第九十六話 急変
「お前は、歪んでいる」。
少しの間顔を合わせただけの人間から放たれた言葉。しかし、真っ直ぐな、正確な言葉。
「自分は、歪んでいる」?
兵士の言葉は、まるで、僅かな火の粉が藁の山に取り付くことで大きな火炎に変わるように、彼自身への問いへと姿をやつした。
もちろんのことながら、彼にその自覚はなかった。事実、『元の世界』では、きっと平均的な性格の人間であっただろう。恋愛沙汰こそなかったとはいえ。
と、すれば、これもまた当然の帰結として、兵士の言葉を突っぱねることも彼にはできたはずだった。
非常に陳腐な表現を借りれば、「愛の形は人それぞれ」というわけである。
歪んでいようがいまいが、それは見る人の眼鏡次第。
彼には彼の理想があり、それと同じ様に礼一少年には礼一少年なりの理由がある――真理としては、こうだろう。
しかし、当の礼一少年の心理は、そうは言っていなかった。
彼は、不思議なことだが、兵士の言葉によって断崖絶壁に追い詰められたように感じていた。
それは、彼が無意識の内に覆い隠してきた心情を、信条を、あっさりと見抜いたためだった。
ヨハナは綺麗だ――汚れてはならないという、それを。
この文までの彼の物語を読み解けば最早言及するまでもなく明らかだろうが、そのために、中島礼一という男は彼女の被るはずだった汚れを一手に引き受けてきた。
いや、汚れ、というのは少し論理の飛躍があるかもしれない。もう一段階踏んだ言い方をすれば、それは、彼が彼女の代わりに苦しみを背負って生活費を稼ぎ、彼女のための箱庭を作る、ということである。
しかしながら、この世界に関してだけ言えば学もなく職もない、そんな彼が手っ取り早く金銭を稼ぐには――コロシアムという血染めの棺桶に足を踏み入れるほかなかったのだ。
そこで、彼は殺しに手を染め、その「勝負」の賭け金で彼女を養ってきた。
手塩にかけて手をかけてきた――機装巨人の操縦桿に、である。
対戦相手の命にも、だが。
その事実を、当然彼女は知らない。彼は、そうなることを恐れて伝えてこなかった。
というのも、彼女は、暴力的なもの、粗野なもの、とかく倫理的でないものを嫌ったからだった――嫌うという言葉で足らなければ、文字通り、「死んでもお断り」というのが近い。
先述したヨハナが美しいからというのが礼一少年側に起因するの理由だとすれば、これは当のヨハナに依拠する理由だった。
だから、彼女には、命を賭けて暴漢から彼女を守ってやったことがあったことすら教えていない。それは暴力的な解決を経たためである。
要するに、何故そのようなことをし続けたかといえば、彼女がそれらのことを知れば、彼女がどのような反応をするか、ある程度の予想がついたからだった。
彼が考えた最悪は、彼女の自死――それは、決して有り得ないことでもない。
事実、彼女が理想に生き、殉ずる傾向にあるのは一目見ればその一縷の乱れもない僧服が証明してくれる。
そのような理由の元に、彼は彼女に背を向け、彼女の見てはいけない世界と相対する。彼女を死から守るため、伝えれば彼女の死を招くようなことをする。
それでいいのだと、思っていた。
今までは、そうだった。
しかし、兵士の言葉は、それらの定説に対して異を唱えた。
彼女に背を向けること――それは、確かに彼女に害を与える外界を監視するには有効な手段かもしれない。
しかし、それでは彼は彼女を見ることはできない――彼女もまた、彼を見ることができない。
何をしているのか、どうなっているのか、笑っているのか、泣いているのか――も、分からない。
お互いに。
となれば、彼女のために、というのは、あくまでポーズでしかない。
そう主張するには、あまりに行動が自己完結しすぎている。
そして、そのポーズの美しさに満足してしまっているのが、彼――ということだった。
自己完結――自己満足。
自己愛。
ただ愛する彼女の役に立てればそれでいいというのは、つまりそういう風にしている自分を愛しているに過ぎない。
代償を求めないことを是とする愛というのは、そういうことであり、そう言われたからこそ、礼一少年ははっとしたのだ。
しかし、はっとして、そこで止まってしまったのも、彼であった。
だとして、どうしたらいいのだろう――。
仮に自分が彼女を愛していて、それを率直に伝えることが必要なのだとして――そしてそうするとして、その先には何がある?
彼女は、笑うだろうか?
それとも、嘆くだろうか? するとそれは自らの信仰か、はたまた彼の愚かさをなのか?
そして、伝えるべきはそれだけではなかった。彼が思いを伝えるのならば、同時に彼の業をも伝えなければ不誠実というものだろう。
そうだとして、その先には何がある?
