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はじまりさえ唄えない  作者: 空芯菜
第一部・はじまりさえ唄えない 1990年
20/272

20・(日)5月27日

          20(日)5月27日


「あーもうめんどくさか。ナオミ君、片桐さんのとこでも行こうか。コンビニで色々買って」


「片桐さんって、あのホテルの?」


「うん、宿代せびってきたけん今度は表から大丈夫。フリータイムで夜八時くらいまで潰そう。

理解が追い付かなかったので、彼女の言うとおりにする。今の僕には選択肢は限りなく少ない。


 湊公園の付近でコンビニを物色し、彼女は山ほど買い物をしていた。その山のひとつを僕は手にしてホテルへ向かった。ビールだらけの荷物だ。


「え、こっちから入ると?」


「うん、今日はお客さんやもん」


 麗美は堂々と表からホテルへ入り、


「片桐さーん、来たよー」


 親戚の家にでも遊びに来た声で挨拶している。カウンターの窓口へ顔を近付けて何やら話していたが、


「ナオミ君、こっち」


 エレベーターへ向かった。降りてきたエレベーターには若いカップルが乗っていて気まずかった。


 405号室の上でランプが点灯している。コンビニ袋を手に、麗美は無表情でドアを開けた。


「ナオミ君、おいでよ」


 半開きのドアから彼女が呼ぶ。尻込みしている場合でもなく、麗美に続いた。


「うわ、モロにラブホって感じの色」


 部屋は赤を基調にピンクの照明だった。いかがわしさ満点だ。


「落ち着かんねえ」


 言いつつ彼女は早速コンビニの買い物をテーブルに並べ、残った缶ビールを冷蔵庫の隙間に押し込み始めた。


「長丁場やけんね。六本買ったよ。足りんかったら片桐さんに頼もう」


 さっそく一本目を開けてビールを煽った。気後れしている僕はビールに手を出せない。


「ナオミ君、飲まんと?」


 魚肉ソーセージをかじりつつ、麗美は言う。


「いや……もらいます」


「また敬語。なんでそうなるかなあ」


 黒いワンピースから膝を出して、彼女は楽しそうにのけぞる。そして不意に、


「母親のこと、許してやってね。なんか生活感ない人やったろ」


 特に失礼も感じなかった僕は、


「急で驚いただけだから」


 そう繋ぐのがやっとだった。


「弟がね――七歳で死んだとやけど。それからちょっとおかしくなって。毎日毎日意味のなか買い物ばっかり。今日もあれ、デパートの外商呼んだとよ」


「外商?」


「うん。店側が商品揃えて売りつけに来るとさ。それでだいたい月に百万。父親も理由は分かっとるけんね。何も言えんで」


 そこで彼女はバドワイザーを煽り、


「だけんあたしも小学生の途中からまともな母親に育てられとらんとよ」


 そう言うと黙り込んだ。


 そこからの時間的空白を埋めるのは僕の義務かも知れないと、あえて話を蒸し返した。


「弟さん、事故で亡くなったって聞いたけど……」


 すると彼女は缶ビールをテーブルに置き、表情を変えずに答えた。


「母親の車でね、轢かれたとさ。ガレージに向かってバックしとる途中で。だけん、事故やったとよ。あたしも見とったもん。何が何でも母親が悪かって訳じゃなくてね」


 バージニアを出した麗美が火をつけ、


「でも本人はずっと自分を責めてね。そこからおかしくなった。ずうっと泣いてばっかりおると思ったら、急に一日中フワフワし始めて、よその男と仲よくなって同棲染みたこともしてるし、たまに帰って来たらアレやし。父親が何も言わんのがいちばん悪かとさ。そういう意味で私は父親を尊敬出来ん。ここいらで名の知れた人間なら、あたしだって最大限利用してやろうと思っとる。でもそういうのって、もう家族じゃないよね。家族ってなんやろうって時々思うけど、両親が仲よくて、親が子供を心配して、子供は親のためを思って、そういう家族なんて本当にあるのかなって思う」


