駿府の戦い~死闘~
次郎三郎の危機を救った助っ人とは?
剣で勝る柳生衆を斬った男とは一体!?
「何奴!!」
荘田教高は次郎三郎の影より出てきた男に怒鳴りかける。
「俺は旅の浪人だよ。」
浪人を名乗る男は網笠をかぶり顔を隠していた、だがその太刀筋は確実に陰流の流れを組むものであり、それも相当の使い手である事を教高は即座に見抜いた。
「お主、なかなかの腕だが、顔を隠さずに戦えんのか?柳生新陰流に対し無礼であろう?」
教高が網笠の男に告げる。
「無礼とは、無辜の民をいたずらに傷つけ、城を焼く柳生新陰流の方ではないのかな?いやそれとも柳生宗矩殿の、と言った方が正しいかな?」
網笠の男は教高に返答した。
教高は師である宗矩を虚仮にされ、激昂する。
「者共、こやつは生かしてはおけぬ、柳生新陰流を虚仮にした報いはこやつの命で必ずや償わせるぞ!!」
その場に集った柳生衆の士気も上がる。
浪人は次郎三郎に向き合い
「大御所様、お約束通りこの者たちの後の始末は某が引き受け申す。」
次郎三郎は自分で助っ人として呼んでおきながら、と前置きし
「本当にいいのかね?」
と念を押すように聞く。
浪人は次郎三郎の顔を見て。
「この者たちは、愚かにも叔父・宗矩の功名心の為に利用された愚か者、弱き者を傷つけた罪は柳生の手で討ち果たさねばなりません。この者たちを私を信用し任せて下さった大御所様には感謝致しております。祖父・石舟斎も草葉の陰から見守っていてくれる事でしょう」
と涙を溜めながら次郎三郎に一礼し、教高達に向きなおる。
柳生衆はもはや無傷の者は10人程しか残っていなかった。
教高合わせて11名の手練れの柳生衆がたった一人の網笠の訳も分からぬ男に釘付けになっている事実を教高は認めたくは無かった。
「どうした?教高?かかってこぬのか?」
正体不明の浪人は構えすらとっていなかった。
「構えなくて良いのかな?」
教高は浪人に問う。
「あいにくこれが俺の構えでね。」
浪人の不敵な答えに教高は一人の若者を思い出す。
「いや、まさか、こんなところに若がおられる筈がない。」
それにこの浪人の正体が教高が予想する人物であれば、柳生衆10名の士気は格段に落ち、もはや戦いにはならないだろう。
そんな中、一人の柳生者が沈黙に耐え切れず、浪人に向かって走り出す。
教高は一瞬止めようとしたが、浪人の正体を知るいい機会だと、その柳生の男を捨て駒にした。
浪人の男はだらりと身を空気の流れに溶け込むように動いたかと思ったら、向かって行った柳生の男はいつの間にか斬り捨てられていた。
「三郎太、お前は相手を斬ろうとする刹那右足を内側に捻る癖があるとあれほど言ったではないか?」
男は斬られた柳生の男にそう声をかけ手を合わせていた。
教高と柳生衆は誰を相手にしているかこの時初めて理解した。
「若先生!?」
一人の柳生の男が浪人に声をかける。
浪人はその柳生の男に慈悲も無く答えた。
「この駿府には弱気民を傷つける柳生という恥知らずはおらぬ、わしも柳生ではないしそなたらももはや柳生ではない。ここを死地と心得よ。一人たりともここから生かして帰すつもりは無いゆえに覚悟致せ。」
若先生と呼ばれた男が凄まじいまでの殺気を放った。
若先生と呼ばれたこの男、実は柳生新陰流の正統後継者にして柳生利厳という男であった。
妻が島清興の娘である縁で次郎三郎と知己があったが、祖父・石舟斎が命を懸けて守った新陰流と柳生の里の者達を己の出世欲の為に叔父である宗矩が使い捨てているという話が、利厳にはどうしても信じられなかった。
