身体を連れて
最後に覚えているのは、会社の警報音だった。
最初、その音は大きくなかった。どこかの階でプリンターが紙詰まりを起こしたような音だった。みんな顔を上げ、またキーボードに向かった。二度目の音が鳴り、照明が点滅し、窓の外の空が白く光って、ようやく誰かが立ち上がった。
「空襲だ」
誰かが言った。
それまでその言葉は、ニュースや地図の中にあるものだった。彼らから遠い地域のものだった。
みんな階段へ走った。
パソコンを抱える人がいた。
上着をつかむ人がいた。
エレベーターに飛び込んで、別の人に怒鳴られて戻る人がいた。
今朝会社に来るんじゃなかった、と走りながら悪態をつく人もいた。
彼は人の流れに混じって階段を下りた。タイムカードの機械の前を通るとき、反射的に時刻を見た。
九時十七分。
その後は、白い光だった。
目を覚ましたとき、彼は立っていた。
それ自体は不思議ではない。不思議だったのは、「立ち上がった」という感覚がなかったことだ。まるで何かにそこへ置かれたように、視界は高く、両腕は体の横に垂れ、胸のあたりから微かな電流音がしていた。
彼は下を見た。
金属の手があった。
指は太く、関節はむき出しで、掌には安いゴムの膜が貼られている。何か所か塗装がはげ、灰白色の下地が見えていた。左手首にはラベルが貼られていた。
搬体六型:臨時意識保持ユニット
彼は長いことそれを見ていた。
それから顔を上げた。
部屋は臨時手術室のようだった。壁には亀裂が入り、蛍光灯は半分壊れ、床には血とケーブルが散っていた。遠くから、爆発の後の低い響きが聞こえた。都市が咳をしているみたいだった。
隣の台に、一人の人間が横たわっていた。
胸には包帯が巻かれていた。腹部には管が刺さり、顔には血がつき、髪は一部切り取られていた。肌は青白く、唇は少し開いていた。
誰なのか分からなかった。
右手の中指にあるペンだこを見るまでは。
自分の手だった。
彼は昔から筆圧が強く、高校の宿題でできた硬いたこがあった。就職してからも、書類に署名し、メモを取り、そのたこはずっと残っていた。
一歩近づいた。
金属の足裏が床を踏み、空っぽな音がした。
彼は台の上の身体を見下ろした。
ひどい姿だった。
ただ見た目が醜いという意味ではない。人間に見えないほど、自分に見えないほどだった。身体は包帯、血痕、止血器具、管によっていくつもの部分に分けられていた。尊厳も表情もなかった。ただ静かに横たわり、災害の中から拾い出されたものの、まだ使えるかどうか分からない物品のようだった。
しばらく見てから、彼は聞いた。
「今、どっちが俺なんだ」
答える者はいなかった。
部屋には機械の唸りだけがあった。
彼は医療用の冷蔵箱を見つけた。古く、蓋の縁にひびがあり、電源コードが車輪に絡まっている。彼はその不器用な金属の手で、自分の身体を手術台から抱き下ろした。
身体は思ったより軽かった。
冷蔵箱へ入れるとき、彼はとてもゆっくり動いた。機械の手は細かく動かず、何度か傷に触れそうになった。そのたびに彼は小さく言った。
「ごめん」
言ってから、彼は動きを止めた。
誰に謝ったのか分からなかった。
冷蔵箱の蓋を閉じ、ロボットの背面に外部電源を接続した。
そして、冷蔵箱を押して手術室を出た。
廊下には誰もいなかった。
ドアのそばに靴が片方落ちていた。壁には避難誘導の表示があり、スピーカーからは途切れ途切れの放送が流れていた。
「未避難の方は、地下通路へ……」
後半は雑音に呑まれた。
ガラス戸の前を通ったとき、彼は自分の映り込みを見た。
ロボットはひどく不格好だった。
頭部は古い監視カメラのようで、肩は四角く狭く、胸には番号があり、脚の関節は歩くたびにぎこちなく引っかかった。映画に出てくる美しい義体とは違う。倉庫から急きょ持ってきた搬送機械のようだった。
彼は映り込みを見て言った。
「まあ、いいか」
それから隣の冷蔵箱を見た。
「今の俺たち、かなりひどい引っ越し業者みたいだな」
