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はじまりさえ唄えない  作者: 空芯菜
終章・今日が終わる 2000年
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終章・(月)2000年 1月10日

「はじまりさえ唄えない」最終章です。長らくお付き合い頂きありがとうございました。

今回の投稿は普段の五倍ほどとなっております。ごゆっくりお読みください。

           終章(月)2000年・1月10日



 六本木は今も慣れない。まだ渋谷のスクランブル交差点の方が歩きやすいと思う。人々は自分の向かう先だけへと真っ直ぐ進み、道を譲り合う余裕も気遣いもない。


 きっかけは僕から作った。ナスティに電話を入れ、自宅の電話番号を伝えていたのだ。ただ、電話を取ったのは知らない女性で、「過去に在籍した杉内です」と伝えたが信じてもらえず、運よく事務所にいた菅原さんに電話を代わってもらってようやく連絡が取れた。


 先に待ち合わせのバーへ向かうと、彼女の姿はなかった。カウンターでギネスを頼み、ひと口飲んでから一度席を立ち、公衆電話にコインを落とした。数秒後に電話は繋がる。


「着いたよ」


『すみません、今、向かってます。十分くらい遅れるんで先に何か飲んでてください』


 ああ、と答えて電話を切った。たったそれだけの連絡に二十円もかかった。電話は三分十円世代の僕には、世の移り変わりは目まぐるしかった。


 薄暗い店内はブルーの照明に照らされ、ブラックライトというヤツが幅を利かしていた。子供の頃に彫刻刀で派手に付けた左手の中指の傷跡が白々と浮かび上がって見える。


 ギネスのボトルが半分になるのを待って煙草に火をつけた。腕時計が七時十分を回って、左奥のドアが開いた。彼女は青いペイズリー柄のワンピースに白い柔らかそうなコートを羽織っていた。


「待たせてしまいました」


「いや、忙しい身だ。仕方はない」


 八年ぶりの再会はそんな言葉で始まった。


 彼女のためにとカウンターの左端を空けておいた。那由多は壁にコートをかけると素直にそこへ座り、


「チンザノ・ロッソをロックで」


 変わった酒を頼んだ。


「巨峰サワーじゃないのか」


「ふふっ、そう言う時代もありました。でもこの歳になってやっと、自分に合うものが見つかり始めた気もします。歌も、食べ物も、住む場所も。もっとも杉内シェフに敵う料理人にはいまだに出会ってません」


 細い煙草を取り出し、彼女は不器用に火をつけた。煙草を吸うようになったのか、と訊ねる前に、


「寂しさを紛らすために、時々吸ってました。マネージャーがいるとこでは吸いませんよ」


 青白く光る煙を吐き出し、届いたグラスを掲げ、


「乾杯です」


 そう言って笑う彼女は年相応に化粧はしていたが、あの頃のままだった。


 1992年の春先。大手レコード会社からのオファーをナスティが受け、『夕凪』がシングルカットされると発売一カ月でオリコン十八位まで一気に登りつめた。それからミニアルバム収録曲を録り直し、新たに四曲をくわえたアルバム『那由多』を出すと、四十万枚の大ヒットになった。そしてその頃、僕はもう博多にいなかった。


「今は岡崎さんの事務所で?」


 赤黒いベルモットを口にしつつ、彼女は煙草を吹かす。


「立ちあげの時期だったから、もう六年になるな。麗美も今じゃ取締役だよ」


 岡崎興業は、社長補佐の岡崎健翔さんが口にしていた通り、東京に小さな音楽事務所を開いた。規模はナスティと同じレベルだ。それまで各地を旅して歩いていた僕は、とりあえず最初のアーティストとして招かれた。


「ですけど、どうしてナオミさんの居場所が分かったんです? 全国周ってたんでしょう?」


 それに関しては今も不思議な縁だと思っている。というのも、あの殿村梨花さんがラジオでずっと『杉内直己の目撃情報』を募っていたのだ。


 TIMESの九州ツアーを終え、悶々とした時期を過ごし、ナスティを辞めると同時にフリーになっていた僕は一か月間だけオジャマジャに在籍したが、ラジャマンダラでサヨナラライブをすると共にあてのない旅へと出ていた。九州のみならず、関西や中国地方にも世話になった。今思えば帰る所のない、すべてを投げ出した旅だった。


 ナスティは僕の退社を形式上引き止めはしていたが、いつになってもCD制作に乗り出す様子のない事務所を僕が見限った形になった。


 旅の大きなきっかけは、一度だけ面識のあった石動さんにCDの制作を頼んだことだった。大濠公園近くにスタジオを持っていた彼は僕の願いを快諾してくれ、十曲入り、百枚のCDを発注した。資金は、那由多との積み立てを半分切り崩して支払った。初めてK’sファクトリーに世話になった。


 外国人旅行者のような大きなバックパックを背負い、行き当たりばったりの旅の中、それでもCDは三か月で売り切った。その度に石動さんを頼りに博多へ戻り、再プレスをお願いしていた。CDが送られてくるまでは博多のいたる所で唄っては日々を凌いでいた。


