第27話 待っていて
お兄様の声とともに、わたくしたちは一斉に駆け出しました。吹き荒れる魔力の嵐の中を、一直線に。あれほど重かった足取りが、今は信じられないほど軽やかです。自分の中に灯った小さな光が、体を前へ前へと押し出してくれました。
「マルちゃん」
「その名で呼ぶことを許可した覚えはない。ラル」
魔力が渦巻く中、殿下が声をかけた相手はお兄様でした。彼は歩みを止めようとせず、ただ前だけを見ています。
「もしさ、セレーナ嬢が間違った道へ進んだらどうする?」
軽薄に聞こえる声の奥に、弟の傍に寄り添えなかった兄としての悔恨が横たわっていました。他ならぬ家族の手で、国の人間が永劫の苦しみに囚われている。それでも彼はなにもできない──ただ無力さに打ちひしがれるだけで。そんな絶望の中にいたのでしょう。
「正す。抗うのなら、その道を潰す。兄としてな」
迫り来る魔物を風の刃で切り刻みながら、「以上だ」とお兄様は淡々と告げました。迷いなどあるはずもなく、あまりにも真っ直ぐな言葉でした。
「はは、マルちゃんって迷いがないけど面白みもないんだろうね。だからモテないんだろうなぁ」
「喧嘩か? 後で買ってやるから待っていろ」
不器用なお兄様が珍しく軽口を叩きながらも、鼻をすすり続ける未来の聖女に幾度となく視線を向けています。ずっと彼女の様子が気掛かりだったのでしょう。
「ご令嬢はセレーナの友人か?」
「え、いや、あたしは」
「妹と懇意にしていただき、感謝する。セレーナのために、こんなところまでついてきてくれたのだろう」
イアムはわたくしの手をぎゅっと、きつく握りしめます。
「はい、あたしは……世界のためなんかじゃない。友達のために、ここまできました」
わたくしも彼女の手をぎゅっと、強く握り返しました。その温もりがあれば、世界が壊れようとなんとかなる。そんな思いにさせてくれました。どれほど走り続けたでしょうか。あれだけ軽かった足が、また鉛のように重くなっていきます。それでもただ前へ、前へと進みます。
気づけば、丘の麓に辿り着いていました。足を止めた瞬間──背後から地鳴りが響き、邪悪な気配が押し寄せてきます。振り返らずとも分かりました。魔物の大群が、もうそこまで迫っているのです。お兄様が怯えるわたくしの前へと立ちました。
「行け、セレーナ。貴様はこの先に行かなければならないのだろう」
「お兄様……でも、この数をお一人でなんて危険です!」
叫びより早く、お兄様の隣で殿下が剣を抜き放っておられます。
「いやぁ、マルちゃん一人に格好いいところを全部持っていかれるのは癪だからね」
「くだらん」
殿下は友の肩に手を置き、迫りくる黒い魔物たちを真っ向から迎えていました。お兄様は苦々しく眼鏡を押し上げています。けれど、その仕草はどこか照れ隠しのようにも見えました。
なんとなく分かっていました。これがお兄様とお話しできる最後かもしれない、と。言わなければ。今、ここで。
「大好きですわ。わたくしの世界で一番かっこいい……お兄様!」
普段なら絶対に口にしない言葉。マルシュ・チェルアルカは、わたくしの言葉を黙って受け止めてくれました。これからなにが起きるか、彼はもう分かっていらっしゃる──その沈黙が答えでした。
「セレーナ、貴様の道は必ず俺が切り開こう。安心して兄にその背を任せるがいい」
涙が溢れそうになり、視界が揺れます。アル、あなたもこんな気持ちを千年ずっと抱えていたのね。胸が張り裂けるほどの痛みと、どうしようもない愛しさを。
「イアム」
殿下がイアムを呼びます。彼女は返事こそしませんでしたが、導かれるように歩み寄っていきました。
「君のクッキー、なかなか刺激的だったよ」
「なっ、最後にそれ!?」
「……嫌な役回りを押し付けてしまって、すまないね」
心の底からの笑顔を見せたあと、殿下はイアムの頭にぽんと手を置きました。彼女は小さく呻き、目から大粒の涙を零します。強くあろうと振る舞うけれど、彼女はとても涙脆い。
聖女に向けた一人の男の眼差しは、遠い日の弟を見るように優しいものでした。
「イアム、明日を頼むよ」
殿下はご自身の腕輪をイアムに託しました。彼女は震える手でそれを受け取り、抱きしめます。その腕輪だけが、二人が共に抗い続けた時間の唯一の証でした。
丘への道を駆け上がりました。振り返る余裕などありません。背後から、暴風の轟音、剣撃の閃き、魔法の炸裂音が絶え間なく響き続けています。
わたくしはただ、前だけを見て走り続けました。
──アル。
心の中で呼びかけるたびに、彼が一人で震えてうずくまっている姿が浮かびます。
あなたのいる場所へ、もうすぐ着くから。
だから、お願い。
待っていて。




