18-7 LUCIFERO(天使と悪魔)――旧参謀本部跡
聞き慣れない名前であった。
欧州や米国らしからぬ韻に聞こえる。
或いは少数民族や南方の部族の名であろうか?
『……ナイアガラ?』
似た言葉、児戯に等しい聞き直し。脳裏に浮ぶものをすぐに念じてしまうのは、『神聖同盟』では良くないことだ。
『いや、古エジプト語風らしいのだが――、なるほど、確かにモホークやイロコイ語族の系からもインスピレーションを得ているかも知れんな。……意外と良い点を突いてくるじゃないか、ウラベ』
サリエルが右手で顔を押さえながら、首を振った。
『あぁ、博士。訂正する所は訂正するのが大人ってものだろう?』
『あらあら相変わらずですわね。Dr,ホワイト。しっかりとお答え遊ばせ』
一人置き去りにされるのも慣れたものだが、恥ずかしさは拭えない。きっと博士も同じ境遇だろう。彼は落ち着いた手つきで眼鏡を細やかにかけ直した。
『――失礼した。ナイアラルトテップ。ニャルラトホテップ、言い方は多分山のようにありながら、正しい言葉はどれ一つとして存在しない。十中八九、キャプテンカトウの言っていた「黒き御方」とはコイツを指すのだろう。この惑星ではない何処かからやってきた、魔法のような科学で人々を破壊と混沌に叩き落とす邪悪なる存在。神を冒涜し、不条理な神々を踊らせるという怪異だ』
いつも思う。
よくもすらすらと言葉にするものだ、この知的無頼漢は。普通なら置いてけぼりを喰らって当たり前の言葉の洪水である。しかし経験が物を言う。博士の言葉は身に染みて分かった。
『映画館の奴のご高説は、そんな感じでした』
クク――と、サリエルが俯きながら笑った。
『言うねぇ。――さて、これがただの怪異なら僕達が話題にしたり、こんな集まって話をする対象じゃないんだけど、僕らは知っている。コイツは昔にはいなかった怪異だ』
怪異。
それは人の恐れが生み出した幻影にして演者。長い人間の営為と進化と過誤の積み重ねに、産み落とされた蛭子。それが……、昔はいなかった?
『怪異は伝説上のものだけでは……』
『違うねぇ、違うよウラベ君! 多く語られるからこそ、人間の意志が集まって怪異となるんだよ。その意味じゃ怪異はいつ何時も自然発生しうる。それでもコイツは、極限の一つなのさ』
『……米国での話だ。既に故人だが、とある作家が怪奇小説を同人誌や商業誌で掲載し始めた』
「『――へ?』」
余りに突然。
博士の口から紡ぎ出される毛色の全く異なる話。思わず前のめりに首が傾き、キョトンと顔の力が抜けた。
『まぁ最後まで聞け。――生前、彼は作家として大きく売れたりはしなかったし、高級文学や大衆文学にはそれとした影響力などまるでない、現状|無名《 little known》の作家だ。彼の友人達が意志を継いで小規模出版を重ねて、地道に作品は広がりを見せつつあるが――、この作品群は奇妙な世界観を有していた』
『奇妙……、と言っても要は恐怖小説の一種ですわね。ですけれど、ちょっと癖が強めの、――なんて仰ればよろしくて?』
『そうだなぁ。……宇宙的恐怖でいいんじゃないか? 奴も外宇宙から来たと言っている訳だしねぇ』
ミリアムとサリエルが夫婦漫才のように軽妙に掛け合う。
『……どういうことです? その作家がこの怪異とどういう関係が?』
『焦らして悪いなウラベ。その作家は生前に膨大な作品を特徴的な世界観で構築していった。今でこそ日の目や評価を得ていないが、既存の宗教にも囚われぬ、宇宙から忍び寄る根源的な恐怖を題材にした世界観は、後世広く評価されるかも知れない。ナイアラルトテップは、彼の小説に登場するキャラクターだ』
――は?
――――は?
眼が、身体が、脳が。
ジリジリと音を立てるように焦げ付く。
意味を咀嚼できない。当たり前だ。私が今まで見てきた怪異は、全て伝説や口承伝承の煮凝りだった。形を有する怪異はそういうものなはず。小説? 登場キャラクター? 固まる私をニヤニヤと見下ろす悪魔王と視線が遇った。疑問は既に、ユダやブルータスのように咀嚼済みなのだろう。
『人の子よ、貴様の異能は何だ?』
『……邪眼、です』
『なれば強烈に世界を作り出す異能がいても可笑しくあるまい?』
――そんな。
そんなことがあるだろうか。
自分の想像したものが現実化する。
嗚呼――、違う! そうじゃないんだ!
初めて会った時にサリエルは言った。人間こそが怪異を生み出す恐ろしく強力な化け物、と。ならばその作家は、本当に――。
『たった一人の異能が、世界を作り替えてしまうことすらある』
博士を見遣れば、一人静かに俯いている。
『彼はもうこの世にいないが、彼の作った世界は日ごとに強化され、今のこの世のバランスを大きく損なう可能性がある』
『……そういうことじゃ。ワシは決して中今が優れたる世とは思わん。じゃが、彼奴が力を得て幅を利かせると――小説通りの怪異ならば、この世は闇に堕ちる』
『その闇は余のそれではあらぬ。ならば――』
ルシフェルの翼が五指のように広げられ、両手を天高く掲げる。神の祝福を得ようとする天使のように、紅の瞳は真っ直ぐ天を睨む。
『その力を破却せんと、我は人の子に手を貸そう』
悪魔王の善意に肌が粟立った。
『勿論ボクも手を貸すよ。出来るところまでだけどね』
『――Mr,ウラベ。わたくしども「神聖同盟」は、あくまで貴方を一人の人間として見ていますわ。貴方が新たなる怪異に目を付けられ、対峙しなければならない時――、微力ながらお支え致しますわ』
『ひひひ――、ここまで来たら引き下がれんよな卜部。ワシに助力を請いたければいつでも言うが良い』
表情が岩のように強ばり、瞼が天を別つように見開かれる。
視界の端に映る博士が静かに面を上げ、私を静かに見つめている。
『日・英・米、大天使に悪魔王の大同団結――、か』
その瞳に浮かぶ影は、怪異で亡くした妻子への情念か、それとも……。
『今日見たことは夏の夜の夢。天使と悪魔と人間と怪異が織りなす儚き幻影か、君を背中から支える力強き腕か、決めるのは君だ。……何れ来たる災禍に立ち向かえるのは、君だけだ』
暗黒の王、地獄の神、――ルシフェル。
奴の言う「災い」が何を指すのか皆目見当が付かないが、巨頭会談となったこの夜の出来事が、きっと今後大きな事件の発端、或いは解決の糸口になる――。そう思いながら星の死に絶えた夜空を見上げた。
――深淵。
外宇宙の恐怖。
ひたひたと闇を降りてくる悪意。
今ここにいる人と怪異は、降りしきる悪意に立ち向かう友か。それとも悪意の討伐に邪眼を利用する策士か。如何なる思惑あれど、あの悪意は私を怪異の闇に堕とし、引きずり、渦の中にたたき落とそうとしていることに変わりは無い。その闇は地獄の第9階層、凍てつく亡者の世界より黒く黒く塗りつぶされているに違いない。
――私の眼。
――私の眼が見たいもの。
――それは。