 そんな生活が続いた二年目。ラジオのコアなファンだった甘納豆さんに川端の路上で偶然出会い、


 ――「杉内さんのことラジオで捜してるんですよ!」


 彼女がそう教えてくれた。


 申し訳ない気分になった僕は里帰りするつもりで翌日にFBCへと訪れた。そしてその放送を麗美が聴いていた。折しも子供を連れ、岡崎の実家を訪れていた時だった。


 そんなこととも知らない僕は生放送が終わり、局を出ようとしていた。そこへ岡崎さんが車で乗りつけた。間一髪だった。


「結局その日のうちに話をまとめてさ、岡崎興業の擁するKRYPTON・エンターテイメントへ入社する運びになったんだ。宿無しだったからしばらく岡崎さんの邸宅で過ごさせてもらって、給料が出るようになってからはワンルームのマンションを借りて――もちろん岡崎さんの世話になったけどね」


 僕は久しぶりに誰かと普通に話せることが嬉しくて、饒舌になっていた。


「今はとりあえずライブを月に十本と、あの頃みたいにクラブ演奏もしている。それから若い子たちの指導だよ。たかが路上唄いが偉くなったもんだ。那由多を連れて行けば泣きながら喜ぶ若手のシンガーもいる」


 それはそうと、那由多は打って変わって寡黙だ。僕は沈黙を嫌って言葉を繋ぐ。


「もう、事務所変わってもいいんじゃないか。お前だけで持ってるような事務所だろ。それにいつまでも博多と東京じゃ不便だろう」


 すると彼女は火をつけない煙草を転がし、


「あそこにいると落ち着くんです。杉内直己が今にも帰ってきそうで」


 僕は気まずくなり、


「仲井間さんとは、どうなったんだ」


 自分の質問で余計に気まずくなった。僕がナスティを辞める前後、彼女が仲井間さんと頻繁に会っていたのは知っていた。その頃はもう、チエミさんは舞姫を辞めて行方知れずになっていた。


「彼は――基本的にどんな女性にも優しいんです。ナオミさんが事務所を辞めるって言った時から、何度も話に乗ってもらいました。でも違うんですね。彼にとってはナオミさんを引き戻すことより、目の前の泣いてる女の子に優しくすることが重要事項だったんですよ。仲井間さんに、何か言われました?」


「……いや」


「そういうことです」


 那由多はグラスを大きく煽った。


「お代わりください」


 何も見ていない聞いていないような顔のバーテンが素早くグラスを下げる。


 那由多は飲みものが届く前に火をつける。


「それより、ご自分の方はどうなんです。『今日が終わる』は業界注目株みたいですよ」


 KRYPTONからの六枚目のシングルのカップリングに入れた『今日が終わる』の話だ。音源にはしない、ライブでしか唄わないと決めていた僕の背中を押したのは麗美だった。


 ――「今、出さんと。絶対に後悔するよ」


 それだけの言葉だったが、彼女の言葉は時に短くて重い。それは弱りきった膝を叩けば簡単に人が転ぶことを知っているような、そんな言葉遣いだった。二十九歳の僕には、最後の賭けに出る、そんなタイミングだった。


「麗美さんとこ、子供大きくなったんじゃないですか」


 話題を変えた彼女に感謝する。


「八歳だよ。ひとり娘だから岡崎さんが甘やかし過ぎるって。奈留ちゃんっていうんだ。香坂の実家が元々は五島列島の奈留島らしい」


「頭に『ナ』がつく子は大成しますよ」


「自分のことかよ」


「あなたもです」


 最近では自分の名前を下で呼んで来る人間も少なくなったため、自分がナオミだということすら忘れかけていた。ナオミちゃん、ナオミ君、ナオミさん、そう呼んでくれる人に会わなくなって久しい。あの麗美ですら、『杉内さん』と呼ぶようになった。従業員もいる中、周りに示しがつかないからだろう。