此度の柳生征伐に助っ人をしたのもその事実を確かめる為であるとともに、もし清興の話が事実で、万が一にも柳生の剣が駿府に住む無辜の民に向いている様な事があったのなら、せめて同じ柳生としてこれを成敗し、また柳生衆も自分の手で黄泉路へと送ってやりたかったのだ。
利厳は、柳生石舟斎宗厳の孫で父は石舟斎の嫡男で柳生厳勝という男であった。
厳勝は若い頃より宗厳と共に戦場に赴き剣を振るっていたのだが、元亀2年(1571年)頃になると織田信長と足利義昭があからさまに対立し始め、義昭は各大名へ激を飛ばす。
これに呼応した大名衆が織田家の領地を囲むように包囲し、それぞれが織田家打倒に向け戦を始めた「第二次信長包囲網」と後に呼ばれるこの事件。
織田家に対峙する勢力の中で、頭一つ抜きん出た勢力は、その武威は最強、統率は一糸の乱れも無く、諜報においては透波という風魔にも負けない力を持った忍び集団を擁し、資金面においては甲州金山という潤沢な資金力があり、孫子の旗印を持つ戦国最強と謳われた「甲斐の虎・武田信玄」率いる武田軍であった。
さしもの信長も武田信玄と上杉謙信は敵に回すと厄介至極と考え、あの手この手で様々な外交努力を怠ることは無かった。
しかしこの度の足利義昭の要請に応える形となった武田の出兵は大きな波紋となって、様々な大名を織田家から離反させた。
その中で柳生家が関わったのは当時の大和の大名であった「松永弾正久秀」が織田家に謀反を起こし、すでに織田家に臣従していた筒井順慶を攻めた時に起きた事件であった。
この戦で柳生厳勝は大怪我を負い、下半身不随となってしまった。
柳生新陰流の嫡子である厳勝の負傷は柳生家にとって大きな痛手であった。
厳勝は己の長男を浅野幸長に仕えさせたが、慶長2年(1597年)に朝鮮で戦死した。
石舟斎は戦における息子や孫達の不運を目の当たりにして、世俗の争いに疲弊した石舟斎は宗矩が関ヶ原への参戦を強く訴えるもこれを退けたのだ。
石舟斎は厳勝の次男である利厳に剣の才を見出し、利厳を幼い内から膝の上に乗せ柳生新陰流の修行を施した、そして利厳を自分が納得する修行を全て修める迄、決して何処にも出さなかった。
しかし、慶長8年(1603年)に石舟斎の下を訪れた加藤清正から利厳の加藤家への仕官話が持ち上がり再三再四の要請があった。
石舟斎は利厳の短気な気性で城勤めが務まるかわからなかった為、返事を渋ったのだが、清正の粘り勝ちにて、利厳を熊本藩に仕官させた。
その時、石舟斎は利厳の気性をあらかじめ清正に伝え「利厳は殊の外、一徹の短慮者であります。たとえ、いかような事を仕出かしても、三度までは死罪をお許しいただきたい」と願い出て、清正もこれを承知した。
そして清正の元へ赴く利厳に石舟斎は「新陰流兵法目録事」と柳生新陰流の極意を示した「和歌二首」を授けて送り出したのだ。
結局、熊本藩では農民一揆鎮圧の際に加藤家の古参の臣と一揆鎮圧方法で議論で熱くなった利厳はこれを成敗し、己の力で一揆を収めた、しかし清正の古参の臣を斬った咎もあり一年経たずに加藤家を出奔したのであった。
そしてその後、利厳は旅の浪人生活を送っていた。
柳生宗矩は利厳が持つ「新陰流兵法目録事」と「和歌二首」を狙っていた為、密かに柳生の者に利厳の捜索をさせていたのだが、それがまさか駿府に居るとは柳生衆の誰もが想像すらしていなかった。
「若先生!なぜ我らに剣を向けるのですか!!」
柳生衆の悲痛の叫びであった。
「俺は一介の浪人であり、若先生などではない。」
柳生衆の必死の叫びも届かない事を知った教高は気合いを入れなおし二人掛かりで利厳を斬る事を指示する。
