[100]
早朝の庭。まだ五時を回ったか回らないかと言う時間だが、太陽はすっかりと顔を出している。
とは言え、この時間に邸で動いているものは厨房を任されている料理人と、宿直の騎士くらいだろう。
静まり返った廊下を歩き、外に出る。庭へ向かうと、チリチリと鳴く鳥の声が聞こえてきた。
バードフィーダーには野鳥が朝食を求めて次々と集まってきていた。頭頂部の赤い鳥や黄色い鳥、スイーリが見たらとても喜びそうだ。鳥にはあまり詳しくはなく、名前はわからない。ベンヤミンなら知っていそうだな。後で聞いてみよう。
鳥を驚かせるのも気が引けたため、少し離れたところへ移動して剣を振る。夏であっても早朝は、長袖ですら肌寒く感じ空気もひんやりとしている。鍛錬にはうってつけの季節だ。賑やかすぎる小鳥のさえずりを聞きながら黙々と鍛錬を続けた。
どのくらい経っただろうか。邸の静けさから考えてまだ時間に余裕がありそうだ。
ベンチに腰掛け鳥を眺める。先程見た鳥たちは次の場所へと飛び立って行ったようで、今はシジュウカラの群れが食事中だ。その中に何羽か胸元のオレンジ色が鮮やかな鳥が混ざっている。この鳥の名前も後で聞こう。
慌ただしく過ごすことで、無意識のうちに避けていたことにもう一度向き合おうと思った。いや無意識などではない、忙しくすることで明らかに避けていたのだ。急にこの町へ来ようと思った理由のいくらかはそのせいなのだろうから。
何故前世の記憶がなくなってしまったのだろう。
考えたところで答えが出ないことはわかっている。でも無駄だとわかっていながらばっさりと切り捨てることが出来ない。
そもそも記憶とは、たった七年やそこらでここまですっぽりと抜け落ちてしまうものなのだろうか。いやそれより前の記憶は残っているのだ。この身体が体験した記憶が。その全てをあたかも私自身がその場にいたかのように覚えている。むしろ以前より鮮明になったほどだ。
思い出せ・・・
レオとして目覚めた日、窓の外に広がる雪景色に驚いた。何故驚いたんだろうな。雪を見たことがなかったのか?それとも雪など振るはずがないと思い込む理由があったのだろうか。
その前、前夜は何をしていた?
・・・
どれだけ考えてもわからないと言うことは、記憶に留める必要もないような何気ない一日だったという意味なのか、忘れ去りたいほど最悪な日だったのか。
剣術を習いたいと願い出たのもあの日だった。それ程急いでいたことにも理由がありそうだ。前世の私は騎士、若しくは傭兵でもしていたのだろうか。それとも早急に命を守る術を身につけたいと思った・・・無残に殺されでもしたのか・・・殺された記憶はないが、もう自分の記憶など当てにならないことはわかりきっている。
そしてレオの記憶を辿れば朝起きるのが苦手だったように思えるのだが、それは記憶違いなのだろうか・・・少なくとも九歳のあの日以降寝坊したことは一度もない。早朝の鍛錬が毎日待ち遠しくて堪らなかったのだ。はっきり言って朝起きることは苦でもなんでもない。ロニーに皮肉られる程度には。やはり記憶違いか・・・
他にあの日のことで憶えていることは・・・
勿論あれは忘れるはずがない。風呂の中で一度も出したことないほどの声で絶叫したのだ。使い慣れた浴槽で溺れかけたほどの衝撃・・・それは何だったのか。
何故だ?何故それを思い出せない?
絶叫するほど重大なことだったのだろう?それなのに忘れるのか?
自分の存在が根底から覆されるようだ。いつから憶えていないのだ、いつ忘れてしまったのだ、何故。
スイーリは三歳の頃前世の記憶が蘇ったと言っていた。きっと彼女は前の人生を終え、スイーリとして新たにこの世界で生を受けたのだろう。
私のは少し違う気がする。九歳以前の私は自分ではないのだ。それだけははっきり断言できる。
私は何故ここにいるのか。
ここにいてもよい存在なのだろうか・・・
この世界が排除しようとしているのはスイーリではなく私なのかもしれない。
だがこの世界に恐らくレオは必要な存在だ。
・・・まさか
過去の記憶を失ってしまったことと何か関係しているのだろうか。
私が多少なりとも歪めたこの世界を正しい形へ戻そうとしているのか。
いやそれも何か違う気がする。そもそも過去の記憶を消した程度で歪みが戻ることはない。私がこの世界の事実を知っている限り。
単なる記憶の風化・・・でもない と思う。
では何故・・・
今わかる事実は、私が生まれたのはこの世界ではないということ。私はこの世界の人間ではない。
どこで生まれた?何者だったのだ?
犯罪を犯していたのではあるまいか。重い罪のため元の世界にはいられな・・・いやそれも違うだろう。違うと思いたいだけかもしれないが、極悪人が王子になったとは思えない、思いたくない。
犯罪者を別の世界へ送り飛ばすような仕組みなどあってはならない。感情論で片付けてはならないとはわかっている。だが頼むからそうであってくれ。私は犯罪者ではない・・・
「レオ様」
「レオ様!いかがなされましたか!」
肩を揺さぶられて初めて気がついた。目の前でロニーが血相を変え何度も名を呼んでいる。
『ああ・・・少し前まで鍛錬していた』
「酷く震えておられるのがわかりますか?お顔も真っ青です」
本当だ。両手の震えが止まらない。膝もガクガクしている。
『大丈夫だ どこも悪くないよ』
「とてもそうは見えません」
『少し・・・考え事をしていただけだ この震えが収まったら部屋に戻る』
「直ぐに医師を呼びます」
『その必要はない どこも悪くない 信じろ』
「・・・わかりました
お部屋に湯の準備を済ませてあります お使いくださいませ」
『ありがとう 戻ったらすぐ入るよ』