先、先、先――。
その聳える壁に、彼は思わず立ち竦んだ。今まで、彼女に相対しようと思う度、無意識にそうしてきたように。
「――ホッ、ゴホッ」
そうして彼が思考を止めたのは、実のところ物理的にもそうさせられたからだった。
耳元で聞こえたその音は、不意に立ち止まったヨハナの喉から息が激しく吹き出す音で、それは一般に咳と呼ばれるものだった――もう少しその勢いが弱ければの話だが。
「ヨハナさん? 大丈夫ですか?」
礼一少年は演技すら投げ出してそう声をかけた。すると、彼女はまたも咳をし、ついには礼一少年の支えを以てしても立ち続けることができなくなり、艦内の狭い階段の中腹辺りにしゃがみこんでしまった。
「おい、何をしている?」
先頭を行く兵士は後ろからの足音が全く違う音に切り替わったためにそう言った。階段という左右に幅のない一本道で立ち止まることは危険だったからだ。
しかし、礼一少年はそれに答えることもせずにただヨハナの背中をさすることだけをした。それしかできなかった。
だが、彼が唯一可能だった行動であったにもかかわらず、それらは大して意味を為さなかった。彼女はまるで噴火の前兆のようにその喉を震わせ続けた。
そして、それは、いつまでも前兆のままではない。
彼女の激しい闘争の末に聞こえた、ゴボッという、湿った何かが細い管から空気と共に吐き出される音。彼は瞬間的に、恐れを感じた。
無論、側にいただけの彼が恐れ戦くのならば――彼女も、そうならないはずがない。
「ヨハナさん」
息が荒くなる。目が、不自然に揺れる。名前を呼ばれた彼女の手が震える。押さえていた口元から離れようと、する。
「ヨハナさん――駄目だ、見ちゃいけない、ヨハナさん!」
彼女の手を押さえるべきか? 礼一少年は逡巡した。
いや、そうして、そうしようとした。
しかし、彼の手はどうしても動こうとはせず、まるで今の彼が彼女に触れることを許されない悪であるかのように止まっていた。
そして、彼女は見る――白魚のような指に絡みついた、赤く小さな果実を。その果汁を。
あるいは、自らの血液を。
「――ッ! 嫌ァァァァッ!」
血。
それをトリガーとして、ヨハナの精神はあっさりと圧壊した。以前、黒騎隊の兵士の死体を見てそうなったように、だ。
しかも、今回は他人のそれではないし、状況も違う。見ず知らずの場所で、自身の口から吐き出されたそれというのは、有り体に言って、破壊力が違った。
「ヨハナさん!」
礼一少年はようやく彼女にすがりついた。しかし、それが今の状況に関してどのように寄与するだろう?
むしろ、まるでそれを合図としていたかのように彼らの一団を軍靴の足音が取り囲んだ。
「上だ! 敵がいるぞ!」
「下からもだ、後ろを取られている! 立ち往生だぞ!」
散弾銃の発砲音。小銃の応射。
礼一少年は、その暴虐の中で、ただヨハナを抱き締めて階段に伏せることしかできなかった。
機装巨人には、人を模した形をしている以上は、大きな死角がいくつも存在する。
まず、後方。人間の意識自体がまず向きにくい方位であるのは言うまでもないが、そもそも構造上スムーズな反撃ができず、装甲も薄いことが多いため、自機が敵に比して格下の場合はここを狙うことが定石となる。
次に、下部。勇敢で経験に富んだ歩兵は機装巨人をも撃破するが、その場合、孤立したところを狙ってこの死角を突き、コックピットに手榴弾を投げ込んでいるのだ。
しかし、弱点であるからこそ、これらには対策を講じられていることが多い。
例えば、随伴歩兵はこれら全てにおいて有効であるし、機装巨人を歩兵なしで使用する場合でも、小隊単位で使うことがほとんどである。
そして、ハートマンが置かれているような一対一の状況下では、これらはパイロット自身の注意だけでも充分に対処できる。
だが、唯一そうでない弱点――それが、「上方」だ。
後部装甲が一般に薄いのは前述の通りだが、上部装甲はないに等しい。
その一方で、地表は平面ではない。
特に戦場なら、高地や稜線の入り組んだ位置の取り合いになるわけだから尚更だ。
ましてや、今彼がいるのは船上――構造物それそのものである。
すると、今、彼の敵がそうしているように、それらを駆け登り、機装巨人に特有のジャンプ力を活かしてそこを狙うのは当然であり、難しいことではなかった。
だが、しかし。
それだけで撃破されるほど、ハートマンは弱くはない。
何故なら、彼には、敵が見えていたのだから。
空中に浮いた敵へ砲撃。すると砲身は当然真上を向いていて、その照準器もそれに追従している――それを、コックピットの照準ゴーグルで見ていたのだ!