「そういえば、TIMESの小川さんは元気にしてるか」


「ああ。言ってませんでしたね。刹那さんと結婚しました」


 よりは戻ったということか。


「そうか。よかったな。俺の方は、旅暮らしの間だったけどさ、長崎で親には謝ってきたよ。好きにしろ、って感じだったけど。麗美の実家も見つけて――」


「返したんですか? 例の五十万円」


「住所は電話帳ですぐに分かって。そしたら爺さん豪快に笑って、『いつでもまた取りに来い』だってさ」


「よかったですね。積年の願いでしたもん。長崎、なんか変わってました?」


 僕は煙草に火をつけて、バーボンを頼んだ。


「駅前がどうやらでっかい工事に入るらしくて――って、長崎帰ってないのかよ」


「ええ。未練のない街ですから。逆に母親を東京に呼びました。今は年に一回のお上りさんを楽しんでますよ」


 僕は届いたウイスキーをひと口飲んだ。


「で、仕事の方は?」


 音楽のことを「仕事」と素直に呼べるようになったのは最近だ。


「六枚目のアルバムを作ってます。リミックスなしで久々の完全オリジナルです。諸々がすんだらしばらくゆっくりするつもりです。中州で路上演奏でもしてみたいです」


「問題だろう」


「いえ、そのために部屋はあの日のまんまです。YAMAHAのギターもソファーもコーヒードリッパーも、何も変わってません。時にはカレーも作りますよ」


「それは食べてみたいな」


 僕が言うと、


「それよりナオミさんのカレーの方が食べたいです。私……まだ……」


 その先に耳を閉ざしたかった僕は、グラスを一気に干してお代わりを頼む。


「那由多。時間があるなら、ちょっと面白い所に行こう。せっかくの六本木だ」



『CLUB ライオネス』へ向かったのは午後八時半だった。入り口へ向かうとコート姿のドアマンが笑顔で迎えた。


「専属、今日は私用でいらっしゃいますか?」


「ああ、連れがひとりいる」


「かしこまりました。どうぞ」


 その話は無線で中へ飛んでいる。


 開いたドアの向こうには薄いカーテンが怪しく垂れ下がっている。そこへ早足で近づくのは、


「専属、いらっしゃいませ。テーブルの方がよろしいですか、それともVIPルームに?」


「ええ、テーブルに頼みます」


「少々お待ちください」


 そしてまた早足で店内へ戻る。


「今のって――」


 那由多が思い出している様子だ。


「勝沼さんだよ、NOAにいた」


「ああ、そうでした。だいぶ貫禄が出ましたね」


 一分ほど待つと、


「ご用意出来ました。6番のテーブルです」


 コートを手渡し、奥へ進む。


「あのコート、まだ着てるんですね」


 那由多が言うのは麗美が送ってくれた黒いスエードのコートだ。夏の間は石動さんのところに預けていた。


 段差のついた劇場型半円形の客席はNOAに近いものがあるが、赤味を抑えた照明で床はキャンドルライトに照らされているようだ。壁には等間隔で竹のオブジェが並び、僕らはそんな店のステージ近くへ案内される。二十席あるテーブルのひとつだ。女の子は常時四十人いる。


「ここでも唄うんですか?」


 那由多は周囲を見回し、そしてステージを見た。


「ああ、週一で。暇な時はギャラなしでやってる」


「それで『専属』って呼ばれてるんですね」


「それはそうと懐かしい顔はまだいるよ」


 僕が言うと現れたのは、


「専属、今日はお飲み物どうなさいます」


 僕はテーブルの上のボトルを差し、


「こいつのロックと――那由多はどうする?」


「私は、久しぶりにカシスソーダもらいましょうか」


「バーボンのロックにカシスソーダですね。お待ちください」


 そこへ、


「分かるか?」


「今のですか。いいえ」


「ミズキちゃんだ」


 言うと那由多は大袈裟に驚き、


「すっかり垢抜けてて分かりませんでした」


「ドアマンの若い男の子いたろ。彼と一緒に上京した。五年前だ」


 そんな話をしていると彼女がドリンクを持って戻る。椅子に座りグラスへ氷を入れる仕草も楚々としてあの頃の彼女とは大違いだ。


「日向様――ですよね」


 不意に彼女に訊ねられ、


「ええ……」


 那由多はそう答えるだけだった。


「ご活躍はテレビでも拝見しております」


 とりあえずミズキちゃんにも飲み物を作らせ、懐かしい再会に乾杯した。


「この度は稀有なご縁でお会い出来たこと――」


「ミズキちゃん、普通にいいよ」


 すると、


「ホントに? やあんミズキ緊張したあ。日向さん、久しぶり」


 那由多も頬をほころばせる。


「そっかあ八年になるったいねえ。ミズキもそろそろ最後の二十代やけんね。引退も考えんばて思うとったとこよ」


 僕はロックグラスを手にして、


「まだまだ新人育成の枠は残ってるよ。岡崎さんもそう言ってたぞ」


「そうかなあ」


 言っているところへ、黒いスーツの岡崎さんが見えた。勝沼さんが連絡したのだろう。


 彼はテーブル横へ立つなり、


「日向様、その節は大変ご迷惑をおかけしました。お詫びの言葉もございません」


 頭を下げる彼に、


「いいんです私。あの時期がなければ今の自分はなかったと思いますので。どうか頭を上げてください」


「本日はお目にかかれて至極光栄にございます。またのちほどまいります。楽しい昔話でもいたしましょう」


 岡崎さんはフロアをひと回りしてバックヤードへ消えた。伸びた背筋は五十前と思えない若々しさだ。


「NOAはね、ナオミ君たちおらんようになってから面白うなくなった。演奏は陣内さんのフルートと、あとバイオリンの男の人の入ってさあ。お客さんも『ギターの兄ちゃんと姉ちゃんはどこ行った』って、二年ぐらい言われとったよ」