当然、返事はない。
だから彼は箱の代わりに答えた。
「少なくとも、もう出社しなくていい」
少し間を置いて、箱の代わりにもう一言足した。
「代償が大きすぎる」
それが、彼が初めて自分の身体と話した瞬間だった。
都市は裂けていた。
会社の下の広場には大きな亀裂が走っていた。昼休みに座っていたベンチは横倒しになり、そばには紙コップが灰に埋もれていた。
彼は以前、ここが嫌いだった。
朝の混雑が嫌いだった。
会社の入口の回転扉が嫌いだった。
昼食に何を食べるか毎日決められず、また同じ店に行くのが嫌いだった。
その店は、いま半分崩れていた。
メニューだけがまだかかっていた。
彼は急に、それを食べたいと思った。
ロボットは空腹を感じない。
それでも、食べたかった。
胃の要求ではなく、記憶の要求だった。
彼は冷蔵箱に言った。
「お前、いつも食べるの早かったよな」
しばらくして、また身体の代わりに答えた。
「お前がゆっくり食わせなかったんだろ」
彼は反論しなかった。
その通りだった。
彼はいくつもの昼を思い出した。自席で、左手にパンを持ち、右手でメールを返す。胃が少し痛み、冷たいコーヒーで押し流す。本当なら休むはずの週末、休む資格がない気がして、またパソコンを開く。
昔の彼にとって、身体は面倒だった。
腹が減る。眠くなる。痛む。熱を出す。
座り続ければ腰が痛くなり、立ち続ければ足が痛くなる。コーヒーを飲みすぎると心臓が速くなり、飲まなければ眠くなる。
身体はいつも彼を遅くした。
いま身体は箱の中に横たわり、もう彼を遅くしない。
それでも彼は、それを押して歩いている。
地下鉄の入口はまだ灯っていた。
改札は青く点滅し、下のホームから水音が聞こえた。たぶん消防管が破れている。自動放送はまだ繰り返していた。
「ICカードをタッチしてください」
彼は改札の前に立った。ロボットには交通系ICがない。ゲートは開かない。
しばらく考えたあと、冷蔵箱の小さな袋を開け、身体のズボンのポケットから財布を取り出した。
財布は半分濡れていたが、カードは無事だった。
彼はそのカードを改札にかざした。
「ピッ」
ゲートが開いた。
彼は冷蔵箱を押して通った。
そのことが、妙におかしかった。
今歩いているのはロボットだ。
けれど改札を通れるのは、箱の中で横たわっている人間のほうだった。
彼は身体に言った。
「ほらな。お前がいないと、地下鉄にも乗れない」
身体は答えた。
「前からそうだった」
彼は、今は違うと言おうとした。
でも言わなかった。
それほど違わない気がしたからだ。
彼は地下鉄には乗らなかった。
線路は断裂していて、ホームの半分は水に浸かっていた。通路を抜け、別の出口から地上へ出ただけだった。階段は長く、冷蔵箱の車輪が段差に当たって重い音を立てた。
ロボットは息切れしない。
それでも彼は疲れた気がした。
彼は城外へ向かった。
戦争は道を空っぽにしていた。明確な目的地も、明確な追手もなかった。ただ、どこにも留まれなかった。建物は崩れ、道は裂け、信号は届いたり途切れたりした。空ではときどき航空機が高く冷たい音を立てて通った。
昼間、彼は焼けた住宅街を通った。窓枠にはガラスがなく、ベランダの洗濯物は灰をかぶっていた。ある家のキッチンは壁が崩れ、食卓が外へ露出していた。卓上には半分残った醤油瓶があった。
夜、彼は廃棄されたサービスエリアで足を止めた。
以前はにぎわっていた場所なのだろう。いまは商品棚が空で、自販機は横倒しになり、ガラスが一面に砕けていた。彼はまだ使えるコンセントを見つけ、冷蔵箱と自分を充電した。
充電しながら、身体を拭いた。
冷蔵箱を開けると、冷気が流れ出た。身体は静かに横たわっていた。顔の血は固まり、口元には乾いた痕があった。
濡れた布でゆっくり拭いた。
機械の手は不器用で、力が入りすぎる。何度も指の圧力を下げなければならなかった。額を拭くところで、彼は止まった。
その顔は見知らぬものだった。