そして、何より空中! 本来ならば、そこに逃げ場はない! 機装巨人はあくまで地上兵器――空中から弱いのと同様に、空中では、無力!
しかし、彼の射撃は、敵の応射がそうであったように、無為に終わった。
何故なら、空中にあって無力だったはずの敵が、狙われていた胴体を空中で横滑りさせ――その結果先制射撃になるはずだった応射を外し――回避したからだった。
「!」
そのとき、ハートマンは敵機の足から何かが吹き出すのを見逃さなかった。さらにはそれが何であるかも掴んでいた。
それは、魔力の噴射――水上に浮くための、艦載機装巨人特有の装備によるもの!
水面付近とはいえ、機装巨人を浮き上がらせるほどのパワーがあるのだ、それを空中で吹かせば、それなりの姿勢変更は可能!
ハートマンはやや立ち位置をズラしながら、再び発砲。
しかし、お互いがそれなりに移動の自由を持っているのなら、それは乱打戦になる。敵もまた回避しながら射撃。
そしてもちろん、お互いのそれが生み出した結果は、雲に甲板に穴を開けるかの違いしかなかった。
お互いが一歩も譲らない戦い。
一進一退の攻防。
とはいえ、やや有利だったのは地上に居続けることの出来るハートマンであった。
空中にいる敵は、いずれ降りてくる――そこを狙うことが彼にはできたのだ。
彼は時間にして僅か数秒の乱打戦にいち早く見切りをつけると、甲板に二段で並ぶ空のコンテナの上段一つ一つに榴弾を撃ち込んだ。
甲板に直接降りるには、あまりに高度が高い――クッションが必要だ。
ならば、と、敵の着地点になるであろうコンテナ付近を乱すことで、罠にはめようとしたのだ。
「墜ちろ!」
その叫びが望んだように、それは落ちてきた――しかし、術弾と共に。
しかし、それはハートマンの駆る『エーミール』に向けてのものではない。
敵が選択したのは奇しくも彼と同じく榴弾であった。そして奇しくも、同じ狙いであった。
敵は――ハートマンが壊したコンテナの破片を吹き飛ばすために、榴弾を撃ったのだ。
激しい揺れと共に、着地。足らないクッション性は、先ほどまで姿勢変更に使っていた魔力噴射を利用して補う!
そして次の瞬間、お互いの砲身が、お互いへ向かう。
西部劇のような静寂。いつの間にか雨を降らす役目を終えた雲が二人にのしかかるようだった。その重苦しい中で、ハートマンは、引き金を――。
引けなかった。
何故なら――敵が、何かに気づいたかのように素早く立ち上がると、そのまま傾いた甲板から降り、海の上を駆けていったからだった。
それでもプロの兵士であるので、呆けていたのは一瞬だけだったが、逃げる敵に砲撃を加えられるほどの余裕は彼になかった。
正確には、『エーミール』には。
機体が不意にガクンと膝を突いた。元々ボロい予備機をいきなりフル稼働させ続けた代償として、魔導エンジンが故障したのだ。
戦闘中、よく保ったものである。
「チッ……整備士が言っていたのはこれか……教訓にせねばな……」
ハートマンはエンジンを切ると、コックピットハッチを開け、硝煙の混ざる海風を吸いにいって呟いた。
「しかし、中はどうなっている……撤退したのは機装巨人だけか?」
中には、死体ばかりがあった。
それも、『騎士団』兵士の死体が。
戦略不利を悟った『黒騎隊』は、戦線保持を放棄。
代わりに全戦力を一点――ヨハナと礼一少年のいる地点に集結させ、まずこれの護衛を処理。その後に集結しつつあった敵を分散してる内に各個撃破。
幸い、ヨハナの監禁地点から推定することにより、追跡には成功していたので、階段に追い詰めることができた。
それでも戦闘の初期に優勢だったのは『騎士団』の護衛チームだった。
彼らの持つコロンボ共和国製のトレンチガンは、その威力は言うまでもないが、引き金を引いたままポンプアクションを行うことで連射ができたために制圧力に優れていた。
しかし、唯一欠点があるとしたら、クリップでカートリッジが込められる小銃と違い、一発ずつ装填する必要のあるチューブマガジンであったため、装填時間が非常に長いことだろう――そして、そこを突かれたのだ。
マルセリア――機装巨人に乗れず、仕方なく白兵戦をしていた――は、階段の中腹にうずくまっている礼一少年を見つけると、自分が殺した兵士の死体を踏みつけながら近寄って、礼一少年の頭を蹴り飛ばし、彼の意識を奪った。
長かった戦いが、終わる。夜も、明ける。