 那由多はミズキちゃんの口調を楽しむようにグラスを口へと運んでいた。


「そういえば時々、がんにゃの由美子ちゃんから事務所に手紙が来ます。春に結婚するんですって」


「ホントに? あの時高校二年生だったから――二十五歳か。そりゃ俺たちも歳を食う訳だ」


「結婚式では『那由多さんに唄って欲しいです』って書いてあったんですけどね。ナスティの体制じゃ無理です。三十万はふっかけるに決まってます。私はノーギャラで唄うつもりですから。私がどれだけあの子に救われたことか」


『夕凪』のあと、他人の作詞作曲で出したシングル『花束のあとに』は、結婚する友人への思いが紡がれた曲だった。那由多の声を生かしきれていない流行りのメロディーだったが、ブライダル雑誌のCMにも使われてヒットした。


「式場に行けなくても、生歌のカセットでも送れば?」


「そうですね。それでしたら事務所通さずに出来ます」


 音楽業界での立ち位置で言えば那由多はもう、僕の遙か上の存在だ。そんな彼女と差し向かいで飲める日がまた来るとは、人生というのは不思議なものだ。


 那由多はカシスソーダを空け、


「それより旅の話、教えてください」


 ミズキちゃんがグラスを取ると、バーカウンターへ立った。


「そうだな――ナスティを辞めてまず、九州を回った。いつかの三木さんが言ってたルートだ。佐賀ではミュージシャンがひしめき合ってる飲み屋街があって、なかなか楽しかった。地域柄、悪そうな少年も来るんだけど、酔ったオヤジ連中よりよっぽど性質がよかった」


「ナオミさん、そういう子に好かれるでしょ」


「一律にそうでもないんだけど」


 ミズキちゃんが戻る。那由多は軽く礼を言い、トールグラスを受け取る。


「熊本では調子がよかったんだけど、調子に乗り過ぎて少年ヤクザにボコボコにされたこともあったよ。顔に青痣作って、あばらにひびが入ったまま鹿児島に向かった」


 那由多は懐かしいやぶ睨みでそんな僕の話を聞いている。


「その鹿児島はどうだったんですか」


 彼女は煙草を出す、ミズキちゃんがすっとライターを出す。


「どうにもこうにも唄えない街で、『路上演奏禁止』の紙があちこち貼られてるんだ。それでもこっちは食うために唄うしかない。だから無視して唄っていると警察が来た。事情を説明しても『ここではダメ』を繰り返す中で、割って入ってきたのが三木さんだった」


「彼、鹿児島にいたんですか」


「ああ。泣きそうになった。そこで三木さんが言うには『杉内君、公道じゃなかったらいいんだぜ。こういう街は建物の敷地内で唄うんだ。そうすれば騒音以外の苦情は来ねえ』ってさ。実践したら本当だった。寿司屋の隣を借りてふたりで一晩に三万円稼いだ。CDの売り上げ除いてだ。もちろん半分はその晩に飲み代で消えたけど」


 那由多は穏やかな笑顔でそれを聞いている。カシスソーダを少しずつ減らしながら。


「私、お手洗い行ってきます」


 席を立つと、ミズキちゃんが案内していた。そこへ岡崎さんがブランデーグラスを持って戻る。


「いやはや、押しも押されぬ大スターが来店してくださるとは」


「本人はその気ないんで、普通にいいんですよ」


 僕は言う。


 岡崎さんは煙草をくわえ、しばし煙をくゆらせていた。


 那由多は戻るなり、


「何か木製のものばかりで和風の洗面所でした」


 静かに感激していた。男子トイレは逆に天然石ばかりであつらえてある。それぞれのトイレだけで百万ずつかかったらしい。


 ミズキちゃんも遅れてテーブルへ戻ると四人が揃い、時間が逆行したような気分になる。それぞれに、流れた時を愛しんでいるようでもあった。そこへ那由多が口を開く。


「岡崎さんには大変お世話になりました。あのお店で、私はだいぶ成長させてもらった気がします」


「そう言っていただけると、報われます」


「それで、杉内さんの楽器は今ここに?」


 それには僕が答える。


「ああ、新しいギターだ。マーチンのDだから前より大ぶりになったけど」


「ハーモニカも?」


 その続けざまの質問は、ひとつの答えを導く。


「あるけどお前――」


「やっとご恩返しが出来そうです。あの頃、まだ洟垂れだった私たちを高額の報酬で迎えてくださった岡崎さんに。ナオミさん、先にステージのお手本見せてください」


 岡崎さんが答える前に、ミズキちゃんが立ち上がった。


「それは、今からステージを、ということですか」


「はい。お気に召しませんか?」


 小首をかしげる那由多に岡崎さんがあらたまって答える。


「ぜひ、お願いします」


 僕はステージ裏へ赴き、いつものステージのセッティングにかかる。ミズキちゃんがマイクスタンドを用意していたが、


「マイク、もう一本頼むよ」


「はあい」


 ステージの準備が出来ると、慣れた前口上で客に向かう。


「本日はCLUB ライオネスへようこそいらっしゃいました。今よりしばしステージを務めさせていただきます。杉内直己です」


 静かな拍手が湧く。僕は椅子に腰かけ、懐かしいナンバーを引っ張り出した。KRYPTONに入って最初のシングル、『西高東低』のカップリングで『ささやかな渋滞』だ。ステージ左のボックス席で目を細める那由多の姿が見える。


