8.命の果てにこそあるもの
*****
死。
命ある者に必ず訪れるもの。
そこに例外などは無く、誰であろうとあまりにも無慈悲に生は終わる。
それはすべての消滅であるとも、魂は神の御許に迎えられるとも、
輪廻によって再度生まれ変わるともいわれる。
死の先を本当に知る者はいない。
故に命ある者は死に怯え、死を恐れ、少しでも死を遠ざけようともがく。
だが、死を間近で感じながら、それでもなお己の道を歩み続ける者たちは言う。
どんな風に死ぬのかはどうでもいい。
人生を精一杯に生き抜いたなら、どんな死であっても納得できる、と。
*****
深い森に作られた、長年整備もされていないであろう細い道を進む。
近くの町で聞いた噂。
この森の奥に、長年にわたり世界中を旅して槍を極め、
生ける伝説となった男が隠棲しているという。
シルスとよく似た境遇に気を引かれ、その男に会うため森に入った。
たとえ無駄足になるのだとしても、
行った後悔より行かなかった後悔の方が耐えられないだろうから。
噂がその通りだった事は一度も無かったが、それでも出会えた人たちはいた。
今までの旅路を思い出しながら、森を歩く。
わずかな木漏れ日の中で脳裏に浮かんでくる懐かしい人々の姿は、
まるで死す時に見るという走馬燈のようだと思った。
森に入ってから半日ほど。
木々の隙間からわずかに見える空は赤く染まり、
もうすぐ夜が来る事を告げる。
歩き続けると道がようやく広くなっていき、小さな村が見えてきた。
しかし、村を覆う柵はぼろぼろに朽ちていて、
家屋も長年手入れがされていないような状態。
一見すると廃村にしか見えないのだが、奇妙な違和感があった。
地面にしゃがみ、生えている雑草を見る。
故郷の畑で何度抜いても復活して散々手を煩わせてくれた雑草が、
一部の道と広場だけ手入れされたかのように無かった。
誰かがまだ住んでいる。
そう確信し、いつでも槍を構えられるようにしながら村へと入る。
手入れされた道を進んでいくと、
それなりに景観を保っている二つの家に辿り着く。
雨風をしのぐには十分だが、長く人が住めるような状態ではない。
家の前でどうしようかと思案していると、
左の家から激しく咳き込む声が聞こえた。
飲み物や食べ物でむせたようなものではない、
聞いただけで命にかかわるような咳。
警戒を怠りはしなかったが、
意を決して左の家に急いで入り、声の主を探す。
小さな家だったので、すぐに見つかった。
毛布に仰向けで倒れ伏す老人。
床には吐血したであろう赤黒い血だまりがぶちまけられていた。
「ご老人、しっかり!」
すぐさま駆け寄り、息を確保するため老人の体をゆっくりと横にする。
吐けなかった血が流れだした。
一体何があったのかと考える間もなく、誰かがこの家に入ってくる。
「あんたは!? いや、今はどうでもいいね。
しばらくそいつを指示通り動かしてくれるかい?」
赤い法衣を身に着けた老婆。
炎の魔術師、その中でも癒しに特化した者たちの装束。
シルスの姿に最初は驚いたようだが、
すぐに冷静さを取り戻し指示を出す老婆。
癒し手らしく医術の心得もあるのか、
てきぱきと治療を施して老人の容態を安定させた。
「……すまないな、ターラ。それに流離人の方」
老人はなおも苦しそうではあったが、
それなりに落ち着いた様子で喋る余裕も出てきた。
「ところで、あんたはこんな所に何しに来たんだい」
ターラと呼ばれた老癒し手は、怪訝な顔をしてシルスに問いかける。
シルスが答えようとする前、老人が先に答えた。
「私に会いに来たんだろう? 槍の極みを求める武芸者よ」
何も喋ってすらいないのに目的を当てられた事に驚愕して、
老人の顔をまじまじと見つめてしまう。
その様子を見たターラは、心底呆れた表情で二人を見ていた。
「ここに世界中を旅して槍を極めた男がいると聞いて、
稽古をつけてもらいに来ました」
一応は言葉にしたが、既に分かっている事だった。
この老人こそがその男なのだと。
顔色は悪く、まともに食べる事もできないのか体は痩せ衰え、
明日にも命が尽きるであろう老人。
「世界は旅したが、槍は極められていないがね。私はチャンドという」
「流離人のシルスです、よろしく」
チャンドは右手を差し出して血塗れである事に気が付き、左手を差し出す。
その手を握って握手をする。
利き腕でない事を考えても、まるで力が込められていなかった。
その日の夜。ランタンの淡い光だけが照らす一室。
「すまないね、夕飯がこんな遅くになってしまって」
ターラがシルスの分も食事を用意してくれて、
テーブルさえ無い簡素な食卓を三人で囲んでいる。
時間が遅くなったのは、チャンドの容態が安定するのを待っていたからだろう。
掃除は行われたが、血の臭いが消えない中での食事。
死臭の中で生肉を食らう事など珍しくも無い流離人にとってはいつもの事だが、
ターラも平然としている事に驚いた。
癒し手という職業柄、このような状況の食事は慣れているのだろうか。
献立は野宿の時によく作っていたような
干し肉と野草を煮ただけのスープに、麦の粥。
粥は麦が原形を留めないほどに、どろどろに溶けるほど煮込まれていた。
「物足りないだろう? 老いぼれに合わせた食事で」
「いえ、いつもより豪華ですよ」
火すら使えずに塩辛い干し肉だけを食べる事を思えば、
麦の粥があるだけでも豪勢だ。
その返事を聞いたターラは、何かを懐かしむように軽く頷いた。
食べながらチャンドを見ていると、彼は粥を二口食べただけで匙を置いた。
粥が液体のようになるまで煮込まれていたのは、
チャンドがせめて何かを食べられるようにした工夫だったのだろう。
食べるかい? とターラに聞かれたので、残りも遠慮なく頂くことにした。
「見ての通りだが、私の命はもって七日くらいだろう」
食事が終わる頃、チャンドが静かに言う。
仕方のない事だと思う。
命の終わりなど、いかなる生命であってもどうにもならない事だ。
「だから、残りの命は槍に使おう。稽古はできないが、何かを教える事はできる」
「いいんですか?」
思わず聞き返してしまったシルスに対し、チャンドは穏やかな笑みを浮かべる。
「最期まで槍の極みを追い続けていたいんだ」
かつて黒竜に言われた。
命尽きるその瞬間まで槍を振り続けて生きていたいんだね、と。
それは漠然とした気持ちだったが、正にそれを体現する槍術士がここにいる。
ターラの様子をうかがうと、見るからに不機嫌そうな顔で食器を片付けており、
わざとこちらを見ないようにしていた。
本音では安静にしていてほしいが、
チャンドに言っても無駄な事が分かっているのだろう。
そしてシルスには、ターラよりもチャンドの気持ちの方が分かってしまった。
「よろしくお願いします、チャンドさん」
だからそう答えた。自分の気持ちを優先して。
