第八十五話 船出
遠くからくぐもった戦闘の音が聞こえ、近くでは魔導車のエンジンの音と車輪が小石を踏む音がしていた。
ふと視線を上げると、男が自分の向こう側にいるのが見えた。自分は上半身を抱き上げた誰かの首筋に銃剣を突きつけている。
しかし、男は近づいてくる。銃剣が撥ね除けられた。その軌道を追っていた目線の先には、拳。
目を閉じる。世界が見えなくなる。それを狙っていたかのように衝撃。地面が浮き上がり、体が放り投げられる。その勢いで幌を突き破って、空へ。
物体が投げ上げられたということはつまり、これから落下するということだった。
浮遊感と反比例する速度感の先には、やや不充分な草のクッション。それは拳よりも大らかであったが揺るぎなく鋭いもので――。
礼一少年は、そこで目を覚ました。体に不必要な力が加わっていたのだろう、その目覚めは節々の痛みを伴うものだった。息も上がっていた。汗が毛穴という毛穴から排出された。
それを手で拭おうとして、彼は自分の手足が拘束されていないことに気がついた。
その自身の変化への認知は、次に環境の変化への認知を誘った。そこで彼はようやく自分がもう魔導車に乗っていないと気づいたのだ。
今や彼がいたのは戦闘により所々が破けていた幌の中ではなく、無機質で、狭くて、変な臭いのする部屋の中だった。
窓がないから外の様子は伺えず、家具もベッドしかない――それすらも、壁に適当に取り付けてあるようなもので、つまり質がよいとはとても言えない代物だった。
礼一少年は弾かれるようにドアへ向かった。閉所に対する本能的な恐怖がそうさせた。それに、彼はヨハナを探さねばならなかった。その使命感もその背中を押した。
しかし、ドアまでたどり着いた彼は落胆した。そのノブはただ金属音を奏でるだけで何の効果ももたらさなかったからである。
そうして、彼が何度か無駄にドアを揺すると、その目線より少し上にあるスリットが外から開かれ、そこからギョロリとした目が彼を見た。
外に監視がいる――ならば何者なのかは、考えるまでもなかった。ルメンシスを襲撃したあの黒の一団だろう。よく見れば、黒い布が監視者の目の回りに張り付いていると分かった。
その目に気圧されるように、礼一少年が一歩、二歩と後退りすると、膝の裏にベッドの端が当たり、彼をその上に転ばせた。
礼一少年はふう、と一つため息を吐いた。その心中に諦めはまだ起こっていなかったが、現時点ではまだ行動を起こせないということは漠然と理解していた。
何より、彼には状況の整理が必要だった。
ここ数時間の戦いの経過は彼にとってあまりに複雑怪奇なものだったし、多勢に無勢である以上、これからも奇策で虚を突く以外に道は残されていないのだ。
兵法にもある――敵を知り、己を知れば百戦危うからず、と。
ならばまず、敵が何者か、ということを明らかにしなければならない――が、彼の頭脳はそれに関する一片の記憶を引き出していた。
『全く――戦争をやっている国に住んでいるくせに、攻め込んできた奴に「お前は誰だ」と聞いたのは、貴様が初めてだろうな』
冷静になってみれば、これほどの自白はなかったのだ。礼一少年は、そのときの自分があまりに状況に囚われていたことを恥じた。
あの男の言葉を借りれば、教訓にした。
それから、国境を隔てているのなら、と礼一少年は自分の状況にも目を配った。
貧相とはいえ、これだけの部屋を用意できるのだ、恐らく船舶か何かだろう。そう思うと僅かに魔導エンジンの唸る音も聞こえてきた。
しかし、神聖帝国――その響きはただの敵国としてのものではなかった。少なくとも、ヨハナにとっては、そうだっただろう。
そうなのだ。ヨハナは元々、神聖帝国の出身だったのだ。礼一少年はその事実を思い出して衝撃を受けた。何故このようなことも忘れていたのか!
戦いの最中、礼一少年は「ヨハナ」という単語に対しての偶然の反応から誘拐の本来の目的を探ることに成功したが――それが裏付けられた。
神聖帝国が、ヨハナ・フェーゲラインを誘拐したのだ。
と、すると、何故礼一少年自身もそのような目にあっている?
パッと思い浮かんだのは、ヨハナに対する人質という可能性だった。だがすぐにそれでは不自然だと彼は思った。
たとえ天地がひっくり返っても、ヨハナはただの人間である。教会関係者の一人でもあるにはあるが、それでも一信徒に過ぎない。
仮にこの関係を逆転させても――つまり、ヨハナが人質だったとしても、考えづらい。礼一少年はあくまで一人の機装巨人乗りであり、あの街には商会の私兵をはじめ、いくらでもいるものだった。
彼は結局、思考を投げ出した。国家規模の誘拐だという点と一個人という点との間に、どうしても推理において大いなる絶縁体が挟まっていた。
彼は思考と一緒に、体をもベッドに投げ出した。起きているということに苦痛を覚えるほど、彼は精神的にも肉体的にも極度に疲れていた。
そのため、寝息が部屋を満たすまでには数分とかからなかった。
「豪胆な奴だ、いや、それとも呑気なのか?」
黒い服の男は眠っている礼一少年をスリットから見ながらそう言った。しかし、それは礼一少年の見た見張りではない。何故ならそのトレードマークである覆面を被っていないからだ。
「は……自分には何とも」
その見張り本人は男の脇で直立不動の姿勢を崩さなかった。彼に向かって、男はスリットから覗いたまま、言葉を返す。
「車中じゃただの馬鹿かと思ったが、案外化けるかも知れんな――何か言っている様子はあったか?」
「我が国の名前を言っていたように思いますが……何分、このドアの厚さですので」
「なるほどな……それならこちらの正体にも気がついたわけだ」
「恐らくは」
見張りはそう答えると、自分が背にしている側の廊下から足音がしたのに気がついた。振り向くと、一人の水兵がこちらに来るのに気がついて、彼は大声で静止した。
「貴様、そこで止まれ! 海軍兵士はこの区画への立ち入りは禁止だ」
その大声を向けられた若い水兵はぴたりと静止し、規律正しい敬礼を二人に向けた。制服に着られているような背格好と風体からすると新兵らしい。
(しかし随分と若いな……あの男とそう変わらないのではないか?)
そう男は思いながら、返礼をした。それを見ると、海軍兵士は少し驚いたように目を見開いて、男を真っ直ぐに捉えた。
「ハートマン少尉! ……こちらにいらしてたのですね。ガランドル少佐がお呼びです」
ガランドル少佐というのは、男――ハートマンには面識のある人物であった。その理由は、一つはガランドルがハートマンの所属する連隊を率いる立場にいるからであったが、それ以外にもあった。
「少佐がいらっしゃるのか? …分かった、すぐに行く」
ハートマンは水兵へ改めて礼を言ってから、場所を聞き出して、そこへと艦内を上がっていった。




