出立
春。
気温が上がり、緑の命が芽吹く季節。
辺境に存在する名前の無い森でも、無数の木々が枝の先に緑の葉をつけ始めていた。
「ハァッ……ハァッ……大丈夫! 間に合う!」
そんな生命にあふれた自然の中を、一つの影が駆け抜けていく。
「馬車……まだいてよ!」
焦りを含んだ言葉を叫びながら、影は次の一歩で大きく跳躍した。
葉っぱの傘から飛び出し、ひと際背の高い樹木の枝に着地したのは、真新しい制服を身に纏った一人の少女。
少女は息を切らしながら遠くを見回し、必死に何かを探す素振りを見せる。
「…………あ! あった! まだ!」
数秒、けれど本人にとっては長く感じられたであろうことは、見つけた際の表情からは明らかだ。
だが、その顔はすぐに喜びから困り顔へと変化する。
彼女がいるのは未だ森の中。
それも、馬車が停まっている道まではかなりの距離がある。
――……いちいち獣と木を避けて進んでたら間に合わないな。
慌てることなく、冷静に。
少女は数歩後ずさると、姿勢を落として足に力を籠めた。
――なら……一直線に!!
「おっせえなー……」
馬車の近くで、持ち主である男はため息交じりに呟く。
依頼された場所で客を待つこと十数分。
森を見上げて退屈を紛らわすのも限界に近づいていた。
「(……あと五分。五分待って、誰も来なかったら寝よう。遅刻したのはアッチだ。文句は言われねえだろう)」
そんな男の元へ、どこからか少女のことが届く。
「……てー!」
「ん?」
男は声に反応して辺りを見回すが、声の主の姿は見えない。
けれど、声は徐々に近付いており、大きくなるにつれて徐々に焦りと恐怖を生み出していく。
「下がってー!!」
「……下がって?」
ようやくはっきりと聞こえた言葉は、何もない道中では即座には飲み込めないもの。
その意味を男が理解できたのは、探しものを見つけたのと同時だった。
「…………は?」
空。
空から少女が飛んでくる。
ふわふわとロマンチックにではなく、剛速球で。
あと数秒で、自分は潰されて死ぬのだろう。
そう確信した男の視線の先で、少女は手に持っていた枝を前へと投げる。
「爆ぜろッ!」
言葉と同時に一瞬の光が生まれ、続いて爆風が吹き抜ける。
驚きと同時に男が目を閉じ、その後に来るであろう痛みに身構える。
「………………?」
だが、痛みは一向にやってこなかった。
恐る恐る開いた瞼の先に映ったのは、舞い上がった砂煙が晴れていく光景。
そして、その中に立つ少女の姿。
「……は? え、いや…………え?」
「ごめんなさい! 遅れました! 馬車が来るって知らされたの今朝、ていうかついさっきで…………あの? この馬車……私用のですよね?」
「あ、ああ。この森から出てくる女の子を運べって……」
「良かった! 運転、よろしくお願いします!」
少女は何事もなかったかのように馬へと近寄り、一撫でしてから荷台へと向かう。
男は未だ起きた出来事を飲み込めずにいたが、仕事仲間である馬のひと鳴きによって我へと返った。
「わ、分かってるって、相棒! 俺たちは乗せるのが何であろうと、ただ運ぶだけ、だよな!」
「……おー。見えてきた!」
馬車から顔を出し、その先に見えた景色に少女はワクワクをにじませる声で呟く。
何度も休憩を繰り返しながら進んだ馬車は、長い時間の果てに一つの街へとたどり着いた。
「あれが、私の通う”学校”がある街!」
瞳を輝かせ、興奮収まらない様子で顔を荷台の中へと戻した少女は、唯一の荷物であるバッグを漁り出す。
そして、その中から折りたたまれた一つの紙切れを取り出した。
「馬車に乗るためにじっくり読めなかったけど、たぶん、これから私がするべきことが書いてある筈。……たぶん」
――いや、どうだろう。師匠のことだから、今日みたいに当日いきなりって可能性も……。
緊張と共に紙に書いてある文字を読み進めていくと、その終盤で緑の瞳がピタリと動きを止める。
『五つの異界を攻略しろ』
文章はその一文で終わっており、しばらくフリーズしていた少女は、首を傾げて一つの言葉を漏らした。
「”いかい”って……何?」