そして、見慣れたものでもあった。
目尻には二十九歳のころから出始めた浅い皺があった。顎には大学時代、自転車で転んだときの小さな傷があった。右手の甲には、初めて借りた部屋でラーメンを作ったときにできた古い火傷の痕があった。
彼はそれまで、それらをろくに見たことがなかった。
鏡の前で確認していたのは、自分が体面を保っているかどうかだけだった。髭は剃れているか。クマは目立たないか。服にしわはないか。
彼は自分をあまり見ていなかった。
まして、感謝したことなどなかった。
彼は身体の右手を取った。
その手は冷たく、青白く、指には細かな傷があった。
この手はたくさんの文字を書いた。
賃貸契約に署名した。
エレベーターのボタンを押した。
深夜、熱を持った自分の額に触れた。
彼はその手に言った。
「お疲れさま」
今度は、身体の代わりに返事をしなかった。
サービスエリアの外では風が吹いていた。破れた看板が揺れ、規則的に音を立てた。ロボットの胸の電流音は安定していて、冷蔵箱は低く唸っていた。
彼はふと思った。以前の自分も、こんなふうに運転されていたのだ。
昼間は会社で運転されていた。
夜は部屋で運転されていた。
週末はスマホ画面の前で運転されていた。
人は一台の装置のように、完全に壊れないかぎり使い続けられる。
彼はそんな生活から逃げ出したかった。
本当に逃げ出したいま、想像していたほど自由ではなかった。
サービスエリアで見つけたミカンをむこうとした。
一度目、ミカンが裂けた。
二度目、汁が飛んだ。
三度目、ミカンは湿った失敗の塊になった。
彼は手の中の残骸を見つめ、冷蔵箱に言った。
「見ろよ。今の俺、ミカンも食えない」
身体は答えた。
「前からあまり果物食べなかっただろ」
彼はミカンを床に置き、急に笑いたくなった。
ロボットには笑う機能がなかった。
スピーカーから短い雑音だけが出た。
ひどく聞き苦しい音だった。
彼は身体に言った。
「笑うなよ」
身体は言った。
「先に笑ったのはそっちだ」
彼はまた歩いた。
道はだんだん開けていった。都市は背後へ退き、放棄された道路は北へ伸びた。両側には畑があり、一部は焼けていたが、完全には死んでいなかった。ところどころに小さな緑が出ていた。
彼は身体と話すことに慣れていった。
朝、彼は言う。
「今日はどっちへ行く?」
身体は答える。
「前は通勤でも道に迷ってたくせに、今さら探検家か」
昼、彼は言う。
「お前が起きてたら、こんなふうに引きずってる俺を怒るかな」
身体は答える。
「怒る」
「なんて?」
「やっと俺を外に連れてきたな、って」
夜、彼は言う。
「俺、もうおかしいのかな」
身体は答える。
「前から自分と話してた。ただ箱がなかっただけだ」
その答えは、もちろん彼自身のものだった。
でも、完全にそうとも言えなかった。
それらは身体の中から生えてくる古い声のようだった。かつて肉体の中に閉じ込められ、胃痛、疲労、気まずさ、不眠、普通の暮らしに耐えてきた彼自身が、ようやく反論する場所を手に入れたようだった。
ある夕方、彼は廃墟になったガソリンスタンドを通りかかった。
棚の裏に鏡があり、三つに割れていた。彼が箱を押して通ると、鏡には二つの自分が同時に映った。
一つは立っている。金属の外殻、胸には番号。
一つは横たわっている。白い冷気の中で、顔色が悪い。
どちらも彼には見えなかった。
どちらも彼だった。
彼は鏡の前で長いこと立ち止まった。
昔は、目覚めているほうが自分だと思っていた。
その後、身体こそが自分だと思った。
今になって、どちらが本当の自分かという問いではないのだと気づいた。
問題は、これらの不完全なものを、彼がどう語るかだった。
もし自分がロボットの中の意識でしかないなら、これまでの二十数年は急に切り離される。
もし自分が冷蔵箱の中の身体でしかないなら、箱を押して廃墟を歩くこの存在は何なのか。
彼は身体に言った。
「今の俺たち、説明しづらいな」