嬉しそうに微笑むチャンドを、
ターラは呆れかえったような、それでいて寂しそうな表情で見つめていた。
***
翌日。チャンドを背負い、家の前にある廃村の広場へと移動する。
そこには二本の柱に固定された物干し竿に、
縄で吊るされた木の筒のようなものがあり、彼が作った稽古場のようだった。
地面に毛布を二枚敷き、そこにチャンドを寝かせる。
「まずは、君の槍を見せてほしい」
そう言ってチャンドは崩れた家の大黒柱だったであろう、
しっかりと備え付けられた太い木を指差す。
これを相手に見立て、シルスの槍の腕が
どの程度なのかを見たいという事なのだろう。
借りた練習用の木槍を構え、柱に小手調べの突きを入れる。
出し惜しみはしない。教えを乞うのに実力を隠しては意味が無いからだ。
今まで学んできた技、見出した動き、その全てを柱に叩きつける。
頭の位置を叩く突きをもって技を終え、チャンドの方を見る。
老人は困った顔をしてシルスを見ていた。
「いい槍だ、私が教えるような事は何も無い。
良い師たちに稽古をつけてもらってきたんだね。
私の槍は我流が強すぎるから、君が使っても今以上によくはならないだろう」
自分の槍と師を褒められたのは嬉しいが、
せっかくここまで来たので何かしらの教えは欲しい。
そういう微妙な感情が顔に出ていたのか、チャンドは軽く笑った。
「私をそこに立たせてくれないか? その木槍を貸してくれ、杖にするから」
木の筒の前を指差すチャンドを支え、立たせる。
力無く握られている槍は枯れ枝のような体ごとふらふらと揺れ、
今にも倒れてしまいそうだ。
倒れて頭でも打ったらそれが致命傷になりかねない老人を心配し、
声をかけようとした瞬間。
空気が凍るような、凄まじい寒気を感じてのけぞってしまった。
まともに歩けないはずのチャンドが、しっかりと槍を構えていた。
もしあの前に立っていたなら確実に死ぬとしか思えないほどの殺気と、
歴戦を経た古強者の風格。
その姿はどう見ても死ぬ寸前の老人ではない。
深く息を吸ってから大きく前へと踏み込み、
右腕一本で木の筒を目掛けて突きを放つ。
木と木がぶつかる音とは思えない衣擦れのような音と共に、槍は筒を貫通した。
「これが、私の奥義だ」
抜き身の刃物を首筋に突き付けられているような、静かで鋭い声。
突きの姿勢を保ったまま、顎をしゃくるチャンド。
よく見ろ、という事なのだろう。
はっきりと言えば、その姿勢は異様。
槍の先端が筒を貫通するぎりぎりから踏み込んでいる。
筒を見た時、それ以上に戦慄した。
槍頭の幅と、筒の内側の幅がほとんど同じであり、
しかも縄で吊るされた筒を貫通させている。
細い棒でゆっくりやっても難しい行為を、腕一本で振るった槍の一突きで。
「これを君に教えよう。
使えるかどうかは分からないが、手ぶらで帰るよりはいいだろう?」
「いいんですか? この技は、貴方の誇りのはず」
奥義の名を冠する技。老槍術士が旅路の果てに見出した集大成たるもの。
それを赤の他人に見せるどころか教えるというのに、
ためらう事さえなかったのが気になった。
チャンドが槍から手を離す。
途端に姿勢を崩し、地面に倒れるように座り込んでしまった。
槍を手にしている間だけ生きているように。
「誰かに覚えていて欲しかったのかもしれない」
先ほどまでとはまるで別人、
病床の老人に戻った声でチャンドは静かに語る。
ただひたすらに自分を、自分だけを鍛え槍の極みを目指す日々。
旅を共にした仲間は何人かいたが、みな道を違えた。
終着点が分からない旅についてきてくれる者はいない。
何度か弟子志望にも出会ったが全て断った。
人に教えるような技ではないと嘘をついて。
極みを求める旅路に不要だったから、煩わしいから捨ててきただけなのに。
しかし死が間近に迫った時、
この技は自分と共に消えてしまうと理解して悲しくなった。
歩んできた道に後悔はないが、
生涯をかけて見出した技だけは誰かに伝えたかった。
そんな機会はもう無いと思っていたが、シルスが来た事で最後の機会を得た。
「要するに、死にぞこないの我儘だね」
チャンドは話し終わり、座っている姿勢でも辛かったのか
地面に手をついて倒れこみそうになってしまう。
急いで抱き起こして毛布に寝かせる。
喋る事で疲れたのか、チャンドは大きく息を吐いた。
シルスは筒の前に立ち、木槍を構える。まずはやってみなければ始まらない。
筒を貫く事だけに集中し、思いっきり槍を引き、
全力の踏み込みから右腕一本で渾身の突きを放つ。
木が弾かれる軽い音と共に、筒は跳ねるように宙を踊った。
「集中力、腕の力、槍を突き出す早さと勢い、そして確固たる意志。
それら全てがあってこそ為せるから奥義だ」
一度で成功するとは思っていなかったが、
その考えが既に失敗を確定させていたという事を理解する。
筒が動かないようにしてから、再度放った突きは
やはり筒を跳ねさせるだけに終わった。
何度かやってみたが、全て失敗。
見た時は割と簡単に見えたが、実際にやるとなると難度が尋常ではない。
「その位にして、腕をちゃんと休めた方がいい。
この技をあまり使い過ぎると、腕を痛めてしまうからね」
チャンドの言う通りに、腕に相当の負担がかかっているのが分かる。
右腕を揉みながらチャンドの隣に座り、
先ほどの練習の成果はどうだったかと言葉を待つ。
「私が生きている間には無理そうだね」
軽く笑いながらの諦めに、自分の才の無さを痛感して気落ちするシルス。
そうじゃないと前置きをして、チャンドはシルスの腕に手を置いた。
「どんな技だったか知っていれば、いつか自分の物にできる。
この奥義、いつでもいいから君の技にしてくれ」
せめて、奥義の片鱗だけでも使いこなす姿を見せたかった。
そうすれば、彼はきっと満足して死ねるだろうから。
廃村に来てから三日目の夕方。根を詰め過ぎたか、腕に痛みを覚えた。
ターラに診てもらうといいとチャンドが言ったので、
彼女が拠点にしている廃屋に足を運んだ。
彼女はてきぱきとシルスの腕を診察する。
「使いすぎでほんの少し痛めたって所だね。
今日は無理をせずに、肉でも食ってれば明日には元通りだよ」
何だったら癒しの魔術でもかけてやろうかと言われたが、断った。
使われた事など無いが、酷い高熱と疲労が起こると聞いている。
可能な限り時間を無駄にしたくは無かった。
チャンドに対して癒しの魔術を使えない理由もそれなのだろう。
あんな状態での高熱と疲労。
癒しの魔術で止めを刺すなど、笑い話にもならない。
「あんたが来てから、チャンドの奴は随分体調が良くてね。
槍を見せてりゃ元気とか、
今まであたしがやってきた治療の甲斐が無いったらありゃしない」
ターラは自嘲気味に笑う。
不機嫌さは鳴りを潜め、遠い思い出に浸るような寂しさを感じた。