柳生衆はもはや覚悟を決め利厳と対峙する。
「最初の相手は太郎左衛門と兵部か、おぬしらは悪い癖は治ったのか?」
利厳が悲しそうな眼をして声をかける。
「太郎左参る!」
太郎左と名乗った柳生が利厳の左足を狙う。
「太郎左!狙った所を凝視する癖が直っておらぬぞ!!」
と言いながら利厳が紙一重にこれを避け左手に握った小太刀で後頭部から首を抜け一突きに刺し殺す。
その隙を狙って兵部が「左肩!頂戴いたす!!」と叫び左肩に向けて突きを放つ。
「兵部!真剣勝負を嘗めておるのか!これから狙う場所を叫んで如何いたす!これは命のやり取り!道場の稽古ではないぞ!!」
と激昂して左肩を後方にそらし右手で抜いた太刀にて抜刀術で首をはねた。
残り7名の柳生衆はもはや恐慌状態と言っても過言ではなかった。
その中にあり務めて冷静を装っていたのが教高であった。
教高はもはや生きては帰れないと悟り、「一人が一人確実に一か所を仕留めよ」と柳生衆に「死ね」と命を下した。
利厳は「これが叔父上の作り上げる柳生の未来か」と呟き、一気に敵に向かい駆けだした。
慌てた柳生衆の誰か一人を斬ればまた足並みが乱れると読んだ利厳はその中で教高の次に腕が立つ一郎太に目をつけた。
「一郎太、不憫ではあるが、恨むならば叔父上を恨め。」
一郎太がその言葉を聞いた時には腹は真一文字に切り裂かれ、腹部から腸と血がダラダラと流れ出し膝から崩れたところを首が刎ねられた。
そのまま利厳は一人ずつ名を呼びながら柳生の衆を斬り続けて涙も血によってわからない程返り血を浴びていた。
いつしか、駿府には雨が降っていた。
雨に濡れる中、いつの間にか柳生の衆は教高たった一人になっていた。
利厳は教高に質問する。
「言い残す事はあるか?」
教高は利厳に言った。
「柳生の里にいる家族には立派に任務を果たしたとお伝え下さればそれで心残りはござりませぬ。」
利厳はつくづく宗矩のやり方に腹が立った。
「あいわかった。俺自ら伝えよう。」
教高は「ありがたき幸せ」と答え、刀を構える。
それに対し、利厳は納刀したままの無行の位で立っていた。
「構えないので?」
教高は利厳に聞く。
「お前には柳生新陰流の奥義をもって黄泉路へと送らん」
と利厳は答えた。
新陰流の奥義。
教高はつばを飲む。
「おおおおぉぉぉぉぉぉぉ!!!」
自分を鼓舞し、八相の構えを取った教高はそのまま利厳との距離を縮め、上段切りを放つ。
利厳の頭に刃がふれると思った次の瞬間何故か自分は刀を持たずに斬り捨てられていた。
「な・・・ぜ・・・」
教高の最期の言葉であった。
利厳は「わからない故に奥義なのだよ」と小さく呟き、うつむき涙した。
今回殺害に及んだ柳生の者はそもそも利厳と家族同然に過ごしてきた里の者達である。
秀忠や天海にとてはただの数字かもしれないが、利厳にとっては家族の顔を知り、親の面倒も見てもらった恩人もいた。
全て宗矩の功名心の為に使い捨てられたのなら許される事では無い。
柳生を継ぐ者として止めなければ。
胸に固く誓うのであった。
こうして柳生80名は全員、駿府にて討ち取られた。
死体は利厳の願いもあり駿府の人里離れた場所に埋葬された。
利厳は左近の勧めもあり駿府に暫く逗留しないか?と誘われたが、とてもそんな気になれず、また浪々の旅に出た。
次郎三郎は利厳の背中を見て、本当に申し訳ない事をしたと感じたのである。
ここまで読んでいただき誠にありがとうございます。
誤字脱字等ありましたらご指摘頂ければ幸いです。
これからも『闇に咲く「徳川葵」』をよろしくお願いします。




