忍びの価値
それぞれの陣営が抱える忍び集団。
彼らは天下が定まろうとしている今もまだ闇の中で戦い続けている。
「愛洲斬陽か、上総(忠輝の事)殿もなかなか良い家臣をお持ちの様だ。」
次郎三郎が感心したように言う。
「愛洲の嫡流ならば、新陰流如きにそうそう簡単に暗殺される心配はござりますまい。移香斎殿が諸国を武者修行として行脚していた際に某の仕えた筒井家にも立ち寄ったとの事、順慶殿の御父君である順昭殿がそれはもう日ノ本に移香斎に比肩する者無しとまで評されたと申します。」
移香斎は剣術だけではなく、武という武に才があった。
すなわち、弓術、柔術、槍術などである。
彼は己の武を高める事に対しての行動力はそれは凄まじいものがあった。
当時、朝鮮出兵などはまだ行われておらず、まだ交流があった大陸に渡り、大陸の武術すら修め、これを己の中で更に新たな武術として昇華させる程の修行を重ねたのである。
彼の移香斎というのは法名であり、本名は愛洲久忠と名であった。
久忠は晩年を日向国(現在の宮崎県辺り)で過ごした。
愛洲の武は出自である伊勢愛洲家の久忠の息子・宗通伝わり、斬陽はその宗通の息子に当たるのであった。
斬陽という名は実は隠し名であり、本名は久陽というのだったが、愛洲の名に「久」の偏諱をそのまま語ると剣客の武者修行の相手が大勢やってきてどうも面倒であったので、どうせなら誰も大して使わない「斬」という字が「格好いい」という何とも適当な理由で斬陽と言う名を名乗っていたのだ。
「しかし陰流の創始者が上総殿に付いているとは宗矩も天海も想像するまいて、小太郎殿、恐らく心配はないであろうが上総にも念のため風魔衆を付けて下され」
小太郎が「承知」と言い風魔に指示を出す。
風魔衆は、三人一組で基本行動をするという、己の技を磨き情報の無駄な漏洩を防ぐために単独で行動する他の忍びからすれば比べ珍しい体系の集団であった。
風魔衆はこの体系を天・地・人の布陣と呼んでいた。
様々な情報を入手したり、任務に成功しても、万が一敵方に見つかった場合は「人」の人間が命を捨て敵の足止めをし、「地」の人間が天の人間が何処へ去ったか判らぬ様に工作し、「天」の人間は確実に主の下に情報を持って帰るという三位一体の布陣である。
いま風魔衆が要注意対象として監視をしているのが「南光坊天海」「徳川秀忠」「柳生宗矩」の三名であり、ここには手練れの忍びが常時3交代9人掛かりで放たれてあった。
次に監視兼護衛の対象として家康次男「結城秀康」家康四男「松平忠吉」の二名であった。
これには2交代制で一人に付き6人掛かりで監視警護をしていた。
そして今回加わったのが「松平忠輝」なのである。
忠輝には3名の監視警護が付いた。
これは小太郎と次郎三郎と左近で相談し黒脛巾組と愛洲斬陽の実力を知った上で最低限遠方から眺める程度に抑えようという考えであった。
見つかれば即座に「大御所の使い」である証拠と名乗りを上げて良いとも伝えてあった。
そして次郎三郎が一番心配したのが豊臣秀頼であった。
大坂城は天下無双の堅城とは言え、一度賊の侵入を許していた。
賊の名は「石川五右衛門」と言い、元は伊賀の忍びである。
伊賀は一度天正9年に織田勢によって大規模な侵略が行われていた。
すなわち首謀者は羽柴秀吉である。
秀吉が伊賀忍びが伊勢に進軍する準備をしていると風説を流したのだ。
これに反応したのは北畠信雄であった。
北畠信雄は、伊勢の名門北畠家に養子に出された信長の次男であり、父信長に認められようと焦るあまり、信長の許しも無いままに元・伊賀の忍びでもあった柘植家の案内で伊賀に侵攻する。
伊賀の反抗は想像を絶するものであった。
元々ゲリラ戦が得意な忍び衆に戦下手の信雄が敵う筈もなく、圧倒的優位にありながらいくさに惨敗したのだ。
これに烈火の如く怒ったのは信長であった。
何より信雄の無能に信長は怒った。
「何故伊賀を攻めた?放っておけばそのうち孤立し向こうから和睦を結んできたものを」
とこの時信長は信雄の無能を散々に言ったという。
これを長男である信忠がなだめ、事なきを得たのだが、信長は伊賀に対して降伏を許すとの書状を使者に持たせる。