 ――週明けの産業道路に 荷物を投げて

 ――すれ違う窓に手を振れば ひとりに気づく

 ――振り返る 町もなく 人もなく 眠りにつく

 ――君と見た あの夢が 恋ならば それでいい


 また静かな拍手が響く。一時期のNOAのような指笛やヤジもない。東京の客は皆、洗練されている。


 その後、また懐かしいナンバーで『消えゆく虹』のあと、最新曲の『永久凍土の町』を唄い、ステージを終える。そしてそのままマイクスタンドを極端に低く構え、ミズキちゃんが楽屋から持ってきたクッションを置いた。那由多が動く。


 左端からステージに上がった彼女はまず靴を脱ぎ、手渡したギターを抱えた。


「大きいですね」


「だろ。弾けるか?」


「問題はありません」


 そしてステージにひざまずくと、マイクの角度を確かめていた。


 その演奏スタイルに従業員の女の子たちが気づいたのか、「日向那由多だよ」と口々に驚いていた。


「初めまして。CLUB ライオネス様では初の演奏となります。今日はひとつのご恩をお返しするためにステージをお借りしています」


 ギターのネックを握る手が微かに震えている。


「私の音楽人生に多大なる影響を与えてくださった岡崎様に、この歌をお送りします。日向那由多で『夕凪』です」


 ギターのボディーを軽く叩き、那由多のカウントが入る。僕は隣でハープを構える。実に八年ぶりのセッションだ。懐かしさより照れ臭さがあった。


 しかしブランクはまったく感じることなく、彼女のギターへハープを合わせられた。あの頃よりさらにソフトになった彼女のギターに、僕も柔らかなハープを奏でる。


 ――待つには遠く 追うにはもう遅く

 ――振り返るにはまだ早く ただ君を離れた

 ――繰り返すことさえ気づかぬままに

 ――人は世に儚く 今も生きてゆく


 人の暮らしは確かに儚いものだった。旅の中で何度も思い描いたのは壊れてしまった暮らしのことばかりだった。那由多の心を疑い、自分勝手に旅に出た僕のことを、彼女の歌詞に重ねていた。


「ありがとうございました」


 演奏が終わると割れんばかりの拍手が店内に響いた。彼女は少し照れながら靴を履き、何度も頭を下げ、ステージを降りるとテーブルに戻った。僕はギターと椅子を仕舞い、ミズキちゃんがマイクスタンドを片づけた。ステージは、あっという間に静かな空間に戻る。


