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はじまりさえ唄えない  作者: 空芯菜
第一部・はじまりさえ唄えない 1990年
21/272

21・(日・月)5月27日~6月11日

          21(日~月)5月27日~6月11日



「よう寝た……ふぁ……」


 ベッドの上、寝起きの猫のような伸びを見せると麗美はあくびを連発した。


「五時だよ。まだいてもいいとかな」


 時間ばかり気にしている僕に、


「大丈夫。何かあったら電話鳴るし」


 まるで何度も使ったことのある口調だ。いや。きっとあるのだろう。かといってそのことを責めたてる意味はない。


「ちょっと家に電話してみるね」


 そう言うと彼女は細い指先でベッドサイドの受話器を持ち上げた。


「もう帰った? 八時には戻るけんね。それまでに出ていって。じゃ」


 留守電やった、と彼女は受話器を置き、そしてまたベッドへ寝転んだ。


「ごめんね。雨の日ってどうしても眠たくなってさ」


 いい加減ビールを飲むのにも飽きて、僕はホテル設置の缶コーヒーを一本いただいた。テレビをつけてもゴルフに競馬に野球とつまらない番組ばかりですぐに消した。ふと、部屋に有線が通っているのを見て、


「ねえ麗美、なんかリクエストしようか」


 しかし麗美はまた微睡んでいる。


 僕はチャンネルボックスに書かれた有線の電話番号を押し、


「Aの2ですけど、尾崎豊の『群衆の中の猫』をお願いします」


 そう頼んだ。するとオペレータは、


『四曲あとになります。そのままのチャンネルでお待ちください』


 そう告げた。


 聴き慣れた流行歌が数曲続くと、シンセサイザーの低い音から曲は始まった。


 手持ちのテープには入っていない曲だ。彼女といると、時々無性に聴きたくなっていた歌だった。


 僕は雨の中、彼女とふたり歩く街を空想する。雨の日も雪の日も、晴れた朝も曇った夜も、決して離れないふたりを想像する。それは憂うつだった未来を少しだけ明るく色付ける。僕らは何も悪いことはしていないのだから。


 結局飲まなかったビールとカップラーメンとスナックの類を袋に詰めて、僕は表を窺いつつ小雨の中に出た。こういう瞬間を見られるのがいちばん弱い。僕はもうこの街で、目立たない一般人ではないのだ。


「大丈夫よ。誰も見とらんってば」


 のんびりと歩いて出てくる麗美から距離を取って僕は五メートル先を歩く。大衆を目の前に唄うストリート演奏を始めても、小心者の癖は治らない。


「ラブホくらい誰でも行くよ。それに何もしとらんし」


 何かしたか何もしていないかは傍目に分かるものじゃない。


 マンションに戻るともぬけの殻で、彼女の母親も誰もいなかった。麗美は「着替えるから」と言って寝室へ行き、やがて黒いジャージの上下で現れた。僕はその理由に気付かぬふりで煙草に火をつける。


 彼女はソファーに座るとクッションを抱いてぼんやりとしていた。わりとよく見る光景なので黙っていると、


「言い忘れとったけど――」


 僕の顔色を窺うように小首をかしげて、


「あたしね、来月から博多に行かんといけんと」


 僕はだしぬけに告げられて、うん、とうなずいただけだ。


「コンパニオンのね、出張みたいな感じで二週間。新しかお店で、派手にオープンしたからしかとさ」


「うん」


「うんって。ナオミ君、大丈夫?」


 大丈夫かと訊かれても、どう答えようもなかった。寂しい、とでも言えばいのだろうか。


 彼女はクッションを抱え直し、


「その間、ここ使えんよ。いや、使えるようにしようかな、でもな」


「麗美が困るようなことはせんでいいよ。元々そういう生活だし」


「でも……」


 確かに弱りたいのは山々だが、彼女に迷惑はかけられない。それに、心配も含めてだ。なので、


「大丈夫。俺は自力で生活出来るから行っておいで」


 自信たっぷりの顔で言うと、


「ホントに?」


「ホントに。路上の方も最近はコンスタントに小銭も落ちるし。サウナで充分過ごせると思うから」


 それから二週間。確かに僕はサウナで過ごすことになった。ただし、梅雨入りした空は僕に厳しく、新しく場を移したビルのエントランスは道路から離れていて、客付きが悪かった。よくて三千円、悪ければ数百円という収入で毎日を乗り切るには無理があった。


 それでも僕には他に方法がない。唄う術がいつしか生きる術にすり替わり、やがて新しい消費者金融から金を引っ張ってきた。それしか方法がなかった。最初と同じく五万の貸し付けが、もうあとには引けない状況を作り出した。一度大勝ちした駅前のパチンコ屋へ出向くこともあったが、昨夜の稼ぎとコインロッカー代をムダにして終わる日々が続いた。


 麗美への電話は三日に一回、午後の三時に決まっていた。他の女の子と相部屋なのか知らない子が出ることも多かったが、


 ――『大丈夫? 困ってない?』


 受話器越しにそう繰り返す彼女には、


 ――「大丈夫だよ。そっちも頑張って」


 強がりを通し、そんなふうに毎日は過ぎて行った。


 いよいよ彼女が博多から戻る前日、手持ちは三千円になり、借金総額は七万円で一日千円返したとしても完全返済には途方もない時間がかかりそうだった。その一日千円を叩き出せない日が続いていたのだから。


 何もかも梅雨空のせいにしたかった。


「ナオミ君!」


 久しぶりに晴れ間の出た空の下、思案橋でギターを出していると大荷物を抱えた麗美が現れた。その顔は元気そうで、僕は挫けそうになっていた心を持ちなおした。


「一回帰ってからまた来る!」


 僕は彼女に手の形だけで答え、ボロボロの心を隠して笑った。麗美が戻った。あの、照れ臭くも甘い生活が戻ってくる。そう思うと、二週間の長さが途方もない時間だったように感じられた。


 思案橋から眺める人波がやけに新鮮に見え、ギターを構えるとデモンストレーション代わりにハーモニカを吹いた。符割も何の決まりもない簡単なブルースコードへハープを乗せて、足を踏み鳴らしてギターを鳴らした。たったそれだけでも通行人は足を止め、ギターケースに小銭が入った。この街に麗美がいる。その事実がどれほど自分にとって大切なのかを噛みしめた。


 本番一曲目となる『街の風景』を唄っていると、ジーンズにTシャツの麗美が駆けてきた。そのままガードレールに腰かけ、ただいま、と口の形だけで伝えてくれた。


 やがて歌が終わると、


「痩せた?」


 と笑顔で訊ねられた。


「変わらんよ。麗美はちょっと丸くなったんじゃ」


「あーん、それ言わんで。長浜ラーメン食べ過ぎたとやもん。皆で毎晩屋台に出かけてさ」


 博多の話も聞きたかったが、今はストリートに集中しようとギターを握ると、


「あ、ビール買ってくる」


 横断歩道を渡って跳ねて行ってしまった。変わらない彼女が心の底から嬉しかった。


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