「お二人は夫婦なのですか?」
軽い疑問を口にしただけだったが、
ターラが一気に不機嫌な顔になったのを見て失言だと分かった。
「旦那は三年前に死んじまったよ。
奴はあたしより槍を取って、棒切れと添い遂げた男さ」
そこから、ターラは自分たちの事を話し始める。
元々この廃村は二人の故郷であり、彼らは過疎が進んだ村の幼馴染だった。
まだ十代の頃に二人で流離人の道を選んだ。
チャンドの、槍を極めるという滑稽無形な夢のため。
彼を放ってはおけなかったし、共に在る事が当然だと思っていた。
旅は苦しい事の方が多かったが、それでも思い返せば楽しかったと言える。
どんな困難も二人で乗り越えてきた。
だが、旅を続けるうちに二人の想いは剥離していく。
槍の極みを追い続け、彼女に目もくれないチャンドへの感情は悪化し続けた。
立ち寄ったある町で癒しの魔術を使い、重傷を治した青年からの求婚。
最後に、どうしたらいいかをチャンドに聞いてみたという。
どう答えるかは予想できていた。
自分がどうこう言う事じゃない、君が決めるしかないだろう。
ターラの予想通りだった返答。
恋に恋する乙女なら、自分の事を思って言ってくれたとでも考えたのだろうか。
物心ついた時からの幼馴染であるターラには、
どうでもいい事に適当な答えを返したのだと分かっていた。
次の日、チャンドは一人で槍の極みを求め旅立った。
ターラには故郷で家に帰る時に交わしたような挨拶の一言だけ残して。
その後ターラは青年と結婚し、
子や孫にも恵まれて穏やかで幸せな人生を送っていた。
夫が亡くなってからは子供たちの邪魔にならないよう
故郷の近くの町に一人移り住み、そこで人生を終えるつもりだった。
故郷は二十年ほど前に村人がいなくなり廃村となっていたが、
郷愁に浸れればそれでよかったからだ。
五十日ほど前、故郷に何者かが潜んでいるという情報が入る。
村周辺の地形に詳しいターラが自警団に同行すると、
そこで発見したのが村の跡地に独り住み着いていたチャンドだった。
最早死を待つばかりの老人となったチャンドを看取るため、
ここで彼の世話をしているのだという。
「適当な返事に感謝してるんだよ、
あの槍馬鹿と一緒だったらあたしもここで野垂れ死にしてた」
痛烈な皮肉を言った後、肩をすくめるターラ。
そしてシルスをじっと見つめる。
癒し手という優しそうな響きとは裏腹の、炎を宿したような目。
「一度聞いてみたいと思ってたんだ、
極みを求めるって連中は皆あんな風なのかい?」
護衛依頼はあれど、極みへの旅路はずっと一人旅だったので、
知らないというのが正しい答えだろうか。
手が無意識にペンダントを握る。
いつも朗らかで誰よりも真摯に極みを求める踊り子の言葉を思い出した。
「人それぞれです。
チャンドさんにとっての極みへの道が、そうだったというだけで」
ターラはしばらくシルスを見つめ、視線を下ろしふっと笑った。
「我ながらそんな事にも思い至らなかったなんてねえ、
年を取ると頭が固くなっていけない」
チャンドの印象が強すぎて、
他の者もそうなのだと思い込んでしまっていたと。
それだけの時間を共に経てきた者が死を迎えるから、
せめて最期を看取りたくなったのかもしれないとシルスは思った。
廃村に来てから五日。奥義の修行は四日目になる。
チャンドの容態は落ち着いているように見えるが、
火が消える瞬間の静けさなのだろう。
昨晩はとうとう一口の粥すら食べられなくなっていた。
もう彼に残された時間はわずか。
だが、焦りで槍を振るってはいけない。
筒を貫く事だけに集中しなければ、奥義は放てないだろう。
槍を突き出す。筒は弾かれて宙を跳ねる。
これで今日は三十七回目の失敗だ。
「雑念を捨てて、槍と筒だけに集中するんだ。他の全ては些末な事に過ぎないと」
チャンドの言葉を聞いて、ターラの話を思い出した。
幼い頃から寄り添ってくれた女性も、彼にとっては些末な事だったのだろうか。
自分にはできそうにないとシルスは思う。
結局のところ人それぞれだ、ならば集中の方法も違っていいはず。
集中するも雑念だらけの頭の中に、軽い笑いが漏れてしまう。
自分らしくこの道を行けばいい、自分の槍を貫けばそれでいい。
その槍は必ず筒を貫きシルスに極みを見せてくれると、
自分自身が信じられなくて誰が信じてくれるのか。
槍を大きく引き、全力の踏み込みからの腕一本による突き。
四日間やって来た事の繰り返し。
今回は心が澄み渡ったような、筒に入るような予感があった。
そんな予感とは真逆に、槍が何かを引っかけたような感覚。
まずいと思った時には遅く、縄で固定してあった物干し竿が外れ、
大きな音を立てて筒と共に地面に落ちた。
成功どころか器具を破壊してしまう大失態、
恥ずかしさと申し訳なさでしばらくチャンドの方を向けなかった。
恐る恐るチャンドを見てみると、目を大きく開いて呆然と落ちた筒を見ていた。
「す、すみません! 壊してしまいました!」
もはや誠心誠意謝るしかなかったが、チャンドははっとしたように首を振る。
「ああ、いや、いいんだ。それよりも腕は痛めていないかい?」
腕を軽く回してみるが、違和感や痛みは感じない。
シルスが頷くと、チャンドは安堵の息を吐いた。
そして、喜ぶ子供のような表情で話し出す。
「槍が筒の中で引っかかったからだ。
つまり、貫く事はできなかったが奥義に近づいたんだよ」
会得したわけではない、偶然の一撃。もう一度放てと言われても自信は無い。
それでも、我が事のように喜びを語り続けるチャンド。
師に褒められ喜ばれる事は、シルスにとっても嬉しい事のはずなのに。
老人の笑顔は、なぜかあの殺人者が見せたそれと重なって見えた。
その日の夜、相変わらずの献立での夕食。
シルスとターラは饒舌な方ではないし、
チャンドは言葉を発する事にも疲労してしまうので口数は自然と少なくなる。
しかし、その日は違った。
チャンドが上機嫌に、シルスが奥義に近づいた事を話し続けている。
粥だけでなくスープにまで口をつけ、ターラを驚かせた。
食事が終わり、誰も何かを語る事の無いしばらくの静寂。
「シルス、そこに置いてある槍を取ってくれないか」
言われた通りに槍を取り、チャンドに渡す。
その槍は古ぼけつつも手入れが行き届いた上質の物であり、
彼と共に歴戦を経てきたのだろう。
槍を手にした途端、奥義を放ってみせた時のようにチャンドの雰囲気が変わる。
そのまま目を閉じ、何かを言い出そうか悩んでいるように、口がわずかに動く。
一つ大きく頷き、チャンドは目を開く。
老人の決意を感じ取り、何も言えなくなる。
「シルス、私と立ち合ってほしい。どちらかが死ぬまで」
驚きは無かった。
彼が槍を取ってほしいと言った時から、きっとそうだろうと思っていた。
「馬鹿な事言ってんじゃないよッ!