 その答えは彼女の吐き出した煙に紛れ、ついに分からなかった。ビールに付き合おうと思ったのは、そういう理由からだ。


 乾杯もなく、お互いに少しずつ減らしてゆく酒を手に、僕らはうつむいていた。いったい何が欲しくてこの場にいるのか分からない。それは彼女の望むものと僕が望むものの簡単なすれ違いなのだろう。分け合うべきものは時間でも空間でもなく心のはずだ。そして、その心のありかを僕はずっと探していた。


「ギター、持ってくればよかったかもね」


 静かな部屋にポツンと麗美の声が落ちる。


 僕はすでに空いた缶ビールを飲むふりをしていたが、


「トイレ行ってくるね」


 ポーチを手に立ち上がった彼女がドアの左側へと消えた。途端に大きなため息が出る。持て余すには、この時間は長過ぎた。せめて彼女と恋人同士ならば沈黙さえ心地よいのだろうか。


 戻ってきた麗美はしおらしく椅子に座り直して、


「残念だね。始まっちゃったから」


 そう、心から残念そうに笑った。言葉の意味を探していた僕は、ようやくここがどういった場所なのかを思い出していた。珍しく長崎弁の少ない彼女は彼女なりに緊張していたのだ。


「あたし、いつでもこんなじゃないよ。ナオミ君には特別」


 その特別待遇は時に僕を翻弄する。香坂麗美という女性を理解するのに時間を要する。それは十分の時もあれば半日のこともある。けれど、それでも僕は少しずつ彼女を理解しているとそう思いたかった。彼女の望むものをいつか手のひらに乗せて、そっと見せてあげられると信じていた。


「ちょっと横になっていいかな。腰のあたりがね、しんどくなると」


 女性の生理には詳しくはない。本人が言うのだからそうなのだろう。


「気にせんでいいよ」


 麗美が言う。僕は今度こそ二本目のビールを取り出してプルトップを開ける。


「ナオミ君はさ、自分の曲って作らんの?」


 ベッドであおむけになっていた彼女が天井へ向かって訊ねる。


「今は……今は人の歌で手一杯やけん」


「でも、いつか作ってね。あたしの歌」


 それは懐かしい既視感を伴って僕の耳に響いた。


 ――「いつか、私の絵、描いてくれる?」


 高校時代の何気ない約束は、小さな後悔を連れてくる。麗美のための曲が出来るとして、それはきっと寂しい歌になりそうだった。


「すぐには思いつかんから、そのうち」


 気弱な僕に、


「そうやね。すぐには無理やもんね。あたし、待っとく。その代わりにさ――」


 麗美はシーツに潜り込み、


「今すぐ出来ることお願い」


 ベッドの隣を空けた。僕はその誘いに乗る。


 彼女はすかさず僕の首筋に抱きつき、口づけてきた。彼女にしては荒っぽいキスだ。


 もちろん僕はそれに応える。その細い肩に手のひらを置き、そして小さく水音を立てた。


 不意に彼女がその唇を離し、


「あたしね、ナオミ君のこと滅茶苦茶にしたい。あたしのことしか考えられんくらいに」


 そう言って僕の胸へと縋りついてきた。僕には優しく背中を抱くことしか出来ず、頭の片隅に残っていた理恵への思いは粉々に砕け散った。麗美のことが好きなのだと、その実感が身体を包んだ。温もり、と呼んで差し支えない感情だった。


 そのまま眠りに落ちたのはどちらが先なのか分からない。ただ、目が覚めると彼女の寝息が静かに聞こえていた。あどけなく開いた唇にそっと口づけると、目覚めた右手が僕を探して彷徨っていた。その手を取ると、


「どこも行かんで……あたしと一緒におって……」


 寝言のように呟くとまた目を閉じた。僕は彼女の寝顔を三十分も眺め続け、そしてゆっくりと手を離すとソファーへ移った。時計の針は午後四時を差している。少しだけカーテンを開けてみると、汚れた窓から外が見えた。雨は変わらず降り続けているようだ。


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