19-7 戦艦大和撃沈指令――東シナ海
――闇夜は深く、月の輝きはない。
見上げた空はいつかの空。されど満天に星は儚く輝き、深淵が鏡映しに天頂より降り注ぐ。遠くに見える白雲が帯びる光は寂光か、はたまた鬼火か。生暖かい潮風がただ虚しく頬を撫で、独り甲板で空を見上げる。見張りの甲板員が僅かに機銃座付近に散見されるばかりで、潮騒が辺り一帯を包み込んでいる。
着艦後、結局ミリアムに謁見したのは隊長と博士だけで、我々は艦内待機となった。
――夜間の戦艦大和への乗艦は避ける。
――旅の疲れを癒やすべく十分な休養を取る。
合理的と言えば合理的なのだが、その分時間という大敵が眼前に立ち塞がった。他の皆は飽きることなく艦内を見て廻った。クラウディアもミエコも、牧野さんまでこの改造に改造が重ねられた元英国護衛空母の艦内を興味津々に見て回っていたようだ。ケルト神話の海神の名を冠したこの居城に――ミリアムの意図だろう、中世風の艤装を凝らした異空間が続く艦内散策は確かに見る者の眼を飽きさせない。
だが、全てを知る身として、私は一人を欲した。
皆とはそれっきりで、宛がわれた個室で深い眠りなどある訳もなく、時計の針が十二時を回り、すでに丑三つ時も遥かに過ぎた頃、風を求め、闇を求め、凪を求め、前部甲板の真ん中に突っ立っていた。
「――眠れないの?」
足音もなく、闇から生まれるようにヒノエが背後から近づいてきた。振り返れば白い輝き帯びる彼女の姿に、僅かながらに胸を撫で下ろした。孤独を埋める闇に溶け込む艶やかさ、だ。
「えぇ。ヒノエさんも?」
「……流石にね」
潮風に乗せて、横に立った闇を纏う巫女の溜め息が漏れる。こうして二人だけで話すのも「一日限りの脱走」以来だ。
「随分と大層な事ね。まるで戦争だわ」
「多分さ、戦争なんだろう。これも」
怪異と人間の。
――いや、作られた演者と忘れた演者の。
そしてたった一人の男が生み出した怪異と私の。
「……覚えてる? 私と貴男が初めて会った事」
「夜の新橋?」
「そう。四等国の狂った時代に貴方の力が必要ってね。あの時も今も、国は何も変わってない敗戦国なのに――、色々変わったわね」
今でも鮮明に覚えている。
フードを被った彼女が、口汚く協力を求めてきた。
それから神聖同盟に協力し、怪異を討滅し、彼女に出会い――。
「色んな事が起きすぎた一年弱、だったよ」
「それは良い事だった? 悪いことだった?」
先回りして悪戯っぽく尋ねられた。
救われて、利用されて、心から信頼して。
「……そう、だねぇ。ヒノエさんに会えたから良い事だったかな」
「あら――」
素っ頓狂な声が響いた。
「どうしたんですか?」
「う、ううん。何でもないわ。ウラベさんも変わったなぁって」
横にいたヒノエと眼が合う。口の端に微笑みを湛えて、視線が綻んでいる。
「そうかい?」
「明るくなったわ」
月も死に絶えた深淵の中で。思わず笑い声が漏れた。
「ありがとう、ヒノエさん。君がいなかったら――」
――私は怪異に誘われ。
――私を取り込もうとした怪異は今、戦艦大和に。
「……駄目よ、ウラベさん」
ぴしゃりと冷や水を浴びせられた。
「難しい事を考えるのは良いけど、思い詰めちゃ駄目よ」
顔に出ていたのか、心を読まれたのか。
「……そうだね、その通りだ。あの海の向こうに、総力を挙げて立ち向かわなきゃいけない化け物の大将のような怪異がいる。戦艦なんていう巨大な船に取り憑いた怪異だ」
幽霊船、戦艦大和。
かの船が持つ46サンチ砲に撃たれ等したら、この船など木っ端微塵になってしまうかも知れない。私だけじゃなく、みんなも、ここで働いている乗組員も、ヒノエも――。
「人知れず語られず、唯々闇から闇へ人に徒なす怪異を討つ仕事は、ハッキリ言って嫌いじゃなかった。好きとまではいかないけど、人を救うため命を懸けるのは悪くないと思ってた。でも、……もし……もしもだ。僕が戦いの中、斃れることがあったら――」
「冗談じゃないわ」
ハッキリとした拒絶。
艶やかな瞳は大きく目を見開かれ、私の弱気を断截する。
「貴方らしくないわ。……嫌よ、私」
すっ――と、ヒノエが私の右腕を掴み、頭を埋めてきた。潮風に負けない香が私を包み込む。
「危ないのは私だって一緒よ。いつ戦いに果てて、姫の傀儡にされるかも分かったもんじゃないわ。……でもね、…………嫌よ。ウラベさん」
せがむように、縋り付くように、腕を強く掴んできた。
あぁ――、そうだ。
彼女を悲しませる事は出来ない。しちゃいけない。
たとえ砲火の中に斃れても、ヒノエを独りにするなんて出来ない。
「僕も、嫌だ」
言葉にしなければならない。
「ヒノエさんと離れ離れなんて、二度と会えないなんてゴメンだ。お互い職務で離れることはあっても、……僕達は契ったんだ」
――千年の因縁。
スティグラー博士は絶無とけんもほろろに言うだろうが、人は触れ合いの中でしか生きられないんだ。生死を問わず、身体の有無を問わず、全てはこの瞳と肌で触れ、感じたものこそが全てであって、たとえ作られた怪異と異能でも、――彼女の瞳の前にはどうでも良くなる。
「ヒノエさん――」
「ウラベさん――」
面を上げ、潤んだ瞳には罪も罰もない。
お互い自然と顔を近づかせ――。
……その時だった。
突如。
耳を劈くようなけたたましい警報音が一帯に鳴り響いた。ビーン、ビーンと森閑とした深淵を切り裂いて、心臓を鷲掴みにする恐怖のサイレンが鳴る。
「何だッ!?」
ビリビリと背中を走る怖気に、辺り一帯を見回した。
暗闇が徐々に徐々に、翌日の気配を感じさせる地平線の明るさに退きつつある。そんな中、――あぁ、あの時と同じだ。
「『対象を視認! 総員、|戦闘配置につけ《Action Stations》! 繰り返す、総員、|戦闘配置につけ《Action Stations'》!』」
神聖同盟の空母らしく、脳内とスピーカーに同時に声が重なり合う。
そうだ。アレだ。
水平線から立ち上る、気。
赤く、黒い奔流。
「……あれ、ね」
ヒノエも感じているのだろう。いや、彼女なりに見えているのかもしれない。
「あぁ、あれが」
――戦艦大和。
水平線の赤い蜃気楼にぽつりと浮かぶ、黒いごま粒。私にしか見えなくとも、その勢い、吐き気を催すドス黒い威圧感は見ているだけで分かる。軍機のベールも今はなく。遥か海底に沈んだ、出会うはずのなかった船。
今、眼前に迫る悪意と恐怖の前に、二人揃って肩を寄せ合った。僅かに感じる人肌の温もりに生きる決心を胸に秘め、遠い大和をじっと見つめた。