死ぬのが怖くなったんで、シルスに介錯してもらおうとでも!?」
ターラが激怒して立ち上がる。そのまま殴りかかってもおかしくない剣幕だ。
そんな剣幕の相手を見据えるチャンドは冷静で、
氷刃のような冷酷さすら感じさせた。
「違う。槍術士としての真剣勝負がしたいんだ。最期まで槍の極みを追うために」
「若者にあんたみたいな死にぞこないの命を背負わせる気かッ!」
救えなかった命を背負ってきたであろう、癒し手が叫ぶ。
だが、武芸者は彼女ほど責任感が強く綺麗ではない。
殺めてきた命の中で、背負っていると言えるのはごくわずかだ。
果し合いを行うシルスとチャンドは冷静で、
そうでないターラだけが怒っているという異様な状況。
「それすら些細な事だっていうのに! チャンド、あんたが死ぬのは勝手だ。
もしもあんたが勝ったなら、明日にも死ぬ老人の自己満足で
若者を殺すって事なんだよ、分かってるのかッ!」
ターラがチャンドの胸ぐらを掴む。
命を救い続けてきた彼女には決して許せない行為。
それでも、チャンドは一切彼女の方を見ていない。
視線は一点、シルスだけを見ていた。
「シルスが槍を筒に入れる事に成功した時、それしかないと思った。
槍の極みに辿り着きたいんだ。この果し合いで辿り着けるかもしれないんだ」
「何が槍の極みだ、自分勝手さだけ極めたジジイがッ!」
ついにターラが拳を振り上げる。
その腕を掴んで止めた。
老婆とは思えない力に、彼女がどれだけ怒りに燃えているのかを感じた。
ターラもシルスの方を見る。二人ともシルスの返答を待っている。
ただ殺した先に極みは無いと知っている。
しかし、この果し合いはそれとは違う。
死んでしまっては極みには辿り着かない。
しかし、果し合いを拒否したら決して辿り着かないような気がしている。
老槍術士の集大成ともいえる、
全力の槍と戦える最後の機会を逃したくないという気持ちもある。
だが一番の理由は、彼が極みを求める旅路の果て、
すなわちシルスの未来の一つだからだろう。
その未来を超えていけなくては、きっと極みには至れない。
「受けましょう。時間は明日の昼でいいですか?」
「……すまない、本当にありがとう」
嬉しそうに礼を言うチャンドを放り出すように手を離し、
今度はシルスに掴みかかるターラ。
「あんたも何を言ってるんだ! こいつをただの死にぞこないと思うんじゃない!
南の方じゃ吟遊詩人が歌うほどの生きた伝説、
槍を振るう化物だ! 本当に死ぬよ!?」
「知っています。俺は東から来たので、伝説を聞いた事はありませんが」
奥義を放つ時に見せた姿。
あれこそが、自分が命を懸けて戦う相手だと知っている。
二人からの冷たい拒絶に、ターラはうつむきながら力なく座り込んでしまう。
「どうして、あんたたちはそうなんだ……いつもいつも……」
彼女の声は震えていた。きっとチャンドと別れた時もそうだったのだろう。
優しい言葉をかける事はできない。彼女の望みを叶える事もできない。
「私は……きっとシルスも、こういう風にしか生きられない」
「そうやって最後まで生きていきたいと願ったから、俺たちは戦うんでしょう」
顔を見合わせて頷く。どれだけ愚かでも、それが自分たちが選んだ生だ。
「明日は、全身全霊の槍をもって君を殺す。
そのつもりで、君もあらゆる準備をしてきてくれ。
今晩はターラの所に泊めてもらうといい。私も一人になりたいからね」
手の内を晒す気は無いし、シルスの手の内を覗き見る気も無いという事だろう。
力無くうなだれるターラを促し、廃屋を出る。
いつも炎のような人だと思っていた老婆は、年相応に小さく見えた。
ターラが拠点としている廃屋の一室で、シルスは荷物を床にぶちまけていた。
少しでも勝率を上げるため、
今持っている物で何ができるか、何を持っていくべきかを考えるためだ。
「何だいこりゃ、やんちゃな子供の遊んだ後みたいだね」
部屋に入ってきたターラの率直な感想。
彼女の子か孫がそうだったのかもしれない。
シルスが何か言おうかどうか迷っていると、ターラは手をひらひらと動かした。
「安心しな、あたしは果し合いに関与しない。
どっちが勝とうが、どっちも死のうが知った事か」
諦めのため息と共に、その場に座って空の瓶を手に取り、
怪訝そうに眺めるターラ。
「それは蜂蜜が入っていたんですよ。水を汲んで飲む時とかに使ってます」
黒竜の好物を自分でも食べてみたくなって、
旅立つ前にもう一つ買っておいた土産品。
竜からその返礼として貰った、
人の身では決して傷つける事のできない、絶対の防御に等しい鱗。
果し合いではこれが最後の切り札になると考えていた。
鱗の事を誰にも喋った事は無い。
切り札を軽々しく晒す流離人は長生きできないのが世の常だ。
だからこそ、チャンドもこの夜は一人になりたかったのだろう。
シルスが考え込んでいると、ターラが咳ばらいをする。
彼女の方を見ると真剣な、それでいて悪戯っ子のような顔をしていた。
「あいつはあんたの技を見てる。
このままじゃ不公平だからね、あたしが伝説を歌ってやろう」
そう言って、ターラは槍一本で伝説となった男の話を歌いだす。
一突きで四人の敵を刺し貫いた、
十人の野盗を三呼吸の間に全滅させたなど、
誇張なのかそうでないのか判断ができない眉唾物の伝説。
その中にチャンドの技、性質を表した文がどこかにある。
だからこそターラは伝説を聞かせているのだろう。
気になった文は"槍を短く持ち、迫る敵の腕を蹴り砕いた"というもの。
本来、長物の死角となる接近戦においても無類の強さだという事であり、
距離を詰める奇策は使えないと分かっただけでも収穫は大きい。
伝説を歌い終えると、ターラは半ば諦めつつも聞いてくる。
「かなり誇張されてるが、大体こんな化物だよ。