「日向様、ありがとうございます。今日の演奏は今後、当店の方でも語り草になるでしょう。それで、お客様五名からドリンクのお勧めがありましたが、いかがなさいましょう」


 那由多は頭を掻いて、


「あの頃よりお酒には強くなりましたが、そんなには飲めないと思いますので。カシスソーダを一杯だけ」


「かしこまりました。あとの分は失礼でなければチップとして包ませていただきます」


 それから一時間をライオネスで過ごし、午後十時過ぎの表へ出た。


「チップもらっちゃいました」


 那由多は嬉しそうに呟いたあと、


「いいお店です。お店ってホントにお客さんで決まるんですね」


「ああ。どれだけ煌びやかな店を作っても、客が台無しにする場合がある。それがNOAやAQUAだった、とまでは言わないけど」


 僕は派手な表通りを避け、横道にそれる。


「明日は早くないのか?」


「オフです。忙しくなるのは来週からなんですよ。ニューアルバムのコンセプトから何から、レーベルでの会議があります」


 と、どこからか電子音が響く。


「すみません、私です」


 那由多はバッグから取り出した電話を耳に当てる。仕事のやり取りのようだ。


 三分後、電話をバッグに戻した。


「携帯電話か。最近、持ってる人多いな」


「ナオミさんも持った方がいいですよ。急な連絡も対応出来ますし」


「俺は一生縁がないと思うよ。どこにいても電話が鳴りそうで気が休まらない。で、腹減ってないか」


 僕は立ち止まって販売機で煙草を買う。そんな僕に那由多は、


「マンション、近いんでしょ」


 澄ました顔で訊ねてきた。そして、


「杉内シェフの手料理、久しぶりに食べてみたいです」


「俺たちもう、そういう仲じゃ――」


「いいえ。私は旅に出るあなたの『行ってきます』は聞いてますけど、『さよなら』は聞いてません。第一、荷物は今でも博多に置きっぱなしじゃないですか」


 挑戦的な目で彼女が問い詰める。


「狭いぞ。博多でひとり暮らし始めた時と同じ間取りだ」


 彼女は何の問題もないと言った顔で、


「充分じゃないですか」


 そう言うと僕の左手を取った。



「パスタしか出来ないぞ」


 那由多は小さなテーブルの横でクッションに座っている。


「何でもいいんです。シェフの料理なら」


 大鍋でスパゲティーを茹でながら、フライパンでニンニクを香り出しする。そこへベーコンを入れて炒める。その間に那由多が会話を求めて話しかけてくる。


「それから三木さんには会ってないんですか」


 卵を取り出し、黄身と白身に分ける。生クリームはないので牛乳で代用した。黄身と牛乳とパルメザンチーズを混ぜ合わせた。


「ああ。たまに会ってる。今は蒲田の駅近くで路上やってるよ。きれいな奥さんと利発そうな子供にも会った。鹿児島で電話番号だけ聞いてたんでな」


 茹で上がったパスタをザルに取り、フライパンへ投入。そこへソースを入れて手早く混ぜる。皿に取って黒コショウを振れば完成だ。


「出来たぞー。テーブル空けてくれー」


「はい、準備万端です」


 テーブルに皿を並べると、


「カルボナーラ、ですか?」


「生クリームは牛乳で代用してるから文句言うなよ」


「言いませんよ。家でカルボナーラ作る人、初めて見ました」


 那由多はすでにフォークを持って食べにかかりそうだ。


「意外と熱いからな。気をつけろ」


「はい。ん、おー。これはカルオナーア。ベーコンおいひい」


 食べながらしゃべる癖は直っていない。と思えば今度は泣き出した。


「もう……ナオミさんの料理なんて食べられないと思ってました……」


 僕はあえて食べる手を止めず、


「こんなもんでよかったら、また食べに来いよ」


 迂闊な言葉を返してしまう。だが、那由多は聞き流したようにフォークを口へ運ぶ。そして食べ終えると、


「この数年。ホントに食べたかったものがようやく食べられました」


 手を合わせた。


 洗い物は私がやります、と言った彼女を不思議な気分で見つめながら煙草を吹かしていた。何もなかったような顔で皿を洗うのを見ながら、ますます言えないことが喉元に溜まった。


「ふう、コーヒーはないんですか?」


「今はたまにしか飲まなくてね、ドリッパーつきのインスタントだ」


「じゃあ買って来ます。くれぐれもビールは飲まないように」


 まるであの頃の彼女だ。


 ひとりで行けますよ、と言い残して彼女は一月の寒い屋外へ出て行った。


(本当にあの頃みたいだ――)


 そう思いながらも、あの頃とは絶対的に違う距離感を感じ、煙草ばかりが増える。彼女はいったい、何時までいてくれるのだろう。現在時刻は十一時だ。


 彼女が戻ったのは二十分後で、


「急に寒くなりました」


 と袋を抱えてキッチンへ立った。そのままケトルに湯を沸かし、


「なんですか。コーヒーカップ四客もあるじゃないですか」


 呟きながらドリップコーヒーをセットしていた。


 やがてコーヒーが淹れられ、那由多がコーヒーカップを手にテーブルへ戻る。


「ナオミさんの好きなモカにしてみました」


 と、大きなシュークリームを手に微笑んだ。それは僕にとって八年ぶりの微笑みだ。同じ部屋に二人でいる。そして彼女が笑う。


 コーヒーを啜り、静かな時が流れる。埋めるべき空白や時間を無視して、時計が几帳面に針を動かす。いつの間にか意味もなく時計を眺めるようになっていた。そこへ、


「まるごとバナナって、いつからか見かけなくなりましたよね」


 他愛もない彼女の台詞に冷えた心を温めたりしていた。


「那由多はこっちではどこに住んでるんだ」


 シュークリームと格闘していた彼女が生クリームを舐めながら、


「恵比寿です。会社がそっちの方なんで」


「ならタクシーで帰れるか」


「……ええ、大丈夫です」


 その質問が何かに触れたか、那由多はそれから言葉少なになった。間を繋ぐための引き出しを僕は探る。


「その……アルバムが出来たら、また大きいとこ周るのか?」


 彼女はコーヒーカップを両手で挟み、


「その辺は事務所次第です。五百人キャパの所でツアーを組ませられそうな気はしてます」


 興味なさそうに答えた。


「本心を言えばあの頃みたいに、小さくても温かいライブハウスをまた周ってみたいです」


 それが許されない地位にまで登りつめた彼女に、その温もりはとても遠いものだろう。


「ナオミさんはどうなんです。ライブ、どんなとこでやってるんです」


「俺か? 都内の五十人キャパのハコとか、千葉、神奈川って感じだな。CDもあんまり売れてないんだ」


「岡崎興業のブレインって、どんな人たちなんですか」


「元プロミュージシャンが三人、引き抜いてきたエンジニア、それに麗美みたいな素人だ。ただし財力にものを言わせてるとこはあるから、大手事務所に舐められずにすんでる」


 飲み干したコーヒーカップを二つ並べて、彼女が煙草を取り出した。


「人の部屋ではあんまり吸わないんですけど――」


 言い置いて、ライターを擦った。紫煙は細く天井に立ち昇り、渦を巻いて白く散る。


「さっきも言いましたけど、ウチのレーベルで、『今日が終わる』を売り出しにかかりたいらしいんです。ホントは今日ナオミさんに会うこと、一部の人間には言ってあるんです」


