獣人の初恋(ライル視点)
俺には六歳年上の義理の姉がいた。柴犬の獣人一家の中で唯一人間であるリーシャがそうだ。彼女は俺の面倒をみてくれていた。それが俺には嬉しくて、彼女の後ばかりついて歩いていた。
彼女は人間だ。獣人である俺たちとは違う特別な彼女が俺は大好きだった。この時から幼心にも彼女と血が繋がっていないことを理解していた。そんな彼女にいい格好を見せたくて、俺は精一杯背伸びをした。
「見て! ボタン一人で出来たよ!」
「偉いね。お姉ちゃん嬉しいな」
「本当? 好きになった?」
「もちろん、ライル大好きだよ」
「ぼくもリーシャちゃん大好き!」
彼女の額に落とすキスが優しくて、身体中ソワソワした。彼女が俺の全てだった。
ある日、怖い夢を見た。リーシャがいなくなってしまう夢だった。あまりに悲しくて、夢で泣いてしまった。起きた時もただ呆然として、ポロポロと涙ばかり流した。「大好きなリーシャちゃん」はそれほど大きな存在だったのだ。
俺は落ち着いた時にようやく気づく。お尻の辺りがひんやりとしていた。触ると濡れている。手を見て、また泣きたくなった。「大好きなリーシャちゃん」に嫌われてしまうと思ったからだ。けれど、俺が一番頼りにしてたのも彼女だった。
リーシャの部屋のドアをそっと開けて入ると、彼女のいい匂いがした。寝ている彼女を起こす。お漏らししてしまったから、怒られるかもしれない。俺のことを嫌いになってしまうかもしれない。不安に泣きながら、彼女が起きるのを待った。
「リーシャちゃん……、嫌いにならないで。……ごめんなさい」
ぐすっぐすっと鼻をすすって謝る。嫌われるのが怖くて、涙で袖がびっしょり濡れていた。お漏らしが分からないように、寝間着の裾を握って隠した。彼女はその違和感に気づき、俺を中心にぐるっと一周する。さすがに気づかれてしまっただろう。思わずしっぽが反省したかのようにのびて下を向いて垂れる。耳も不安に伏せられた。
「ああ……」
彼女の気づいただろう声に、思わずビクッと震えた。ごめんなさいごめんなさいと呟き続け、身体を小さくして頭を隠してしまう。
「ライル、服着替えよう。シーツも洗わなきゃね」
「リーシャちゃん、怒らない?」
「ううん。ぎゅってしてあげる」
彼女に抱きしめられて、ようやく落ち着いた。彼女の腕は魔法みたいだ。
「一人は寂しかった?」
リーシャの優しい声にコクリと頷く。彼女は呆れもせず、背中を撫でてくれた。彼女は手際よく服と下着を変えた。怒られないかリーシャの顔色ばかり見ていると、彼女のベッドに連れて行かれる。またお漏らしをして幻滅されたくない。彼女の手を引っ張って踏ん張る。
「リーシャちゃん、だめ。また、おねしょしちゃったらだめ」
「お姉ちゃんと一緒なら大丈夫。おまじないかけてあげるね」
この時、リーシャが俺の額に優しいキスをしたことを覚えている。そのキスは温かくて、彼女の目を見るのが照れ臭くなった。感情を隠すことができないしっぽはせわしなく動いていたので、バレてしまっただろう。リーシャが俺を招く。
「おいで。お姉ちゃんとなら、寂しくないよ」
「うん!」
彼女の腕の中に飛び込む。彼女はお日様の香りがして好きだ。もっと彼女の匂いを嗅ぎたくて、すりすりと胸にすり寄る。彼女はそんな俺の背中をトントンとたたいてくれた。俺は彼女の微笑みに安心して、彼女の服を握りしめたまま寝てしまったようだ。
その日、彼女に包まれるとよく眠れた。だから、次の日も枕を持ってリーシャの部屋に行った。
「リーシャちゃん、一緒に寝ちゃダメ?」
「でもそうしたら、ライルが将来困るよ? 今から一人で寝る練習しなきゃ」
「ヤダ! リーシャちゃんと一緒がいい!」
駄々をこねるように彼女に抱きつくと、リーシャは頭を撫でた。これならいつものように優しくしてくれるだろう。
「しょうがないなぁ」
「一緒に寝てくれるの!?」
やった! 今日も彼女に抱きしめられて眠ることを考えると、ワクワクした。そんな俺を知らない彼女は部屋のベッドから、うさぎのぬいぐるみを持ってきた。