逃げたって恥じゃない、どんな道だろうと生きてこそだろう?」
数十年間、命というものに真摯に向き合ってきた癒し手だからこその言葉。
返答は自然と口から出ていた。
「ただ生きているだけでは道の上で止まっているのと変わりない。
道を進みたいんです。
立ち止まって横や後ろに倒れたくはない。
死ぬ瞬間だろうと、前に倒れて指一本でも先に進みたい」
シルスの決意を崩せないと察したか、ターラは空瓶を置いて立ち上がった。
寂しそうな笑顔を浮かべ、部屋を出ていこうとして
動きを止めシルスの方に向き直った。
「明日の朝は病人用の粥じゃなくて、食いでのある飯を作っておくよ。
楽しみにしてな」
最後の晩餐という言葉が出かかったが、言わずにおいた。
最後にするつもりなど無いからだ。
それに気付いたのか、ターラが苦笑する。
「あのジジイがほとんど食べなくてね。明後日には帰るってのに余ってるんだ」
どちらが勝っても明後日に帰る。
シルスが勝ったなら、もうこの廃村に留まる理由は無い。
チャンドが勝っても帰ると言うなら、
恐らく彼に残された命はあと一日だけしかないのだろう。
「根を詰め過ぎずに、ちゃんと寝るんだよ。
体調が万全でないのに勝てる相手じゃないからね」
「ありがとうございます」
部屋を出ていくターラを見送り、散乱する荷物を片付け始める。
極みへの道を進んでいたい。先ほど自分が言った言葉で、方針は決まった。
そもそも小細工が通じる相手ではないだろう。
大がかりな切り札を一つ、後は今まで学んだ事を出し切るだけだ。
***
太陽が高く昇り、影がもっとも短くなる時刻。廃村の広場。
シルスとチャンドは槍を手に対峙しており、
少し離れた所でターラがそれを見ている。
チャンドは病人用のゆったりとした服ではなく、
古ぼけた旅装束を身につけていた。
シルスは外套や短剣などの予備武器を全て外し、槍だけを持った軽装。
「昨夜は興奮して寝られなかったよ。
いや、もしも目覚めなかったらと怖かったからかな」
祭りの日を迎えた子供のように嬉しそうなチャンド。
シルスは言葉を発せなかった。何を言えばいいのか分からなかったからだ。
「それでは、やろうか」
友人を遊びに誘うような気軽さで、チャンドは槍を構えた。
しっかりとした構え。
奥義を見せてくれた時に感じた、あの殺気が直接向けられる。
それに正面から向かい合い、シルスも槍を構える。
今までと同じようにただ槍を振るうだけ。
お互いに相手を見据えながら、軽く頷く。それが果し合いの合図となった。
間合いは目測で槍三本分と少し遠い。
相手の手が読めない今は守りを重視しつつ、
主導権を握るため牽制を仕掛け様子を見るべきか。
足を踏み出そうとした時、視界に藍色の布が映った。
同時に、今まで稽古をつけてもらった師範たちの声が聞こえたような気がした。
"一歩でも踏み込んだら死ぬ、下がれ"と。
その声に従い一歩後ろに下がった瞬間、恐ろしい速さで刃が迫ってくる。
受け流そうとはしたが、ほとんど反応できていなかった。
後ろに下がったから刃が辛うじて届かなかっただけだ。
とっさに目の前の槍を払うが、
チャンドは右腕一本ですぐに槍を引き戻し構えを取り直す。
攻めに転じられる隙は無い。
初手で奥義。
一歩でも踏み込んでいたら喉を貫かれて死んでいた。
何を呆けていたんだと自分に喝を入れる。
老槍術士が望んだのは試合ではない、果し合いだ。
隙あらば即座に命を貰い受けると、喉元まで迫った槍頭が言っている。
何日か稽古をしてみて分かった事だが、
あの奥義は放つ前と放った後に大きな隙を作る。
相手の武器が届くような間合いで使えるものではないからこそ、
初手から奥義だったのだろう。
何も分からせぬまま、正確無比の一撃で殺して勝敗を決する。
槍以外の全てを些末な事と捨てて極みを求めた、彼の生き様そのもの。
牽制などと悠長な事はできない。
この間合いでいつでも奥義を放てるのなら、攻め込んで詰めるしかない。
自分を助けてくれた師範たちの声に感謝しつつ、
足に力を込め一気に前へと踏み込んだ。
間合いを狭めた後に待っていたのは、圧倒的なまでの力の差だった。
攻め手を見出せない、防戦一方。
間合いを取って仕切り直しをしたくても、決して下がれない。
隙自体はあるが、シルスの攻めを誘って意図的に見せているものでしかない。
浅く一撃を放ってみた所、即座の反撃により左の二の腕を皮一枚斬り裂かれた。
こちらも誘うための隙を見せてはいるが、一切乗ってこない。
完全に見切られている。
上段から押し付けるような一撃。躱せない、受けさせられた。
即座に下段、上段。
槍を振って受けるが、完全に振らされた形になり姿勢が崩れる。
隙を逃すはずも無く鋭い斬撃。とっさに槍を横にして柄で受けた。
竜を討つための槍は、致死の斬撃にもびくともせずに主の命を守ってくれた。
槍を振り回しつつ体も回し、
追撃を牽制しつつ奥義を使わせないぎりぎりの間合いを取る。
老人の強さに、転生者の青年が思い浮かぶ。
青年は人間の限界たる身体能力を力任せに振り回していたが、
チャンドの強さは鍛え抜かれた槍技。
性質は違えど格上と打ち合っても
辛うじて対応できるようにしてくれていたのが、五十戦の負けと三日間の稽古。
中段の突きを回し受けされる。
枯れ枝のような腕のどこにこんな力があるのか、槍が押さえつけられる。
そのまま押し込むように迫ってくる。
壁に押されるように、後ろに下がるしかできない。
軽く振られた槍に引きずられ、左の方へと自分の槍が浮かされる。
その隙へ一突き。
身を捻ったが、右の脇腹が裂かれる。浅く済んだとはいえ肉を削られる痛み。
チャンドは引くどころか更に前進してくる。
いつの間にか槍を極端に短く、小剣のように持っている。
