16話
恋は盲目だ、とはよくいったものだ。
三太兄ちゃんの頭のなかは、あの子のことでいっぱいになっているらしい。朝のトレーニングも、ぼぅとすることが増えた。家に帰ってくる時間が、どんどん遅くなっていく。時々、ママさんにどこに行っているのか聞かれるらしいけど、あの様子では彼女のことはいっていないらしい。兄ちゃんたちも深くは追及していない。秘密を知っている健二兄ちゃんだけは、静かに微笑んでいる。
もちろん。ぼくもいっていない。なんたって、健二兄ちゃんとの男の約束をしたんだ。たとえ、おやつに大好きなビーフジャーキーを持ってきても、話すつもりはなかった。
えっ、一兄ちゃんに問われたらどうするかって?
そりゃ、もちろん。正直に全部話すにきまっているじゃないか。
とはいえ、ぼくが三太兄ちゃんの想い人のことを誰かに話すこともなく、その日は唐突にやってきた。そう、ママさんにバレたのだ。
買い物の帰り道だったらしい。たまたま違う道を通っていた時に、学校帰りの三太兄ちゃんを見かけたのだ。もちろん、例の詩織ちゃんも一緒に。
さて、ここで最もやってはいけないことはなんだと思う? ぼくのような年頃の男の子にはいわずともわかることだけど、なぜか世の中には理解できない人もいるみたいだから一応いっておくとするよ。それはね、面と向かって女の子のことを聞くことさ。
知られたくないことを母親から直接に問われることほど、男子のプライドが傷つくことはないんだ。だから、今の三太兄ちゃんみたいに自暴自棄になってもしょうがない。
「だから! 何でもないって、いってるじゃないか!」
榮倉家から、三太兄ちゃんの叫び声が聞こえてくる。
もう、二十分くらいになるかな。
恋しちゃってウキウキの兄ちゃんに、ママさんが帰ってくるなり聞いたらしい。まぁ、ママさんも。最近は帰りが遅くなっていて心配していたからしょうがないけど。とにかく、それからずっと、三太兄ちゃんとママさんの言い争いが続いている。
「何んでもないってことはないでしょ! 帰りが遅いと思ったら、女の子と喋ってるなんて!」
「それは関係ないじゃん!」
「関係あるでしょ! 私がどれだけ心配していたか、三太はわかっているの!」
ママさんは自分が心配性であることに気づいていない。
「それに、隣の奥さんから部活のことも聞いたわよ! 三太、レギュラーから落ちそうになっているんだって!?」
「うっ、それは」
「この間だって、竹刀を忘れていったよね! ちょっと集中力が足りないんじゃない! そんなことだからレギュラーから落ちそうになるのよ!」
さすが、ママさん。
人生を経験しているぶん、三太兄ちゃんが口で勝てる様子はない。
ぼくは小屋から顔だけ出して、二人の成り行きを見守っている。でも、いうほど心配はしていない。だって、いくら喧嘩しても三太兄ちゃんとママさんは家族なんだ。暖かい家の中で言い争いになったところで、風邪をひくわけでも、怪我をするわけでもない。三太兄ちゃんが家から飛び出さない限り、なんてことのない日常なんだ。
ふわぁ、とぼくは緊張感のないあくびを漏らす。
その時だ。
ぼくが予想もしていないことが起きた。
「もう、いいよ! 俺は家から出ていくからっ!」
ばんっ、と玄関が乱暴に開けられた。何事かとぼくが驚いていると、三太兄ちゃんが目の前を走り去っていった。
数秒ほどして、三太兄ちゃんが家から飛び出したことに気がついたのだ。
「……わ、わう!」
ぼくは慌てて小屋から出ると、三太兄ちゃんの走っていったほうを見る。だけど、もう兄ちゃんの姿を見ることはできなかった。
「わん、わんっ!」
三太兄ちゃん、帰ってきてよ!
ぼくは叫んだ。
だけど、兄ちゃんが帰ってくる様子はない。
「……くぅん」
どうしよう、どうしよう?
ぼくは小屋の前をぐるぐると回りながら考える。今すぐにでも、三太兄ちゃんの後を追いかけたい。だけど、この首輪のせいで追いかけることができない。あー、どうしたらいいんだろう。
ぼくは落ち着くことなんができず、小屋の前をぐるぐると回る。
その時、家の玄関がガチャリと開いた。
ぼくは慌てて、そちらへと振り向いた。そして、そこにいる人を見て、期待に胸が膨らんだ。
「やあ、タロ。どうしたんだい、そんなに吠えて?」
健二兄ちゃんだった。
やっぱり兄ちゃんも、三太兄ちゃんが心配だったんだね。よかった。この前みたいに、一緒に三太兄ちゃんを迎えにいこう。
「……わんっ!」
ぼくは尻尾を揺らしながら、準備運動を始める。両足を伸ばして、ぶるぶると全身を震わせた。
さぁ、行こうよ!
「タロ。そんなに尻尾を揺らしても、散歩には行かないよ。もう夜だしね」
……え。
健二兄ちゃんのいっていることが理解できなかった。
「う~、寒いな。春が来たとはいっても、夜はまだ冷えるね」
健二兄ちゃんはぼくの前に屈むと、いつものように優しく頭を撫でる。
だけど、ぼくの胸のなかは穏やかではなかった。
「わん、わんっ!」
……なんで三太兄ちゃんを探しにいかないんだよ!
ぼくは言葉が通じないことを知っていても、大声を出さずにはいられなかった。こんなに寒い夜に、三太兄ちゃんは独りなんだよ。ぼくたちは兄弟じゃない。なのに、どうして迎えにいってあげないんだよ!
「こらこら。そんなに怖い顔をして吠えちゃダメだよ」
ぼくが本気で怒っているのに、健二兄ちゃんはいつものように穏やかに笑っている。
もう、いてもたってもいられなかった。
ぼくは兄ちゃんの服を裾を咥えると、探しに行こうよ、というように引っ張った。前足に力を入れて、一生懸命に三太兄ちゃんが走っていったほうへと向かう。
だけど、健二兄ちゃんはその場から動こうとはしなかった。
「タロ。三太が心配なのかい?」
……そうだよ!
「そうだね。僕も心配だよ。でもね、これは三太が自分で解決しなくちゃいけないことなんだ。僕のいっている意味がわかるかい?」
……わからないよ!
……健二兄ちゃんがいっていることが、全然わからないよ!
「わんっ! わんっ!」
ぼくは健二兄ちゃんを引っ張るのをやめて、兄ちゃんへと視線を向けた。ぐるるっ、と威嚇するような声が口から漏れていた。
「さぁ、もう夜も遅いよ。タロも寝ないとね」
そういって、健二兄ちゃんは家のなかへと入っていった。
ぼくは寒空のなかに、ひとり残される。
……失望したよ。
……健二兄ちゃんなんて、大嫌いだ!




