早歩きで行くと、手早く会計を済ませて、逃げるように店を飛び出した。
荷物は袋が手に食い込むほど重かったし、バスも人がぎゅうぎゅうに詰めていたから、私はアパートに帰りつくころにはもう気が沈んでしまっていた。ふるふるとおぼつかない手で鍵穴に鍵を差し込もうとしたところでドアが勝手に開いて、目線を上げれば岬がいた。
「おかえり、七瀬」
「……ただいま」
ちゃんと私が笑えているか、分からなかった。手元から袋が取り上げられて、キッチンへと持っていかれるのを、私は見ているしかなかった。
「ご飯あっためるからさ、シャワー浴びちゃってよ」
その声はひたすらに優しく耳を撫でる。狭いシャワー室にこもれば、彼女の鼻歌が外から聞こえてきた。——岬は、楽しいのだろうか、私がいて。そんな、突拍子のない疑問が頭をもたげるのは、実は初めてではなくて、その度に私は私を疑ってしまう。
ぽろぽろと流れる涙をシャワーで流して、私は平気な顔を作り上げた。そうして蛇腹開きの扉を開ければ、彼女の後ろ姿が横目に見えて、なぜだか安堵してしまった。
岬が用意してくれていた夕飯は、いつも通り、朝と同じスープだったけれど、私は岬の様子に気をとられて、あのケミカルな味さえも感じなかった。岬は幸せか、なんて、私から聞けるはずもなかった。私がそんなもやもやとした気持ちを抱えているうちに、食事は終わって、皿が彼女に片づけられていく。
「もう寝よ?」
それから、どれだけ呆けていたのだろうか。岬の手が私の肩に掛けられて、ベッドへと連れていかれる。——しかし、あれだけ疲れていたはずなのに、今はもう寝られる気がまったくしなかった。
キッチンで水を飲み干して、ふと傍らに、煙草の箱が置かれているのに気が付いた。そういえば、袋に入れたままにしていた、と私は思い出して、それから、彼女がこれを受け取らなかったことを悟った。私には、どうやって渡せばいいのか分からなかった。
手慰みに、フィルムを開けてみる。何となく、彼女の言う「まあまあ」がどんなものなのか知りたくなって、彼女の使うマッチを拝借した。
ベランダからは、明かりのない建物がずらりと並んで見える。手元で点けた火が、やけにまぶしく目を焼いた。ときどき見かける岬のやり方を真似して、先端に火を近づけると、一度、息を吸ってみる。初めての煙はまずくて、吸えたものではなかった。
すぐに消すのももったいなくて、手元でただ煙の上がるのを眺めながら、私はまた、突拍子のない疑問を浮かべる。
——私は、岬に何を渡せるのだろう。
私の生活に形を色々に変えてあらわれるその疑問に、私はずっと答えを見つけることができていない。