シルスも咄嗟に槍を滑らせ、柄の中ほどに構えた。素早い斬撃を受け流す。
槍術士の戦いとは思えない、片手剣で戦っているような間合い。
時折織り交ぜられる石突の打撃もあり、
二人と同時に戦っているような錯覚さえ覚える。
剣士との試合も何度となくやってきた。
その中で思い出すのは騎士を目指していた友。
きっと彼の夢はまだ途中だろう。
シルスもそうだ、こんな所で終えるつもりはない。
一瞬の思い出にさえ浸らせてくれず、チャンドが更に間合いを詰める。
拳を軽く突き出せば顔に触れそうなほどの至近距離。
そのために槍を短く持ったのか、そう思った瞬間左足に衝撃と鈍い痛み。
槍に注意を集中しすぎた。ほとんど動作の無い蹴りが足に叩き込まれたのだ。
伝説の一節にうたわれる格闘術、半端な技量でどうこうできるものではない。
迫る刃と拳。
それに対して、チャンドの喉にありったけの殺意を込めて左手を伸ばした。
殺気を感じたのか、チャンドが飛び退く。
ついでにとでも言いたげに、槍頭が伸ばした左腕を浅く斬っていった。
使用人の少女に付け焼刃と酷評された暗殺術。
喉を掴んで何かをする方法など知らない。
はったりでしかなかったが、付け焼刃だろうが刃には違いなく、
この瞬間シルスを助けてくれた。
再度、槍の間合いで対峙する。お互いに隙をうかがう静寂。
チャンドの顔は、喜びに満ちた笑顔だった。
立つ事さえままならない老槍術士は余生の全てを捨てて、
この一戦のためだけに命を残してきたのではないか。
その生き様に憧れを抱くと共に、
それは俺の槍ではないとはっきり言う自分がいる。
全て捨てて進んできたのならとっくに命は無かった。
それが己の歩んできた、これから歩んでいく道が
正しいのだと言ってくれている気がして、笑みがこぼれた。
上段の構えからの突き。チャンドは中段の構えで受ける。
更に上段の突き、即座に下段の突き。
受け流されるだけでなく、下段突きを弾きながらの斬撃。
辛うじて受けるも上下に揺さぶるような突きの連撃。
あっという間に守勢に追い込まれる。
勝つための算段はいくつか立ててきたが、使えそうなのは二つだけ。
一つは守りに徹し、時間切れを待つというもの。
いくらチャンドが極みに近しい槍術士といえど、
人間である以上無限には動けない。疲労は必ず出てくる。
彼は日常生活にすら支障をきたしている老人であり、
疲労の蓄積はこちらがずっと少ないと考えた。
疲労からか動きが徐々に鈍ってきているように見えるが、
こちらの動きも鈍っている。
回避しきれずあちこちに受けた傷、そこからの出血。
精神的な疲労もシルスの方が桁違いに大きいだろう。
槍がチャンドをかすめてすらいない状況で、
消極的にこの策をとっているに過ぎない。
もう一つの策ははっきり言って賭けだ。
それも薄氷をそっと踏むどころか全力で走り抜けるようなもの。
まだ待つべきだと理性が叫ぶ。相手の疲労が上回るのを信じて待てと。
その理性を嘲笑うように、あの凄惨な笑みを浮かべた女が脳裏に現れる。
自分で果し合いを受けておきながら情けない、
無様に過ぎるとでも言いたいのだろうか。
確かにお前の言う通りだと、息つく間もない攻防の最中に思う。
昨晩自分で言った事だ。
生きているだけでは道の上で止まっているのと変わりない。
必要な部分に傷が無く、切り札もまだ見抜かれていない今を逃せば
賭ける事すらできなくなるから。
チャンドの攻撃が途切れた一瞬を狙い、攻勢に出る。
下段を狙っての突きを三度、続いて上段への突きに似た斬撃。
斬撃をしっかりと受けられ、槍が地面に押し付けられる。
腕に力を込め、槍を無理矢理に持ち上げた。
そのまま派手に槍を振り回す。山神に奉納する槍舞を改良した動き。
見た事の無い動きを警戒したのか、チャンドの足が止まる。
狙った機はその瞬間。
跳ぶように後ろに下がって間合いを取る。
槍三本分、果し合いが始まった時とほぼ同じ距離。
即座に槍を大きく引き、四日間練習し続けた通りの体勢を作る。
老槍術士の奥義。これを放つ事こそが、唯一シルスに残された方法だった。
青年が自らの奥義を放とうとした時、チャンドの心は歓喜に震えた。
何も考えず自然と、己も奥義の構えをとっていた。
ほとんど寝たきりだった体が悲鳴を、断末魔の叫びをあげている。限界は近い。
徐々に動きを鈍らせて死ぬなど耐えられない。
最後は槍技を駆使した決着であってほしかった。
集大成たる奥義の打ち合いをもって、槍術士としての人生を終える。
チャンドにとって最高の終わり。
それを用意してくれた青年に、心から感謝する。
愚かな老人の自己満足で命を落とすには、あまりに勿体ない青年だと思った。
だからといって手は抜けない、抜くつもりなど一切無い。
死力を尽くしたくて、青年に命を捨てさせるような行為を迫った。
ならば全ての技と残された命を使い尽くし、彼を殺す事こそが最大限の礼だ。
青年の大きく引かれた槍を見つめる。
意識は上の方に向けられているように見える。
最初の奥義で喉を狙われた事を気にしているのだろうか。
この奥義は放つ時に無防備になる。
二人が同時に放つ事など初めてだが、ほぼ防御はできないと見ていい。
だからこその初撃、槍頭が喉を貫くぎりぎりの位置から放ったが、
何かを察知したのか後ろに下がられ届かなかった。
最初と同じく喉に狙いを定める。
この技は己の誇り、こちらに迫る相手だろうと必中の自信はある。
だが、青年は疲労と出血のせいか息が荒く、体が小刻みに揺れ動いている。
首元で橙色のペンダントが陽気な少女のように踊り、
喉への狙いに集中させてくれない。
ならば狙うは一点。今まで固く守られていた胸部、心の臓。
致命傷となる部位への攻撃はうまく防がれていたが、今ならば確実に通る。