「このうさぎのぬいぐるみ、私の大切なものなんだ。私がライルみたいに一人で寝るようになった時にもらったの。だからこれあげるね。ライルもこれで寂しくないよ」
リーシャと一緒じゃないのかとがっかりした。うさぎのぬいぐるみを受け取る。ふわりとリーシャの香りがした。思わずうさぎのぬいぐるみを抱きしめて、スンスンと鼻を動かした。
「リーシャちゃんの匂いがする。いい匂い……」
俺はうさぎのぬいぐるみを大事に抱えて、一緒にベッドに入る。今日はリーシャが一緒ではないけれど、匂いが傍にあるから大丈夫だ。おまじないは今も続いている。ぬいぐるみの匂いを吸い込んでいると、胸がぎゅっとなった。思わずぬいぐるみの片耳を噛む。何か満たされるものがあった。
あれから、リーシャに甘噛みしたくなる衝動を抑えられなくなった。噛むとどこか安心するのだ。彼女のことが好きだからだろうか。手、耳、首と様々な場所を甘噛みしたくてたまらない。歯型が彼女の肌に残ると、それを見るだけで満足した。
リーシャは、俺が歯の生え変わる時期で痒いから噛むのかもしれないと考えてくれた。そしてリーシャはプレゼントをくれた。噛むと味のする固めのオヤツだ。プレゼントは嬉しいが、噛んでみると何かが違った。リーシャを甘噛みしている時のような満足感がない。しかも、これは犬用のオヤツだ。骨の形をしている。俺のなんとも言えない顔を見て、リーシャは肩を落とした。俺は気づいてしまった。甘噛みしたいのはリーシャだけだ。
そんな俺が甘噛みの意味に気づいたのは、俺が甘噛みする姿を見ていた父のおかげだ。父はそれはもうニヤニヤとして、「お前も一丁前に求婚するようになったんだな」とわしゃわしゃと頭を撫でた。俺からすれば寝耳に水だ。俺が、リーシャに求婚していた? 父は何を言っているのだろうか。
「獣人の甘噛みは獣人にとっては好意を意味する。噛むことで好きだと伝えるんだ。年頃になれば、相手を自分のものにしたいという意味でも甘噛みする。耳飾りは結婚した男女がつけるのが風習だってことをライルは知っているだろう? つがいの瞳の色を耳に飾り、ずっと一緒だ、自分は相手のものだと示すものだ。だから獣人は、自分との耳飾りを飾ってほしいと求婚する際に耳を甘噛みするんだ」
すると俺は無自覚でリーシャに好きだ好きだと伝えて、求婚してたのか!? リーシャはそれに困って、犬用のオヤツをくれたのか? 遠回しに拒否されてたのか?
「何考えてるか筒抜けだな。とりあえず、リーシャは何も分かってないと思うぞ? だから惚れた女は落とせ、ライル」
そうだよな。まだこれからだ。リーシャには俺のつがいになってもらうんだ。
俺はいつの間にかリーシャの背を追い越していた。今では俺が年上に間違われることがある。リーシャをすっぽり抱きしめられるくらいに育って満足だ。
俺は今日も甘噛みをする。手をやんわり甘く噛んで、耳たぶは口に含んで優しく噛む。耳たぶだけ、いつも念入りに甘噛みする。この耳に俺と同じ瞳の色をした耳飾りをつけてほしい。つがいになってくれ。好きだ。そんな願いをこめて、抱きしめながら甘噛みをする。すると、母が微笑ましそうに声をかけてきた。
「あらあら。ライル、貴方も立派に育ったのね。母さん、あなたのこと応援してるわ」
「ありがと」
「お母さん、何の話してるの!?」
母はニヤリと笑って、自身の耳飾りをなぞった。まったく似たもの夫婦だ。耳には父と同じ眼の色をした宝石が輝いている。リーシャは頭を傾げた。やっぱり知らないのか。そうだろうなとは思っていた。今回、それが確信となった。母は仕方のない子ね、とクスリと笑った。
「リーシャは獣人のことをもっと知っておくべきよ。これからもライルといたいなら」
それからも俺はリーシャに甘噛みをした。獣人としての本能が気持ちを伝えずにはいられない。姉として見ていたはずが、いつの間にか女として見ていた。きっと、きっかけはうさぎのぬいぐるみだ。あれを噛んだ時から、リーシャを俺のつがいとして見ていたのだろう。
