第一話 ブラックジャック
カジノには時計がない。
パーカーとジーンズ姿の青年——蒼太。
彼の端末に浮かぶ数字は、528。
一時間前は524。三時間前は532だった。
「まだ大丈夫ですよ」
隣に座る男が、静かに微笑む。
「あなたのスコアなら、あと五回は負けられる計算です。六回目は、さて……どうでしょうね」
――――
数時間前——
ルーレットの球が転がる小さな金属音。
チップが擦れる音。
笑い声、ため息。
扉の向こうから漏れ聞こえる音に、蒼太は落ち着かない様子で目を動かした。
受付の女性が、無表情に告げる。
「端末を提示してください」
手首を差し出すと、女性が端末をスキャンする。
「蒼太様。現在のスコア、520。
ゲームへの参加資格があります。
ルールを説明いたします」
——ルールは、シンプルだった。
ゲームに勝てば、チップを得る。
負ければ、チップを失う。
そして、スコアがゼロになれば——
「社会的に隔離されます」
女性は淡々と続ける。
「ご質問は?」
「……いや」
「では、ゲームフロアへどうぞ」
蒼太は手首の端末に目を落とした。
520。
脳裏に、妹の端末の数字が浮かぶ。
89。
「……行くしかない」
――――
扉をくぐると、喧騒が身体を包んだ。
蒼太は周囲を見回しながら、カジノの中を進む。
カード。
ルーレット。
スロットマシン。
「…何にするべきか」
あてもなく歩いていた蒼太の前で、老人が転んだ。
チップが床に散らばる。
蒼太は老人に駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
老人が顔を上げる。
「あ、ありがとう……」
ふと目をあげると、周囲の人間は冷たい目で見下ろしている。
そして、何事もなかったように戻っていく。
「…なんだよ、この空気」
蒼太は老人を起こし、チップを拾い集める。
「どうぞ」
老人が受け取る。
「……ありがとう。あなたは、優しい」
老人が蒼太の顔をじっと見る。
「でも——ここでは、それは弱さになるだろう。…気を付けて」
蒼太は首を傾げる。
「弱さ?」
老人は答えず、去っていく。
蒼太は視線を感じ、あたりを見回した。
「…気のせいか」
首を傾げながら立ち去る蒼太の背中を、スーツの男が見ていた。
――――
蒼太はフロアを歩きながら視線をさまよわせた。
そして、ブラックジャックのテーブルで足を止めた。
「たしか、21に近いほうが勝つゲームだな。これなら、俺でもできるかも」
蒼太は椅子に腰を下ろした。
ディーラーの声が響く。
「次のゲームを始めます」
ディーラーがカードをシャッフルする。
蒼太は固唾をのんで見守った。
配られたカードに目を落とす。
蒼太はカードを手の上でゆっくりと広げた。
8♦、7♠――合計15。
「…もう一枚ください」
蒼太の前に、もう一枚カードが配られる。
2♦――合計17。
ディーラーの伏せたカードがちらりと見える。
表向きのカードは6♣。
「もう一枚引くか、ここで終わるか…」
蒼太が呟いたその時——
「私なら、引きませんね」
突然背後から低く囁かれた声に、蒼太は思わず振り返った。
ダークネイビーのスリーピースを着た男が、蒼太を覗き込んでいた。
「17で十分です。相手は6を持っている。バーストの可能性が高い」
「…誰だ、お前」
男は端正な顔立ちに、微笑を浮かべる。
「観察者、とでも呼んでください。…あなた、初めてでしょう?」
「……わかるのか?」
「ええ。手が震えていますから」
男の指摘に、蒼太は手に視線を落とした。
自分では気付いていなかったが、確かに細かく震えている。
「遠からず、あなたの数字はゼロになるでしょう」
蒼太の喉がヒュッと音を立てた。
荒い息が、やたら大きく聞こえる。
男は、蒼太のチップを一枚取り上げ、指で弾きながら笑みを深めた。
「提案があります」
「…提案?」
「はい。私があなたを勝たせてあげます。その代わり——あなたの『善性』を、観察させてください」
蒼太は眉をひそめる。
「善性? ……何だよ、それ」
「あなたは優しい。さっき、老人を助けましたよね」
男が微笑む。
「この空間では、珍しい行動です。だから、観察したい」
「観察って——」
「あなたがする選択に興味があるのです」
蒼太は男を睨む。
「……断ったら?」
「どうぞ。私は構いませんよ」
男が肩をすくめる。
「ただ——」
男が蒼太の端末を指差す。
「このままだと、あなたは遠からずゼロです」
蒼太は歯噛みする。
「……わかった」
男が微笑む。
「では、ゲームを続けましょう。スタンドしてください」
「スタンド?」
「もうカードを引かない、ということです」
「…わかった」
蒼太はスタンドを宣言した。
ディーラーが自分のカードをめくる。
6♣、K♥——合計16。
ディーラーは規定に従い、もう一枚引く。
「頼む……」
蒼太は手を組み祈る。
ディーラーのカード——Q♠。
合計26。
バースト。
「……勝った」
チップが蒼太の前にスライドされた。
端末の数字が増加する。
520 → 528。
男が囁く。
「よかったですね」
「…ありがとう」
「いえいえ。これくらいお安い御用です」
これが蒼太と男の出会いだった。