肺腑やはらわたを抉って苦しめながら殺すのは忍びない。
一撃をもって苦しみなく仕留める。
この奥義が最後の一撃。全身に残された命の全てを込めた。
賭けの第一段階には勝った。
シルスが奥義を放つのを見て、チャンドが同時に奥義を放ってくる
この時を望んでいた。
使ってみたから分かる事だが、
奥義を放つ時は無防備であり、他の小技や防御などを使う余裕はない。
奥義を放つ一瞬ならば、どれだけ技量が劣っていようとも
致命打となる攻撃を当てる事ができる。それに賭けた。
しかしこの賭けはまだ第二、第三と続く上に、
ここから先は奥義を放たなければ分からない。
第二の賭けは、チャンドが喉ではなく心臓を狙ってくれる事。
最大の切り札である竜の鱗を、
小型の盾を胸に貼り付けるようにして服の下に仕込んでおいた。
鱗がある胸部への攻撃だけは傷を負ってでも防いだ。この瞬間のために。
あえて頭の方に意識を置き、わざと胸の守りを解く。
人の身では決して貫けぬ心臓を狙ってもらうため。
だが、チャンドの正確無比な一撃なら、喉を狙ってくる事も十分にあり得る。
所詮は賭けでしかない。
しかし奥義の体勢に入ってしまった以上、もうやるしかない。
果し合いが始まった時の間合いより、少しだけ近い。
もし今後ろに下がっても、チャンドの奥義はシルスを貫くだろう。
そして第三、最後の賭け。
シルスのたった四日間稽古をしただけの奥義が、チャンドを捉えられるのか。
ただ吊り下げられただけの筒を狙うのではない。
殺意をもって向かってくる相手に当てる。
しかも失敗の許されない一発勝負、失敗すれば死あるのみ。
緊張で体が震える。
チャンドの言葉を思い出す。奥義には確固たる意志が必要と。
この状況で失敗を恐れても意味はない。
ただ奥義をもって師を貫く事だけを考えればいい。
全身に力を込める。傷の痛みでも集中は乱さない。
「オオオオォォォォッ!!」
二人、同時に吠える。
わずかにシルスの方が早かったが、ほぼ同時に地を蹴って突っ込む。
最後の一撃、その時に今まで出会った人たちの姿が浮かんでくる。
これが本物の走馬燈かと、
時が止まったような光景を冷静に見つめる自分がいる。
それにしては彼らはみんな怒り顔で、口々に何かをシルスに言っていた。
目の前に現れた踊り子の少女も、いつもの朗らかな笑顔ではなく
初めて見る怒った顔でシルスを見つめていた。
死の間際に見る思い出なのだから、
そんなに怒らなくてもいいじゃないかと苦笑する。
馬鹿な事をしているのは痛いほど分かっている。
それでも、自分が信じた槍を極める道を進んだだけ。結果が死であっても。
少女は相変わらずの距離感で鼻先が当たりそうな位に顔を近づけ、
何かを言うように口を動かす。
声は無かったが、口の動きで何を言っているのかは分かった。
"まだ早い"。
大声で笑いだしそうになった。
出番には早いのに、勝手に出演させるなと怒っていたのか。
みんなの出番は、死が確定した時でいい。
今はただ、対峙する相手を倒す事だけを考えればいい。
そう考えた瞬間に走馬燈らしきものは消え、現実に引き戻される。
ほぼ同時に右足を踏み込む。チャンドの動作の方がわずかに早い。
構うものか。
右腕一本で放たれた突きが交差する。
胸に感じる衝撃、左胸を肋骨に沿うように抉りながら引き裂かれる激痛。
「ぐ……ッ!」
たまらず膝をつく。
それでも槍から手を離しはしなかった。奥義を放った者の証として。
シルスの槍は、チャンドの胸の中心を貫いていた。
穏やかな顔をしたチャンドは、シルスを優しく見つめる。
「……ありがとう」
呟くようなか細い声だったが、最期の言葉ははっきりと聞こえた。
槍を引き抜くと、チャンドの体はゆっくりと、
奥義を放った体勢のままうつ伏せに倒れた。
前に倒れて指一本でも先に進みたいと言ったシルスのように、
槍を前に突き出し手に持ったまま。
すぐにターラが駆け寄ってきて、聞きなれない言葉を口にする。
すると赤い光のようなものがシルスを包み、体が熱くなってくるのを感じる。
「癒しの魔術をかけたよ。すぐに手当てもするから待ってな」
てきぱきとシルスの服を脱がせ、傷に包帯を巻いていくターラ。
乾いた音を立て、服の下に仕込んでおいた竜の鱗が地面に落ちる。
「なるほどねえ、これがあいつの槍を受け流したのか」
卑怯と罵られる事も覚悟していたが、
ターラはシルスの髪をわしゃわしゃと撫でて言う。
「よく生き残ったね。
傷物になってまであんたを守りきった盾に感謝するんだよ」
彼女の言葉に驚き、動くなと怒られるのにも構わず鱗を手に取る。
鋭利な物で削ったような傷がついていた。
人の身で傷一つつかないはずの鱗に。
あまりの事に大笑いしてしまう。涙さえこぼれるほどだった。
おかしくなったのかとターラに頬を張られたが、笑わずにいられない。
チャンドの槍は、人の身の限界さえ超えてみせた。
間違いなく槍の極みの一つに到達したのだ。
それが老竜の鱗である事を伝えると、ターラは目を丸くした。
ひとしきり笑った後、それを成し遂げた老槍術士を見る。
心臓を貫かれているというのに、苦痛など一切感じさせない満足そうな死に顔。
槍を極める旅路の終点で満足できたという事は、
彼は槍を極められたのだろうか。
しかし、彼は老竜の鱗に傷をつけた事を知らずに死んだはず。
そこまで考えた所で、座っていられないほどの倦怠感が襲い掛かってくる。
癒しの魔術にはそういう副作用があると聞いていたが、想像以上の代物だった。
「よし、こんな所だろう。あたしの肩につかまりな、家まで歩くよ」
「チャンドさんは……」
朦朧としだす意識の中で絞り出した声を気にせず、
ターラはシルスを立たせた。
「死体より生きてる者の方が大事だ」
その答えには癒し手の責任と誇りが感じられ、
