20-10 黒き御方――NYARLATHOTEP
――追い詰める。
――絶対に逃がさない。
私だけじゃない、銘々の思いをひしひしと感じる。皆が一様にいつも以上の怪異を目撃してきたはずであるからこそに――、全ての銃口がこの男に向けられる。
ミエコの二十六年式拳銃が、隊長の擲弾銃が、マイクの機関銃が、クラウディアの拳が、……恐らくバーナードの機銃座も、この男を狙っていることだろう。
前門の虎、後門の狼。
にも拘わらず、黒い男の広角は真一文字のままだ。
『其方は天使も悪魔も手籠めにする恐るべき人の子であるか。愉快よ』
――利用されているだけ。
奴の甘言と光の射さぬ本音が混ざり合うが、それは既に克服している。
「『……貴様が|戦艦《battle ship》ヤマトを蘇らせた怪異か! 消えたくなければ、大人しくこの怪異現象を納めろ!』」
クク――、と黒い男は口の端を上げてせせら笑う。
銃口など、奴に対する牽制にもならない。
『知らぬは罪。愚かしくも浅ましき人の業を、露ほども気にせぬ楽天家の衆よ。この地上の大悪魔と邪眼の堕天使をも気に懸けず、など余を討ち果たさんとする?』
見上げれば――、この船を押さえ込んでいるルシフェルとサリエル。人間と敵対するはずの巨大怪異、悪魔の王、堕天した神に連なる者達。人を拐かし、惑わせ、闇に引き摺り込むはずの者どもを前に、銃口はそちらに向けられぬ喜劇。
「『――そんなの簡単じゃネェか』」
クラウディアの刺突剣がガチャリと音を立てて組み直される。
「『この幽霊船を操ってるのがテメェだからだよ。どんな理由か分からねぇけどよ――、今この瞬間、テメェをぶっ飛ばしてくれる手伝いをしてくれるんなら、少なくともここじゃ悪魔を悪く言わねぇぜ。それに……、敵になったらぶん殴れば良いだけだッ!』」
あまりに端的に。
あまりに乱暴に正論がぶちまけられる。
怪異と現実の狭間にいながら、小気味よい痛快な物言いに腹から笑いがこみ上げてきた。
「『へへッ、戦争狂もウェストミンスターで椅子から転げ落ちてるだろうぜ』」
「『こういう時はね、詳しくは聞かないのが大人ってものよ、真っ黒黒助さん。威丈高に振る舞っても、全員を敵に回すだけで何も得られないわよ。……戦艦大和を上海に乗り付けて良からぬことをする気でしょうけど、そうは問屋が卸さないわ』」
ミエコの挑発に、黒い男が気味悪く首を傾ける。
『この船は地を這う人間共が己の力を過信し、科学という児戯で殺戮を繰り広げる為に作られた、余には取るに足らぬ玩具よ。壊れた玩具の穴を埋め、継ぎ接ぎし、海に浮かべたるは余、自らよ』
――なれば。
黒い男はルシフェルを背に、我々に面と向かって両手を掲げる。頭の天辺から指先に至るまで、厳かに、静かに、余裕を感じさせる一挙手一投足。
「『降伏? いや――』」
隊長が怪訝に声を絞った、――その時。我々の真後ろで酷く鈍い金属音がした。巨大で重厚な機械仕掛けが動くような音が俄に響き渡る。寸時全員が視線を交わし合う。
「ば……、馬鹿なッ!!」
突然、絶叫にも似た牧野の声が耳に劈いた。
私含め皆が一斉に振り向くと――戦火に斃れ、沈黙を貫いてた第一主砲塔の一本、真ん中の四十六糎砲が、よく見れば主砲塔も微かに、まるで狙いを定めているようにじりじりと動いているのが分かった。
先程、僅かに聞こえた動作音。
装填は済んでいる。
砲塔内の生きている弾薬は神聖化され――。
「ぜ――、全員伏せて耳をッ!」
飛び込むように前傾に倒れる牧野を見るまでもない。例え日本語が分からずとも、全員がほんの一刹那に視線を交わし、即座に主砲塔に背を向けた瞬間だった。
轟ッ――!
久方ぶりに味わう情け容赦ない爆音。
慈悲の欠片もない焼けるような熱風。
背中から後頭部に掛けて、強烈な勢いで叩きつけられる。目の前が真っ白に輝き、――いつも見慣れた光環が瞼いっぱいに焼き付く。
前門の閃光、後門の爆風。迅雷は波の如く遠雷へと過ぎ去り、瞼に焼き付く光陣は転じて視界を闇に突き落とす。文字通り勢いよく薙ぎ倒され、寸時訪れた静寂――、いや、甲高い耳鳴りが鳴り止まない。狂った三半規管が甲板にいることを忘れさせる程に、歪み、のたうつ。
『――きろ、――起きろッ!』
耳は駄目でも脳味噌は生きているらしい。一体どれだけの時間が経ったか分からないが、隊長の念話が図太く強烈に脳髄を揺さぶってきた。
『皆さん――! 大丈夫ですか! 無事を、無事を確認してくださいッ!』
図太い声から愛くるしい声へ忙しなく脳内に響き渡る。しんしんとぼんやりと意識が波打ち際から引き寄せられていく。つんのめった身体を支える腕は頼りなくとも、背に負った髭切の重みが、博士から手渡された信号拳銃の鈍い輝きが――私を現実に引き戻す。
「『み、みんな――、無事か!?』」
「『……え、えぇ』」
「『なんとか生きてるぜ……、ビビったけどよ』」
「『なるほど、こりゃ世界一だ、な』」
黒い砲煙が辺り一帯に棚引く中、全員蹌踉めきながらも、一見怪我もなく気を確かに首を振っている。見れば、マイクが隣に倒れ込んでいた牧野さんに肩を貸して起こしていた。
「……思ったより、衝撃は少なかったですね。炸薬が湿気っていたか、規定量に達していなかったのでしょう。発射できただけでも異常……、ですが」
まったく、この状況で努めて冷静に敵情を分析する辺り、紛れもなく一流の技術者だ。それにしても、これで全力ではないことに改めて戦艦大和の火力に恐懼するばかりだ。
「『……お、おい! あれ――!』」
突然にクラウディアが頓狂に声を上げ、艦首方向を指差した。
彼女の指差す先に視線を流すと、その先は黒い男ではない。舳先で、この排水量7万噸にもなる巨船を押さえていた巨体が、眼前でぐらりと体勢を崩していた。
分厚い胸に、砲弾痕生々しく――醜く擂り鉢状に抉れた傷跡の向こうには灰色の空がくっきりと見える。
『ぐ――、お、おのれ――』
悪魔王が力無く身体を屈め、苦しそうに呻く。
神聖化済み四十六センチ主砲弾の直撃。神に匹敵する怪異を、戦艦大和の主砲は確実に貫いていた。




