エントリアへ
「おい、大丈夫か?」
彼女の肩に手を回し、上体を起こしてやる。小さく体を揺すると、彼女は静かに目を開けた。何があったか知らないが、命に別状はなさそうだ。俺はほっと胸を撫でおろす。
「あなた、誰……?」
「それはこっちが聞きたいところだが、その話は後だ。どこか安静にできる場所に……」
彼女を抱きかかえたままキョロキョロと周囲を見回していると、彼女は微かに震える手で森の奥を指さした。
「あの方向に私たちの……エントリアの拠点があります……そこなら……」
「よし、その案に乗ろう。……というより、俺も正しい道を知らないんだ、乗るしかあるまい」
俺は彼女を背中に負ぶって、暗い森の中を歩き始めた。彼女の手から零れた剣は奇妙にも橙色に光っており、それが照明代わりに役立った。彼女の攻撃で吹っ飛ばされた男は草むらの中で伸びたままだった。意識を取り戻されても厄介だ。早々にこの場所から立ち去らなくてはなるまい……。
剣が放つ光に頼りながら足早に森の中を進んでいくと、突然石材で舗装された道に出た。近くに立っている木製の案内板には、『エントリア国境線 まもなく』と矢印と共に書かれていた。
「この先にエントリアの国境がある。リーベルンとドンパチやっているときに、他国からの人間をすんなり受け入れてくれるとは思えんがね」
腰に収まったミーンが呟くように言った。俺は進行方向に広がる闇の中に目を凝らしながら、
「しかし、少なくとも彼女はエントリアの人間のようだ。彼女だけでもなんとかしよう。最悪警備の人とかに引き渡せば、まあ、悪いようにならないと思いたいが」
俺は気合を入れるために深呼吸を一つしてから、矢印が指す方角に向けて歩き出した。大変な重荷を背負っていながら、大して疲れを感じていない──便利な体になったものだ、と我ながら少し気味悪さすら覚えていた。
森を吹き抜ける風を感じながら暫く歩き続けていると、背後からガラガラという車輪の音が響いてきた。何か来る──警戒心に満ちていた俺は咄嗟に、近くの草むらの影に身を隠した。彼女を静か草の上に寝かせ、息を潜めて目を凝らす。
夜霧の中から姿を現したのは、自分の身長の倍くらいはあろうかという巨大な砲台だった。俺は兵器の類に明るくはないが、それが戦争に用いる道具であることはすぐに分かった。
黒光りしている砲台は、巨大な台車の上に乗せられて運ばれていた。そして、見るからに重量感のあるその台車を、軍服姿の女性がたった一人で引っ張っているのである。あまりにも異様な光景に、俺は危うく驚きの声を出しかけた。
「……まったく、人手不足だとは言え、こんな重い荷物まで私に運ばせるなんて……皆さん、私が拠点長であることを忘れているんでしょうか? 普通こんな雑用はヒラの隊員がやるべきで……ブツブツ……」
何やら独り言を呟きながら、その女兵士は台車を引っ張り続けていた。俺は呆気にとられてその様子を見つめていたが──誰かが俺の肩を弱弱しく叩いた。気が付くと少女が目を覚ましていて、台車の前の女性を指さしている。
「あの人は……仲間だから……」
「なに、そうなのか。それなら……どうしたらいい? 助けを頼むべきか?」
俺の問いかけに、彼女はコクリと頷いた。俺は彼女の肩に手を廻して立ち上がると、草の影から体を出した。葉擦れの音に気が付いたか、女兵士は台車の上のライトの光をこちらに向けた。まるでサーチライトに照らされた脱獄囚のように、俺と少女の姿が夜の中にはっきりと映し出された。
突然現れた俺たちを前に、女兵士は暫く目をパチパチさせて驚いていたが、
「あっ、あなたは……あなた様は、オスロー様!?」
と突然絶叫し、台車を放り出して駆け寄ってくる。
「……ああ、やはりオスロー様。一体、一体何が……?」
その女性は酷く取り乱した様子だったが、少女の方は案外落ち着いた様子で口を開く。
「事情は後で話します、トーチカ。とにかく今は、エントリアの方へお願い……」
「あっ、はい。しかし、どうしましょうか、どうしましょう……あ、そうだ! この荷車に乗ってください! 超高速で運びますよ!」
トーチカと呼ばれた女兵士は有無を言わせぬまま、俺たちを荷車の方へと引っ張っていった。それから、まるで子猫でも持ち上げるかの如く軽々と、俺と少女の体を荷車の空いたスペースへと引っ張り上げる。
「しっかり掴まっていてください!」
トーチカはそう言うと、巨大な砲台と俺たちを乗せた荷車を、凄まじい速さで引っ張り始めた。車輪が擦れる不愉快な音と前方からくる風圧に、俺は砲台の胴体にしがみ付いて怯えていた。
恐怖の旅はあっという間で、数分もしないうちに前方に明かりが見えてきた。トーチカは思い切り足を突っ張ってブレーキを掛け、ギイインという摩擦音が鼓膜を揺らした。段々と速度を下げていった荷車は、巨大な石の門の前ギリギリで静止した。
「……トーチカ様? 何をそんなに焦っておられるのです?」
門の前に立っていた警備兵と思しき男が、驚き顔のまま話しかけてきた。トーチカはゼイゼイと肩で呼吸をしながら、
「オスロー様です! 何があったのか分かりませんが、怪我をなさっています! 直ぐに医務施設にお連れするのです!」
と声を張り上げた。トーチカの声に応じてか、黒い鉄の扉はすぐさま開かれた。俺は荷車から少女を下ろし、再び彼女に肩を貸して歩き出した。
「医務施設はこちらです。私に付いてきてください!」
俺は何も考えずに頷いて、手招きするトーチカの後を追いかけた。こうして俺は、右も左も分からない混乱状態の中で、その堅牢な門の内側──エントリアの地を踏んだのである。