ヤマアラシのジレンマ(4)
「これ以上、都に留まるは危険ぞ、ヒサメ。皇宮の人間どもに何かされる前に、儂と共に逃げよう。」
「…私は十二年間、皇宮で過ごしておった。私が人殺しの夜叉だと知っておりながら、親切にしてくれる者もおった。皇宮はもはや私の居場所だ。私にはあの場所が危険だなどとどうしても思えぬ。」
私が反論すると、カバネ殿は少し語気を荒げる。
「あの者らは一族の仇ぞ!ヒサメの心が憎しみに満ちておったことに付け込み、操り、騙して繋ぎ止めておるだけじゃ。その者らのために刀を振るうことを、ヒサメは一族に何と申し開きができるのじゃ?」
「私は操られてなどおらぬ!スメラギ殿は憎しみに呑まれた私を正気に戻してくれただけだ。その恩に報いようと、私は…。」
カバネ殿の表情から怒りが伝わってくる。
「操られてはおらぬと言うたな。あの忌まわしい惨殺について、原因や生存者さえ調べようとせずに十二年も放っておいたのは、癒しの神子がヒサメの怒りや憎しみを消し去ってしまったせいではないのか?真実を知った今も、何の罪もないのに地獄絵図の中で無念に殺された家族のことよりも、元凶やもしれぬ者たちを庇おうとするのは何故じゃ?それは本当に、正気に戻してもらったと言えるのか?目を覚ますのじゃ、ヒサメ!」
違うと言いたかった。スメラギ殿は私を救ってくれたのだと。しかし、言葉が喉の奥で閊えていた。確かに、私は邪気を祓ってもらったのだが、死んでしまった者たちの無念は、同じく生き延びたカバネ殿の憎しみはどうなるのだろう?私だけが楽になってしまってよいものなのだろうか?
「カバネ殿の言うことはよう分かった。されど、十二年間もの間、皇宮に何も怪しい動きはなかった。危険だとは到底思えぬのだ。」
「危険はないとな。それならば、皇宮に『正名』を預けるような真似はしておらぬと思うて良いのじゃな?」
「…。」
そう言えば預けていた。正字で書いた名前にはその人を支配する力がある。だからこそ名前は普通半字で書くのだ。自分の血を使って正字で書いた名前を預けるという行為は、生涯の伴侶や主君に捧げる最高の信頼の証なのだと皇宮で仕えている人に聞いた。私もそうするように勧められ、正名を作成して先代の神皇陛下にお捧げした。
「一月後に迎えに行く。それまでに正名を取り戻しておくのじゃ。よいな?」
「皇宮を出て、どうやって生きてゆけばよいのだ?もう帰る場所もないのに。」
「儂と共に妖怪の集落で暮らそうぞ。夜叉は血を見ねば狂う。到底人間と共存できぬ。」
本当に?もう何を信じてよいのかも、私は分からなくなっていた。
「それにしても、皇宮で十二年暮らしていた私より、遥かに皇宮の内情に詳しい。どこから聞いた話なのだ?」
カバネ殿の目が泳いだ。
「それは明かせぬ。ヒサメが儂のもとに来てくれたら話そう。それまで、この話はくれぐれも内密にな。」
「信じてよいのだな、カバネ殿?」
「儂の正名でも贈ろうか?許婚どの。」
カバネ殿は茶化すように言った。私は顔を赤らめた。
「茶化さないでくれ。十二年も前の話ではないか。」
「今は別の者に嫁いだか?ヒサメのような良い女を世の男が放っておくはずがないものな。」
悪戯っぽく笑うカバネ殿を私は軽く小突いた。
「こんな血に飢えた化物を嫁に欲しがる好事家などおらぬよ。」
「その発言は、儂にもまだ機会があると思うてよいのじゃな?」
私は再びカバネ殿を小突こうとして、存外真剣な眼差しに面食らった。
「むぅ。その訊き方は卑怯だぞ。」
「ハハハ。すまぬ。ヒサメが可愛くてつい揶揄ってしまった。では、また連絡する。」
「どうやって?」
「儂らだけに分かるやり方で。」
妖怪退治をしていた時に使った暗号を使うのだろうな。カバネ殿は私の頭をぽんぽんと叩いた。
「さらばじゃ、ヒサメ。」
「左様なら、カバネ殿。」
私はカバネ殿と別れ、皇宮に戻った。部屋に戻ると、机の上に黒い簪が置かれていた。近くに置かれている手紙を手に取る。
市に行ってみて、ヒサメに似合いそうな簪があったから買ってみた。もし良かったらもらってくれ。いらなかったら処分して。スメラギ。
「コウ殿からか。」
私は簪を見てみた。紅梅の飾りが付いた、黒くて細長い簪だ。こんな装飾品の類など、贈られたのは初めてかもしれぬ。
「ここを去りたくはないのだが…。」
私は鏡の前で簪を挿してみた。白粉も塗らず紅も差さない顔に、武骨な手が一層目立つ気がして恥ずかしくなった。しかし、悪くない。
【コウとスメラギの日記】
神皇国にある日記より一部抜粋
6月4日 スメラギ
コウがこんな馬鹿な真似をするとは思わなかったよ。ヒサメさんの破壊衝動なんて、今まで全く気にしていなかったじゃないか。私の身体を傷付けたくないなんて言い訳だよ。厳しいことを言うようだけど、甘えるな。今のコウに足りないのは、力じゃなくて覚悟じゃないかな。
6月11日 コウ
スメラギのおかげで目が覚めた。確かに俺の覚悟が甘かったよ。離れてみてよく分かった。俺はやっぱりヒサメの幸せが一番だ。力も何もないんだから、ヒサメの幸せのために手段を選んでいられねえな。