それ以上何かを言う事はできなかった。
廃屋の一室で、多少薄れた熱と倦怠感に顔をしかめ、水袋を掴んで水を飲む。
傷の痛みはもうほとんど無い。癒しの魔術の凄さを実感する。
ターラの拠点に寝かされ、彼女は水袋をシルスの手の届く所に置いて、
再度外に出ていった。
チャンドを弔うつもりなのだろう。
空はすっかり夕闇に染まり、あの果し合いが夢だったようにすら感じた。
しかし全て現実の事だ。
一筋の傷が走る鱗と、乾いた血のついた槍がそれを証明している。
体が動かせないので、どうしても思考にふけってしまう。
チャンドはなぜ満足して死ねたのか。彼は槍を極めたのか。
三つの賭け全てに勝ち、辛うじて手にした勝利。それでも勝利には違いない。
最期の瞬間、チャンドは自身の敗北を認識していたはずだ。
それでも悔しさなど一切感じさせず、静かに礼だけ残して死んだ。
なぜなのかをずっと考えていた。
そして、果し合いの事を思い出している時にふっと出てきた言葉。
"人それぞれ"。つまりそういう事なのではないか。
何をもって極めたとするかは人によって違う。
そしてそれは人生が終わる時、結論のように理解するものではないだろうか。
己が見出した道を強い意志で進み続け、それが終わる時にこそ見つかるもの。
命の果てにこそあるもの。それこそが"極み"なのではないかと。
だとすれば、チャンドは槍を極めたのだ。
誰が何と言おうと、老槍術士は己の槍を最期まで全うし極めた。
転生者が語ったように彼もまた、どこか違う世界で生まれ変わるのだろうか。
そうはならないような気がした。
彼はきっと"もう一度"など要らないくらいに、
己の命と道を精一杯に全うしたのだから。
そうやって生きた結果、
最期にこれだと納得して掴んだものこそがきっと"極み"。
ついに目的地となる槍の極みが、はっきりと見えた。
そのまま、ゆっくりと睡魔に身を委ねる。
明日の朝にはまた旅立てるように。槍を極めるために。
***
雲一つない晴天の朝。シルスとターラは、あまりに簡素な墓の前にいた。
槍が一本突き刺さっているだけの、名前すら見当たらない墓。
チャンドがここに眠っている事は、一目見ただけで分かった。
墓に祈りを捧げる。技だけでなく、極みとは何かをも教えてもらった人に。
「貴方との果し合い、決して忘れません。ありがとうございました、師匠」
ターラに目を向けるが、彼女は何かを言うわけでもなくシルスを待っている。
「あんな顔して愛しい槍と添い遂げた奴に、何を言えっていうんだい」
そう言ってそっぽを向いてしまう。
祈りを終えて立ち上がるシルスに、顔を向けないままでターラは話しかける。
「この馬鹿、結局は槍の極みとやらに届かなかったみたいだね」
罵倒しているような言葉だが、声には寂しさと悲しみが滲んでいた。
死者本人の言葉ではなく勝手な想像だが、それは違うとはっきり伝える。
「チャンドさんは槍を極めました。
命の果てにだけあった"極み"を見つけた。だから満足して死ねた」
驚いたようにシルスの方に向き直るターラ。
シルスが冗談や慰めで言ったわけではないと理解すると、
涙を浮かべながら笑った。
「一番弟子のあんたが言うんだから、きっとそうなんだろうね」
その後はしばらく二人で、簡素な墓を見つめていた。
「ありがとうございました、ターラさん」
握手をしようと手を差し出すと、ターラは呆れ顔でため息をつく。
「こんな森の奥から町まで、か弱い婆を一人で行かせるつもりかい?」
わざとらしく咳き込むターラだが、
獣と殴り合いしかねない女傑に言われても説得力が皆無だ。
思った事が顔に出ていたのか、恐ろしい形相で睨まれた。
「町まで送ってくれてもいいだろう、礼もしたいからね」
「恩義ならありますが、礼を言われるような事は何も……」
シルスの返事を手で遮り、そのままチャンドの眠る墓を指差すターラ。
「あいつが槍を極めて死ねたのは、あんたが来てくれたお陰さ。
あたしじゃ無理だった。
だから、これ以上は何も言わず受け取っておくれ」
過度な謙遜や断りは失礼でしかないよ、とターラは笑う。
その言葉に甘え、礼を受け取る事にした。町までの護衛も兼ねて。
「よし! それじゃさっさと行こうか。日が暮れる前に森を抜けたいからね」
治療用の荷物を背負い、老婆とは思えない軽快な動きで先に歩いていくターラ。
もう一度だけ墓へと振り返る。無言で礼をした。
進む道も、至るべき目的地も見出した。
後はただ、己の意志のままに歩いていくだけだ。
この命が果てる時、そこにある槍の"極み"を見つけるために。
*****
槍を極めたとされる伝説の槍術士の歌は、彼が死した後も歌われ続けたという。
弟子も持たず、伴侶も子もなく、
ただ一人だけで世界中を旅して極みに至ったとされる男。
しかし、ある町で歌われていたという伝説は少しだけ違っている。
槍術士には唯一の弟子がいて、
極みに至った死の間際に奥義を伝えたという一節が加わっている。
誰が付け加えて歌ったのかは定かでないが、
大衆は物語性の強いその一節を好んだ。
一説によるとそれは、老いた癒し手が孫に聞かせていた歌が原形なのだとも。
ある槍術士の旅路の記録はここで途切れる。
彼がその後どうなったかは一切の記述が無く、
槍の極みを求める旅の結末も不明のままだ。
彼は流離人の一人に過ぎず、路傍の石に等しい者をわざわざ記録する者は稀だ。
だが、彼は誰に知られなくても、気にせず己の道を進んでいったのだろう。
命を精一杯に全うした果てにある、彼だけの極みを求めて。
完
########
後書き
最後まで読んでいただきまして、ありがとうございました。
ただ目を通していただけただけでも嬉しい事ですが、
この物語が、心のほんの片隅にでも残るものであれば
作者として幸いです。