第八十一話 敗北者のプレリュード
礼一少年の息が、止まる。
世界も、止まる。
部屋から出たすぐそこ、廊下にある死体のすぐ側で、彼女はそれを呆然と見つめた姿勢でただ立ち尽くしていた。
対する礼一少年もまた、混乱の極致にあって動くことができなかった。
どこかで響く大小様々な発砲音が、まるで季節はずれの蝉時雨のように聞こえた。それらをBGMに彼らだけが「そこ」にいる。世界は彼にとってそれほど遠くに感じられたのだ。
――何故?
何故、ヨハナ・フェーゲラインがここにいる?
礼一少年の思考はそう自らに問うた。彼女がここにいるのはおかしい。ついこの間まで酷いときは起き上がることすらできなかった彼女が、ましてやここに歩いてくるなど――!
彼は錯乱すらしていた。目まぐるしく変わる状況に対応しきれていなかった。
だからその前提が果たして正しいものなのかという、まず最初に確かめるべきことを考慮しなかった。
つまり、「彼女が立とうとしなかったのは、純粋に彼女の気分の問題だったのだ」と、彼は気づくことができなかった。
彼女は前回の経験から、礼一少年に頼るということを少なからず覚えていたのだ。彼にはその変化を読み取ることができなかった。
陰鬱としていたのは確かに事実だが、それは自ら動こうとしなかった医学的理由ではなかった――単純に体が不調であったからに過ぎなかった。
その体調にしても、流石にここ一週間も安静に生活していたのだから、少なからず回復はする。
実のところ、数日前時点で、本調子でこそないものの、もう立てる程度に彼女は回復していた。後は単純に用事があるかどうかの問題であったのだ。
そしてその用事はできた。
つまり、今朝である。
ヨハナもまた砲声――ただし、彼女にとっては聞き慣れない轟音でしかなかったが――を聞いて飛び起き、不安になり、いてもたってもいられず、孤児院で自分を除いて一番年上であった礼一少年を頼ろうと考えたのだった。
その結果が、これであった。
もちろん、礼一少年はそのような背景のあることなど知る由もない。
彼は、ただ、あってはならないことがあるはずのない状況下で起こったとしか感じていなかった。それに囚われた。
もっと言えば、心のどこかで、自分は被害者だとすら思っていたに違いない。不条理がその身に降りかかった人々の典型的な反応の一つである。
だから、礼一少年は状況に対して受け身にしかなれなかった。何が起こったのか分からなかったのだから、次に何が起こるか分からないという、非常に単純な論理的帰結である。
しかし不思議なことに、その条件はヨハナにおいても同じはずなのだが、この状況下で最も能動的であったのは彼女であった。
それはまるで、彼女が能動的にここに来なければ、礼一少年が受動的になることもなかったようで――そして、彼女の次の行動はまたも彼の態度を受動的にさせた。
「お父様……お父様!」
ヨハナはそう言うと突然、彼女が涙を流しながら黒服の男の亡骸にすがりついた。それから間髪入れずに、礼一少年など目に入っていないかのように声を上げて泣き始めた。
「お父……様?」
ヨハナの言葉を聞いた礼一少年は瞬間的に黒い十字架の幻覚を見た。背負いきることなどできないような重罪が重く背中にのしかかってしまったように思えた。
彼はそのせいか少しよろめいて、倒れかかった体を壁に手をつくことで支える。
それは礼一少年を思考の暗闇に再び突き落とすに足る力を持っていた。
ヨハナを守るべき自分が、偶然この家に押し入った彼女の父親を撃ち殺してしまった――かもしれないという響きはあまりに強烈であった。
しかし、結局、それはどこまで行っても幻覚でしかなかった。先ほどとは違う。今度は、明らかに矛盾があると分かったからだ。
彼女の父親については、既に礼一少年は彼女自身から聞いている。
そう――確か、ルメンシスに来た後、幼い彼女を遺して病死した、のだったか?
もちろん、当時は彼女の幼かったこともある、だから多少の記憶の混乱や取り違えはあるに違いないが、流石に肉親の死という大きな出来事を間違って覚えているはずがない。
今、礼一少年の思考のテーブルには、二枚のカードが乗せられていた。
一枚目にはヨハナの精神的問題、二枚目には彼女の供述と矛盾する言葉がそれぞれ記されている。
もちろん、この内の少なくとも一枚は誤りであるのだが――しかし、その過程はともかくとして、礼一少年の答えは、そう、答えだけは正しかった。
ヨハナは想定外の事態に錯乱している、というそれは。
状況を、言葉にするという点では、彼は間違っていなかった。
しかし、同時に彼はその言葉にした状況に圧倒されてしまった。彼はヨハナがこれほどまでに取り乱すところを見たことがなかったためだ。
怒ったところは見たことが一回だけある。子供たちを叱っているところは何度もある。
だが、今はどうだろう? それらは比較物として適切だろうか?
既に息絶えた黒服を激しく揺すり、言葉とも取れぬ言葉を大声で喚き散らしながら、過呼吸になる一歩手前で、しかも激しく咳き込む姿は?
それらの嘆きは時折言葉らしく響いても、幼児退行でも起こしたみたいに舌足らずで支離滅裂なセンテンスであったとしても?
次第に礼一少年は腰を抜かして座り込んでしまった。母親のお気に入りの花瓶を謝って割ってしまった子供がそうするように、自然と、彼はその姿勢になっていた。
「――何、だよ、これ」
そして、呆然と見上げる姿勢になった彼は、そこにこの世のものならざるものを見た。
ヨハナの背中から、巣をつつかれた蜂の群れが飛び出したかのように黒い何かが飛び出してうねっていたのだ。
それは歪でまるで悪魔の持つ翼のような形をしていた――その一点から、礼一少年はそれが自分だけに見える幻覚であると気づくことができた。
しかし彼はもう驚きもしなかった。そうするだけの心理的余裕すらなかったのだ。
「――なん、だよ……」
そして、その子供が叱られた後そうするように、頭と膝を抱えて、うずくまった。魔導拳銃が自然と手から滑り落ちる。
自由落下したそれが床と接する音は、不思議と一つではなかった――否、そうではない。
礼一少年には廊下の両端には複数の人影が、それも黒い人影が指の隙間から見えた。その手にはボルトアクション式小銃らしきものも持っているようだった。
「――何ッ、なんだよッ!」
そして、礼一少年は弾かれたように立ち上がった。それと同時に右手で魔導拳銃を握る。撃ちやすいのは廊下の右端から迫る一団だ。
彼はそれらに向かって引き金を、力任せに引いた――彼の手の中で暴力が跳ねる。それも何度も。
しかし、その必死の迎撃にもかかわらず、その亡霊めいた集団はなおも前進してくる。多少体勢をかがめこそすれ、進撃そのものを止めることはなかった。
「――何ッ……なんだよッ……」
そして、魔導拳銃は、悲しく空しい金属音を奏でる。それは絶望的な状況の織りなすアルペジオ。あるいは敗北者を宣言するカノン。
彼は悪足掻きのためにその耳障りな楽器を迫る右集団に投げつけて――先頭の男の屈強な腕に難なく弾かれた。
しかし、魔導拳銃の落下の軌跡を、礼一少年は目で追うことができなかった。その代わりに、彼は彼自身の体で追うことになった。
全く対応してこなかった左集団の先頭が、小銃の銃床で彼の頭部を殴りつけたからである。
「…………何、なんだよ……」
そして彼は、自らが殺した男のように、孤児院の埃っぽい床に倒れ込むことになった。




