19話
「まったく、吠えたらダメだっていっているだろう」
そういって、兄ちゃんは近寄ってきた。ぼくの目の前にくると、視線を合わせるために腰を屈めた。そして、そのゴツゴツと豆だらけの手で、ぼくの頭を優しく撫でてくれた。
「くぅん」
……あ~、気持ちいいよぉ。
ぼくは目を細めて、兄ちゃんの手の感触に身を任せた。尻尾と耳がだらしなくだらんと垂れてしまう。でも、しょうがない。それくらい、三太兄ちゃんの撫で心地が良かったんだ。
「はぁ、タロはいいよね」
「わん?」
「いつも昼寝ばっかりしてさ。何もしなくてもご飯は出てくるし、散歩だって連れていってもらえるし。本当に幸せものだよね」
「わん」
……まぁね、とぼくは得意げに答えた。
昼寝は犬の特権だと思う。春の温かい日差しの下で、何も考えずに惰眠を貪ることは、この世で最も有意義な時間だと思う。どうして人は、そんなに忙しそうに生きているのか。ぼくにはちっとも理解できないよ。
でもね、ぼくにだって悩みはあるんだよ。大好きなマロンちゃんのことを考えると夜も眠れないし、三太兄ちゃんが家に帰らないと散歩に行けなくなってしまうかもしれない。
……だから兄ちゃん。お家に帰ってきて。
「くぅん」
ぼくは鼻で鳴くと、その身を兄ちゃんの体に寄せた。夜の風でも寒くならないように、ぴったりと体をくっつける。
「おいおい、タロ。これじゃ、俺が動けないだろう」
構うものか。このまま兄ちゃんと朝まで一緒にいるんだ。どこにもいかないように、ぼくがしっかりと捕まえておくんだ。
ぼくは腰を屈めたままの兄ちゃんの隣に座った。お尻がちょっと冷たいけど、そんなの全然気にならなかった。
「タロは甘えん坊だね」
三太兄ちゃんはいった。
それはどこか諦めたような声色だった。そのまま兄ちゃんも座り込むと、ぼくの体をぎゅっと抱きしめた。ほらね、ちっとも寒くない。
「ねぇ、タロ。おれの話を聞いてくれないか?」
ぼくは何も答えなかった。
兄ちゃんの話に耳を塞ぐ理由なんて、どこにもないんだから。
「おれ、好きな子がいるんだよ。何をしていても、彼女のことが頭から離れない。こんな気持ち、生まれて初めてなんだ」
「わん」
……うん、知っているよ。
「その子は、詩織って名前なんだけどさ。落ち着いた感じが、すごく可愛いんだよ。休み時間はいつも本を読んでいてさ、なんだか文学少女って感じでさ」
……うん。
「なんとなく気になったから、部活帰りに声をかけたんだ。図書委員をしていて、いつも遅くなるんだって。それから部活が終わった時は、いつも詩織と話すようになったんだ」
……うんうん。
ぼくは三太兄ちゃんが話す言葉のひとつひとつに頷いていく。前にも聞いた話も多かったけど、思いつめるように話す兄ちゃんを見ていると、口を挟むことができなかった。
「ある日に、詩織に聞いたんだ。どうしてこんなに遅くまで学校に残っているのか、って。そうしたら、あの子は笑いながら、家に帰っても誰もいないから、って答えたんだ」
三太兄ちゃんが辛そうに顔を歪める。
「詩織の家は、母子家庭なんだ。いつも母親が遅くまで働いているから、詩織は独りぼっちで留守番をしているんだって。そんな感じだから、仲の良い友達もいなくて、本ばっかり読むようになったって」
ぼくは静かに耳を傾ける。
「詩織は良い子なんだ。面倒なことも自分からやるし、困っている人がいたら助けようとする。自分だって、そんな余裕はなんてないのに。……おれのことだって」
突然、三太兄ちゃんが声を詰まらせた。
どうしたのか、と兄ちゃんの顔を見上げた。そして、その時の兄ちゃんの顔に、思わず言葉を失った。
三太兄ちゃんが、泣いていたのだ。
「……おれ、剣道部のレギュラーから落とされたんだ。あんなに頑張って練習していたのに、部活の試合で負けちゃってさ」
ぐずり、と兄ちゃんが鼻をすする。ぼろぼろと悔し涙を流しながら、わずかに肩を震わせている。
「練習だって、人一倍がんばったんだ。部活をサボったことなんて一度もない。おれには剣道しかないっていうのに。三年生なのに。……試合に、出られないんだ」
乱暴に袖口で涙をふく。
「なんでだよ。なんで、俺は勝てなかったんだよ! あんなに、あんなに練習したのに!」
「……わふ」
ぼくは黙って、兄ちゃんの顔から視線を外した。
男泣きしているんだ。
そんな顔、誰にも見られたくないはずだ。言葉はいらない。同情もいらない。男が泣くのであれば、黙ってそばにいてやればいい。それだけでいいんだ。