しかし、甘噛みをしてもリーシャは意味を知らない。今まではこっそり気持ちを伝えて満たされていたが、足りなくなってきた。伝えたい。俺は弟じゃない。男としてリーシャを愛したい。女らしい曲線をもつようになったリーシャに、周りの男は浮き足立っている。幸い、俺が甘噛みして匂いが染みついているから手は出されていない。俺は余裕がなくなっていった。
「リーシャ、俺を毎日ブラッシングしてくれないか」
名前は意識させるために随分前に変えた。リーシャは残念がっていたが、これも彼女を手にするためだ。毎日ブラッシングと言えば、一緒に住むこと。つまり一緒になってくれということだ。伝わっただろうか? 恐る恐る彼女を見ると、彼女はブラッシング用のブラシを手にとっていた。
「いつもやってるじゃない。ほら、横になって」
違う、違うんだ、リーシャ。あまりに伝わらなくて、思わずしっぽがたれ下がった。彼女の鈍さに呆れ、深く息をつく。自分の前に座れとソファーを指した。彼女は向かいにあるソファーに座る。
「リーシャ、今から大事な話をする。よく聞いてくれ」
「うん、悩みなら聞くからお姉ちゃんに話してごらん」
お姉ちゃんか。俺はまだ弟でしかないのか。深いため息がこぼれる。それを今日、変えてみせる。
「リーシャ……あのな、獣人の甘噛みは意味があるんだ。獣人にとっては好意を意味する。噛むことで好きだと伝えるんだ。年頃になれば、相手を自分のものにしたいという意味もある」
「そんなことしなくても、私はずっとライルのお姉ちゃんだよ?」
思わず眉間にしわを寄せる。彼女は黙って話を聞こうと決めたのか、自分の口を手でふさいだ。
「……話を続ける。耳飾りは結婚した男女がつけるのが風習だろう。相手の瞳の色を耳に飾り、ずっと一緒だと示すものだ。だから獣人は自分との耳飾りを飾ってほしいと求婚する際に噛むんだ」
きょとんとしている彼女にたたみかけるように説明する。
「よく聞け。俺はリーシャに求婚しているんだ。それをお前は勘違いして、噛む用のおもちゃをくれたが……」
彼女はしまったという顔をした。やっぱり知らなかったか。ここまでは話についてきている。攻めるのは今だ。
「リーシャ、俺は今からお前に求婚するからな」
「や、あの、そのっ……」
リーシャは思わず後退るが、ソファーに背があたり逃げ場がない。俺は彼女を囲うように追いつめた。
「これまで俺が求婚しても平気な顔してたんだ。問題ないよな?」
「あるっ! 私とライルは姉弟!」
「義理の、だろう? ここまで惚れさせておきながら、求婚させてくれないのか。酷い女だ」
獲物との距離はわずか。だが、精神的な距離はまだ遠い。リーシャとの距離感が居心地よくて、甘んじていた俺のせいだ。自嘲するように目をふせた。
「リーシャは姉じゃない。俺にとっては守りたい女だ。幼い頃、抱きしめられながら一緒に寝たことがあっただろう? あの時、大きくなったら今度は俺が抱きしめたいと思った」
彼女の記憶に一言一句、刻んでほしい。耳元で語りかけた。吐息がくすぐったいのか、彼女は落ち着かなそうにしている。
「好きだ。一緒になってほしい」
耳たぶを甘噛みする。さすがに今回は分かっただろう。
「リーシャの耳に、俺と同じ深緑の宝石を飾ってほしい」
牙で再び、耳たぶに触れる。彼女の耳に深緑を飾る未来がほしい。その願いが通じたのだろうか。リーシャが俺の肩に手を添えて、俺の耳を甘噛みしてきた。その感触に、思わず興奮して毛が毛羽立つ。彼女はそっと耳から口をはなして、俺を覗き込んだ。
「返事のつもりなんだけど、これであってる?」
「あってる……」
これは俺にとって、都合のいい夢なんじゃないか。だが、耳への感触は本物だった。彼女を抱きしめて分かる。夢じゃない。背に回された手がそれを物語っていた。あぁ、リーシャ。好きだ好きだ好きだ。きっと、しっぽを嬉しくてはちきれそうなぐらい振っているだろう。感極まって彼女の滑らかな首筋に甘噛みする。
「もう、ちゃんと伝わったから」
「好きだよ、リーシャ」
数日後、二人の耳に揃いの耳飾りが飾られる。