身体は言った。
「前から説明うまくなかった」
「今回はもっと難しい」
「じゃあ、先に説明しなくていい」
だから彼は歩き続けた。
戦争終結のニュースを聞いたのは、曇った日だった。
拾ったラジオがまだ受信できた。音声は途切れ途切れで、停戦協定が締結され、主要戦区は清掃段階に入る、残存者は指定登録地点へ向かうようにと告げていた。
彼は言った。
「終わったんだ」
身体は答えなかった。
彼はもう一度言った。
「普通なら、喜ぶべきなんだろうな」
身体はやはり答えなかった。
彼はラジオを切った。
風が強く、道端の草を揺らしていた。遠くの空は低く、晴れるかどうか決めかねているようだった。
彼は街へ戻ることにした。
戻り道は、出ていくときより遅かった。
困難だったからではない。一歩近づくたび、戻ることは過去へ戻ることではないと、よりはっきり分かったからだ。
会社のビルは半分だけ残っていた。
彼は元のロビーの外に立った。受付はなく、ゲートは倒れていた。
冷蔵箱を押して中へ入った。
エレベーターは動かず、階段には灰が積もっていた。彼は上らなかった。ただロビーに立ち、かつて毎日ここを通った自分を想像した。コーヒーを持ち、カードをかざし、会釈をし、席へ向かう自分を。
そのころは、あの生活がいつまでも続くと思っていた。
今、それは本当に終わっていた。
彼は昔住んでいたアパートへ行った。
建物は半分崩れていた。彼が住んでいた階は壁を切り取られたように開き、家具が風にさらされていた。一羽の鳥が窓枠に止まり、首をかしげて彼を見ていた。
本棚は倒れ、床には本が散っていた。雨で膨れたものもあれば、灰をかぶったものもあった。ベッドは元の場所にはなく、机は脚が二本だけ残っていた。
彼は部屋に入れなかった。
ロボットの足では、床が耐えられなかったからだ。
だから廊下に立ち、しばらく見ていた。
彼は冷蔵箱に言った。
「ここ、覚えてるか」
身体は答えなかった。
「覚えてるよな」
やはり答えなかった。
彼はようやく、身体が本当に答えるわけではないことを思い出した。
これまで聞こえていた声は、彼が必要としていたから聞こえていたのだ。
彼は冷蔵箱の取っ手に手を置いた。
「もう少しだけ、付き合ってくれ」
その後、彼は街の端にある小さな山へ向かった。
そこは昔、一度だけ会社の人たちと行った場所だった。休日なのに職場の人間と山に登る意味が分からず、彼はずっと不機嫌だった。けれど山頂からは街がよく見えた。あのとき誰かが、こう言った。
「たまには身体動かさないと」
彼は当時、心の中で思った。
身体なんて、仕事に必要なだけ動けばいい。
今、彼はその身体を押して山を登っている。
道は荒れていた。木の枝が折れ、階段には泥がたまっていた。冷蔵箱の車輪は何度も引っかかった。彼は機械の腕で持ち上げたり、押したり、引いたりした。
ロボットのバッテリーは低下していった。
警告が胸の内側で点滅した。
それでも登った。
山頂に着いたとき、夜明けだった。
都市は下に広がっていた。ビルはところどころ欠け、道路は裂けた線のようで、川は街の端を回り込み、朝の光を受けて白く光っていた。遠くにまだ煙があったが、ずいぶん薄かった。鳥が廃墟から飛び立ち、別の廃墟へ降りた。さらに遠くには畑が広がり、いくつかの場所はもう緑だった。
彼は冷蔵箱を山頂の平らなところへ押した。
開けた。
冷気が流れ出た。
身体は静かに横たわっていた。
彼はそれを見た。
ただ横たわっている。青白く、傷つき、沈黙している。手のたこ、顎の傷、胃痛の記憶、徹夜の疲れ、食べかけの朝食、地下鉄へ急いだときの心拍、数え切れない普通の日々が積み重なった重さを抱えて。
彼は言った。
「お疲れさま」
冷蔵箱を閉じた。
太陽が遠くからゆっくり昇ってきた。光は都市の廃墟に落ち、冷蔵箱の金属の縁に落ち、彼の安物のロボットの腕にも落ちた。
彼は山頂に座った。
ロボットは疲れない。
けれど彼は、座った。
人間のように。