 夕刻から心待ちにしていた僕の熱が、胸の中で少しだけ下がる。


「岡崎興業も大手レーベルと契約するのに問題は多くないと思うんですよ。私は今日、その打診に来ました」


 彼女の顔は凛として正直だ。


「あれは……メジャー向きの曲じゃない。音源にしておいてなんだけど、そっとしておいて欲しい曲なんだ。さっき那由多が言ったように、小さくても温かいライブハウスで唄っていければいい」


「でもそのお客さんたちは音源化を喜んだはずです。私もあの頃にはよく理解出来ない歌でしたけど、この歳になって気づいたことがたくさんあります。人から求められているうちに表舞台へ出すことって、重要な気がします」


 僕は冷蔵庫に立って缶ビールを取り出す。僕の中の弱い心が、何かから逃げ始めている。


「たくさんの後悔を抱えて、あの頃に戻っても、俺はまた同じ過ちを繰り返すだろう」


「その気持ちは分かります。それでも自分に正直で、そうだったからこそ今のナオミさんがあるんだと思います。きっとナオミさんはCDが、自分が売れるってことに戸惑い過ぎてます。売れてもいいじゃないですか。それは決して、出来ないことが増えてゆくことじゃないと思います。それは夢じゃなくてもう現実なんです」


 僕は煙草を取り出し火をつけた。狭い部屋に煙が立ち込める。


「今からつき合って欲しい所がある」


「どこですか……」


「路上だ」


「もう十二時前ですよ」


 煙草を消すと、僕は立ち上がる。マーチンのトリプルオーを抱えた。



「今でも唄ってるんだ。時々」


 那由多は黙ってついて来る。僕は不意に立ち止まりギターを下ろす。


「ここだ。人によっちゃ『ションベン横丁』って呼んでる」


 道を覗けば奥深く、様々な店の看板が連なっている。那由多はそれを見て黙っていた。


「今からここで三十分唄おう。そこで投げ銭が千円入ったら俺はお前の話を飲む」


「レーベル移籍ですか?」


「ああ。でも何もなければ、この話はなかったことにしてくれ」


「……分かりました」


 僕は久しぶりの路上準備に手間取ったが、五分後に譜面台を立てた。


「せっかくだ。リクエストはあるか」


 彼女はひとしきり困り顔を見せたあと、


「『置き去りの夏』をお願いします」


 そう答えた。


 ――転がり始めればいつも 辿れぬ振り返る道を

 ――ふたりで選んだ花の種 色づくまで待てなかった

 ――時の流れにも 夢のもろさにも 僕らは勝てずにいたけど

 ――つまらないウソを笑い飛ばせれば

 ――いつまでもただ 僕たちは 夏を歩いてた。


 通り過ぎる酔っ払いは見向きもしない。那由多は道の向かいで寒そうに立ち尽くしている。そこへ、


「兄ちゃん久しぶりだな! 『旅の宿』唄ってくれ!」


 僕は内心穏やかではなかったが、平静を装いリクエストに応えた。これで千円、ということになれば那由多の意を汲まなければならない。


「よし、よかった!」


 演奏が終わり、しかしリピーターのオジさんが取り出したのは小銭入れだった。ケースに五百円硬貨が入る。那由多の表情は窺い知れない。


 それからは人通りがあるものの立ち止まるものもなく、二十分が過ぎた。ただし、百円、十円、と小銭は増えていた。


「リクエストいいですか」


 彼女が言う。


「出来る歌なら」


「『今日が終わる』唄ってください」


 唄い終れば三十分だ。


「ああ、唄わせてもらおう」


 僕はDのハープを首にかけ、イントロをスタートさせる。


 ――ボブ・ディランは知らなくても答えは風に吹かれているって知っていたさ

 ――ローリング・ストーンズは聴かなくても転がり続けて生きてきた

 ――まだ早い朝のうちから起き出して交差点で煙草を吹かすと

 ――きっと今でも憧れてしまう西行きの長距離バス

 ――情熱なんて引っ張り出してきてもこの空っぽの自分が押し潰されて

 ――誰かの一生懸命に乗っかって今はただ笑うだけ

 ――毎晩飲み明かしているのはあの頃のまんまだけれど

 ――あの頃みたいに明け方の天使はもういない

 ――魂の隅っこに神様がいて何でもかんでもじゃまをして

 ――拙い心で夢をはぐらかしてくれていた

 ――ポケットの中ではいつでもビスケットみたいだったその夢

 ――叩いては増えてゆくもどかしさたち ああ 今日が終わる


 淡々と歌は続く。しかし人は止まらない。目算で八百二十円の金をケースに並べ、僕は唄った。


 ――魂の隅っこに今もお前がいて何でもかんでもじゃまをして

 ――拙い言葉で歌をねだってはほらもう泣いている

 ――ポケットの中ではいつでもビスケットみたいだったその恋

 ――叩いては増えてゆくもどかしさたち ああ 今日が終わる


 時計の針だけが進む。那由多は動かない。


