前編
ある朝、私が目を覚ますと、いつの間にかカーテンの開けられた窓から、朝日が差し込んで、目いっぱいに部屋を陽光で照らしていた。そのやけに柔らかく穏やかな雰囲気に、私の目はまた閉じられて、微睡みへと誘われる。それは、この狭いアパートメントで得られる、最上の幸福の一つのように思われた。朝の光は暖かく私も包み、目を閉じればまぶたの裏には少しだけまぶしさが残って——。
しかしその時間は長く続かずに、枕元の携帯端末が小さく震える、それだけで、私の頭はしっかりと覚醒してしまうのだった。それは、もう習慣として染みついてしまったからなのか、それとも、この、何かに追われるような焦燥感のせいか。
ほとんど機械のように私は身体を起こすと、頭の上で腕を組み合わせて小さく伸びをする。それから、荒れた布団にちらりと目をやって、それではじめて、隣で眠っているはずの同居人が今日はいないことに気が付いた。
「……岬?」
その声は、応えられることなく部屋にただ広がるだけだった。私は一度部屋の中を見渡して、やはり彼女がいないことをたしかめる。——岬はどこに行ったのだろうか。
不意に、ゆらりと、窓の外で影が一度ゆれて、私がそちらに目を向ければ、ベランダのふちに寄りかかる岬の姿があって、私は彼女の習慣を思い出した。
がたつくアルミサッシを引いてガラスの嵌められた戸を開ければ、岬は私を振り返って、いつもみたいに、しまった、と顔を歪める。指先には、火のつけられた煙草。彼女は私の前で喫煙をしないことにしているらしいのは、なんとなく察していた。
「おはよ」
私は彼女の隣に寄って、そう声をかける。慌ててベランダの手すりで火を消そうとする彼女を止めれば、岬はあきらめたみたいに、また一度、その煙草を口に咥えて、すうと息を吸い込んだ。
「おいしいの、それ」
「まあまあ」
「ふうん」
しかし私には、彼女の左手に握りしめられた質の低いパッケージの中身が、味わって吸うほどのものだとは思えなかった。しかしそれが彼女の手に入れられる精いっぱいのものであることも、容易に察せられて、私はそれきり言葉を継げない。
——たとえば、私の職場の近くなら、もう少しだけまともなものが買えるのかもしれない、と、私はそう思い立つ。私には、もっと上等なものが買えるはずだった。
「……お待たせ、七瀬」
しばらく私がそのままたたずんでいると、岬はついに煙草を最後まで吸い終わったらしく、私の名前を呼んだ。
「朝ごはん食べよっか」
岬は私の言葉にうなづいて、ガラス戸から部屋の中に滑り込む。私はその後を追うと、彼女がじっと眺める食料棚を、彼女の背中から覗くように、一緒に目をやった。
「もうほとんどないね」
「そろそろ買いに行かなきゃ」
私たちはそんなことを言いながら、朝食の準備を始めた。まずは、豆のスープを二人分。紙パックに入ったそれを、岬は鍋にあけると、コンロにかける。その間に私は主食のオートミールを開けて、岬の横から鍋に流し込んだ。それから、しばらく二人で並んで温まるのを待っていると、だんだんと湯気が上がり始めて、途端に部屋中が独特な匂いに包まれる。噂ではスープに混ぜられた栄養剤のものらしいその匂いは、しかし、私たちの食生活の大部分を占めていた。
——市民の健康のための栄養スープ。私はパッケージに添えられた文句を思い出す。
岬によって皿に盛られたそのスープは、まだケミカルな香りを放ちながら、私の目の前に置かれて、それから彼女は席について、食べるように私を促した。それを合図に、熱を持ったアルマイトの器の、その縁を指先でそっと支えるようにしながら、スプーンで掬えば、雑然とした——食べなれたいつもの味が、舌をじわりと刺激する。
それは、確かに私たちを生かすための食事だった。
私は手早くそのスープを飲み干すと、さっさとキッチンの方へ皿を持っていく。それから、水で汚れを流して適当な壁に立てかけると、戸棚の中から、一つ、小さなパックを取り出した。
オレンジジュース。果汁なんて一滴も入っていないその液体はしかし、まずい食事の口直しとして、ストローで一口吸い上げれば、さっぱりとした感覚を私に届ける。まだもぐもぐと口を動かす岬のそばを通って、窓際に行けば、同じような灰色の建物がずらりと並んだ光景が、ぐるりと見渡せた。
その景色も、手元のジュースも、私のかすかな特権だった。——小さなにせもののフルーツ、人を押し込めた建物の最上階。しかし私は、そのどれもに、心のどこかで優越感を感じている。
……ぜんぶ、私が働いているから持てたものなんだ。
ふうとため息を一つ吐いて、私は窓から離れる。もう出かける時間になってしまったようで、携帯端末がけたたましい音を上げていた。
「これ、飲んじゃってよ」
「……いいの、七瀬?」
私は、ちょうど半分残したジュースを、机の上に置いて、岬を見た。この行動も、彼女の台詞も、毎日繰り返していることなのに、……その声を聞くたびに、私の抱えるささやかな優越感の中に、ざらりとした感覚が交じる。
それは、たぶん罪悪感だった。




