[23]
早朝の鍛錬を終えて回廊を歩く。そろそろ7時になるが外はまだ真っ暗だ。
『ロニー、父上にお会いしたい。時間の調整をしてもらえるかな』
「かしこまりました」
決めたからには早く動く。時間をかける必要は全くない。
『30分-10分でも構わない。2人きりでお話ししたいと伝えてほしい』
「出来るだけ早く整うよう調整いたします」
『ありがとう』
自室に戻り汗を落とす。浴室を出るとロニーがテーブルの上に朝食を並べているところだった。椅子に座り牛乳を一気に飲み干す。それからサンドイッチに手を伸ばした。いつもの朝の光景だ。
「明日の夕方、お時間をお取りいただけることになりました」
いつの間に打ち合わせてきたのだろう?つい先程頼んだばかりだというのに。
優秀な従者はもしかすると身体が2つあるのかもしれない。
『そうか、父上の執務室へ伺えばいいかな?』
「いえ、私室へお越しになるようにとのことでした」
『わかった、ありがとう』
窓の外を見る。ようやく昇り始めた朝日が柔らかな光を散らしている。もうすぐ教師がやってくる時間だ。今朝はメルトルッカ語の授業からだったな。
15歳から通うことになる学園で必須となっている外国語は、陸続きの隣国であるベーレング国の言葉だ。ベーレング語はベンヤミンたちと共に授業を受けている。それ以外に今私が学んでいる言語は2つ。1つは母上の母国語パルード語で、もう1つが今から授業の始まるメルトルッカ語だ。
メルトルッカ出身のレノーイは〈随分と若い時分にふらーっと〉この国へやってきたのだそうだ。身拵えに興味がないらしく、ややくたびれた上着を羽織り、肩より長い白髪をボサボサのまま下ろしている。
白髪だからと言って高齢というわけでもないのがややこしいよな。年齢不肖な見た目から、30にも80にも見えるところが恐ろしい。何年か前に姪が結婚したと言っていたので、それなりに歳は重ねているとは思うけれど、流石に80は言いすぎだと思う。
レノーイはメルトルッカの文化や歴史にも造詣が深く、彼の授業は言語の習得だけには納まらず、さながらメルトルッカの総合授業となりつつある。見知らぬ土地の尽きぬ話。大好きな授業の1つだ。
今日がレノーイの授業でよかった。授業の間は絶えずメルトルッカ語で会話を交わす。余計なことを考えなくて済むから助かった。
〈おはようございます、殿下〉
《おはよう、レノーイ》
扉を開けた瞬間から交わす言葉はメルトルッカ語だ。レノーイはニコニコと楽しそうに歩きながら話始める。
〈ますます寒くなってきましたな。この老骨にステファンマルクの冬は厳しゅうございますよ〉
《おや?ほんの数ヶ月前、夏のステファンマルクはまるで天国ですな。ひとたび味わってしまうと二度とこの国から離れられませぬ。と言っていたのは誰だったかな?》
〈む、ジジイの心と秋の空。と言うことわざが私の故郷にはありましてな〉
《ほう、移ろいやすきは乙女の心だと習ったはずだが、ご老人にも当てはまるとは知らなかった。早速ノートに記録しておかねばならないな》
はっはっはっ、と豪快に笑いながらレノーイは椅子に掛けた。
〈いやいや参りました。殿下もメルトルッカ語がご堪能になられましたな。冗談まで言えるようになるとは〉
《全てレノーイのおかげだよ、いつも感謝している。今日はどんな話を?》
〈そうですな、気候の話が出たことですし、農業の話しをいたしましょうか〉
レノーイとの授業で決まった教材というものはない。最初からなかったわけではないのだけれど、いつしかこうした自由度の高く密度の濃い時間へと移り変わっていた。
〈メルトルッカが温暖な気候だということは以前お話しいたしましたね。王妃殿下のお生まれになったパルードも緯度はほぼ同じです。よって両国の農作物は大変似通っておるのですが、どんなものがあるかご存知ですか?〉
その手の質問は得意だ。私は自信を持って答えた。
《オレンジ、それとオリーブかな》
〈その通りでございます。あと何点か挙げるとするならば、トマトや葡萄も輸出量の多い作物でしょう〉
《葡萄か。メルトルッカのワインは有名だったね》
〈左様でございます
ではパルードではほぼ作付けされておらず、メルトルッカの主要輸出品目になっているものが1つあります。何だと思いますか?〉
パルードでは作られておらず、メルトルッカの主要品目。なんだろう?今、話に出た葡萄やトマトはパルードでも盛んに栽培されているし。
《うーん》
〈リーズィでございます〉
《りーじ、りーずぃ?》
聞きなれない単語だった。
〈はい、ステファンマルク語で言いますと'米'ですね〉
米か!今までこんな重要な単語すら知らなかったとは。
《米!メルトルッカは米が主食なの?》
〈はい 、小麦も栽培しておりますが、主食として人気なのは米ですね〉
知らなかった。全く知らなかった。この世界にも米が主食の国があるなんて今の今まで知らなかった。
《そうなんだ。米はどのようにして食べるの?》
〈おや、殿下は米食にご興味がおありに?〉
あるよ、めちゃくちゃある!と返したらレノーイのことだ、また面倒な話が始まるに違いない。ここはさらりと興味だけを示すのが得策だ。
《そうだね、詳しく知りたいな》
〈では続けて米の話しをしましょうか〉
メルトルッカは米の品種も多く、特性に合わせた様々な料理があるらしい。スープを吸わせて炊くものや、茹でてサラダに使うもの、また、1度粉にしてからヌードルや薄いシート状に加工したものもあるという。
《行ってみたいな》
〈良い国でございますよ。殿下のご訪問が叶う時には是が日にもお供させていただきます故〉
メルトルッカで生まれ育ったレノーイの申し出は嬉しいけれど。嬉しいけれどさ。
《うれしいけどねレノーイ、最後に国へ帰ったのはいつ?案内できるの?》
〈ぐぬぬ、またか弱い老人を甚振りなさって酷い御人じゃ〉
ヨヨと大袈裟によろけてみせるとレノーイは、涙をこぼさんばかりに迫真の演技で悲しんで見せた。
《こういう時ばかり老人ぶるのやめようよ 。レノーイ絶対若いよね?》
〈さあいくつでしたかなー殿下の5倍、いや10倍〉
《わかった、もう聞かない》
意外にもレノーイは秘密主義のようなのだ。まあ誰にでも詮索されたくない部分はあるんだと思う。私もこういう時のレノーイは追及しないことにしている。