 ――ボブ・ディランは知らなくても答えは風に吹かれているって知っていたさ

 ――ローリング・ストーンズは聴かなくても転がり続けて生きてきた

 ――まだ早い朝のうちから起き出して交差点で煙草を吹かすと

 ――きっと今でも憧れてしまう西行きの長距離バス


 最後のハーモニカが鳴り響く。人は止まらない。三十分が経つ。そして那由多が前へと進み出る。曲が終わると同時に彼女は千円札を一枚ケースへ置き、


「リクエストしましたから」


 勝ち誇った顔で笑った。



「今日は泊めてください」


 と言う那由多に、


「布団ひと組しかないんだよ」


 賭けに敗れた僕はウイスキーのボトルを取り出して煽っていた。


「分かってます。歯ブラシが二本ありました。それからそこの棚の一番下、布で隠してますけど化粧道具が入ってるはずです。ナオミさんに似合わないピンク色がチラッと見えました」


 僕はウイスキーをグラスに注ぎ、


「二年前からつき合ってる……事務所のアーティストで二十五歳の女の子だ」


「そうですか。何か肩の荷が下りた気分です。本心ですよ」


「お前には……悪かったと思ってる。それでも――」


「聞かなくていいです。初めて会った時から言ってるでしょ? 私っていつも二番目なんですよ。それより布団用意してください」


 テーブルの脇に布団を敷くと、那由多は洗面所に立った。歯みがきをしているようだ。なぜ持っているかはもう突っ込まず、僕もつき合う。


「あひたにれもレーベルの方に伝えておきまふ。ナオミはんは岡崎さんに話を通しておいてくらさい」


「ああ」


 布団へ向かう前に、


「これ、やっていいです?」


 那由多がバッグから取り出したのはキャンドルポットだった。どこまで先を読んでいたのだろうかと思えば、恋人の話をした自分が責められた。彼女には、あの日から時が止まっていただけなのだろうから。


 那由多がテーブルでキャンドルに火をつける。オレンジ色の光が小さく灯り、


「電気、消していいです?」


「ああ」


 キャンドルは天井を赤々と照らし出した。その中で彼女がワンピースを脱いだ。


「寒いです。さっさと場所を空けてください」


「空けてるよ」


「違います。あなたの温もりで暖まったところを私に下さい」


 そう言うと僕を押しのけるように、那由多は布団に潜り込んできた。冷えた身体を温め合える術は知っていても、それはもう、遠い温もりだった。


「昔話でもしませんか」


 天上を見つめ、彼女がそう言った。それは今を否定する行為であり、切なさは胸に満ちた。


「いつだったか、ラジャマンダラで会ったお姉さん覚えてないかな。知ってる歌しか聴きたくないっていう」


「ええ、覚えてます」


「殿村さんに聞いたんだけど、俺がいなくなってからも『杉内さんに唄って欲しい』ってリクエストハガキが届いてたらしい」


「そうですか……。てる子さんとこも、また行きたいですね」


 那由多は身体を捻って僕の方を向く。


「元気にしてるのかな。行きたいのはやまやまなんだけど、東京に縛られると動けなくて」


「もうじき東京博多も新幹線一本で繋がるらしいですよ」


「そっか。日本が狭くなるな」


 僕は普段の癖で半身を起こすと煙草に火をつけた。那由多は何も言わない。


 静謐な時が流れる。キャンドルの炎が時折揺れる中で、少しずつ時が巻き戻っていた。


 そんな静けさを、彼女が小さく破る。


「ナオミさん――」


 僕は煙草を消していたが、隣りを盗み見る。


「なんだよ」


「これが浮気じゃないのなら、ひとつお願いしていいですか」


 決して新しい恋人へは言えないことだが、都合のいいもので浮気のつもりはない。


 僕が黙っていると、


「キス、してくれますか」


 相も変わらず僕の心を乱してくれるヤツだと、その前髪を手でよけ、額へと口づけた。


「……やっぱりズルいです」


「精いっぱいだ。許してくれ」


「私、朝のうちに帰りますから」


 彼女は毛布の端を顔の半分まで引き上げる。


「そうか」


「これからは仕事で会えますよね」


「そうなればいいな」


「なりますよ。レコーディングだってつき合ってもらいます」


 目を閉じた彼女は手探りで僕の指を探している。僕は布団へ収まり、キャンドルはそのままに彼女の手を取った。ひとつの夢の終わりを迎えた気分で、しかし決別の次に訪れる未来に怯えていた。僕は今もまだ、はじまりさえ唄えずにいる。



                            ――了――


完結設定が出来ていなかったので編集しました。2019.5.04

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