しかし勝ち戦に驕った伊賀者は使者を残忍に殺害し、安土城に送り返したのだ。
信長は致し方なく総勢5万以上の軍勢で9千にも満たない伊賀を攻めたのだ。
織田家の戦は至極簡単である。
近づく敵を鉄砲で討つ。
ゲリラ戦に持ち込まれないように様々な入口という入口に兵を配し、疑わしいものをすべて斬った。
忍びは女もくノ一として働く故、禍根を残さないようにすべて根切にしたのである。
当時より五右衛門は忍びとして達者の域にあった。
伊賀の乱を生き延びた忍びの内の一人であった五右衛門は信長憎しの一念で修行を積み、己の技術を研鑽し、いよいよ信長に復讐を果たそうと決心が付いた時、奇しくも「本能寺の変」が起きたのである。
五右衛門は生きる希望をなくした。
信長憎しの一念で生きて来たようなものであった己の信念を根底から覆された気持ちになったのだ。
その後、他に生き残った伊賀の仲間から秀吉に仕えないか?と誘われたが、それも断り隠遁生活をしていた。
そんな五右衛門を奮い立たせる出来事が起こる。
その話を持ってきたのは徳川家康の側近・本多正信に仕える元伊賀の忍びであった。
天正に起こった伊賀の乱の真の黒幕は秀吉らしいというのだ。
秀吉があらぬ風聞を信雄に吹き込み信雄が伊賀に攻め入った。
秀吉は無能な信雄が伊賀に勝てるはずもないとわかっており、また信長に全面降伏を出すように他の家臣も丸め込み、驕れる伊賀は使者を面白半分で殺害に及び、その非礼に怒れる信長に伊賀を滅ぼさせ、生き残った伊賀忍を自分の家来にするいわば「人間蠱毒の法」で自分の忍びを選別したというのだ。
五右衛門はその話を聞き怒った。
「ならば自分が秀吉の下に行き確かめる」
と言い、大坂城へと向かうのだ。
一方、秀吉方に雇われていた伊賀忍は五右衛門の動きを即座に察知し、上役であった京都所司代・前田玄以に報告する。
玄以は即座に五右衛門の捕縛を命じ、伊賀忍は五右衛門捕縛の為に動き出す。
五右衛門は大坂城の秀吉の寝所迄誰にも気づかれず易々と忍び込み、傍にあった千鳥の香炉を秀吉に投げつけ、天正に起こった伊賀の乱の子細を聞く。
もはや老人の秀吉一人殺害したとて天下の趨勢は一人の忍びにどうする事も出来ないと最初から分かっていた五右衛門は秀吉を気絶させ大坂城の屋根の上に上り
「おぉ!絶景かなぁ!!」
などとわざと見回りの衆に聴こえる様に大きな声で叫び、追跡していた伊賀忍をまんまとおびき寄せ、自分の影武者を仕立て上げたのだ。
その後、影武者に仕立て上げられた伊賀忍は前田玄以にも見捨てられ、釜茹での刑に処された。
本物の五右衛門はその後名を変え、今も天下をさまよって居るという。
五右衛門という名であるが男か女か誰もその性別を知らないと言われている。
秀吉は大坂に忍びの侵入を許したという失敗を生かし、急ごしらえの忍び返しを大坂城に設置するが、もともと小田原城という巨大城郭で忍び働きをしていた風魔にとって大坂城の忍び返しは赤子の玩具の様なものであった。
惜しむらくは豊臣家に囲っていた忍びが使えないという事であった。
甲賀忍びは「藤堂高虎」が使い、伊賀忍びの生き残りの殆どは「本多正信」が、風魔は今や「次郎三郎」が使い、木曽忍びは「御所」に仕え、黒脛巾は伊達家に仕え、軒猿衆は上杉家、そうなると次郎三郎の目の上のたんこぶは、秀忠が囲う忍びの世界では新参者の「柳生忍び」だけなのである。
豊臣家にはその昔、雑賀孫一との縁もあり、わずかな雑賀衆が付き従うだけで専門の忍び集団が仕えている訳では無かった。
しかし雑賀衆も元々は傭兵稼業。
とてもではないが忍びというには程遠いものがあった。
大坂城には4組12名の風魔が常に目を光らせていた。
次郎三郎はそれだけ大坂で柳生が秀頼を暗殺する事を恐れていたのだ。
「駿府の落成を急がせねばなるまいな。」
次郎三郎は駿府の工事の手を早める様に指示を出す。
この指示が致命的な弱点を生むとは誰も知る由は無かった。
裏の警備を任されている、風魔小太郎も城の普請を一手に引き受ける左近も駿府の城は天下要害になると自信をもって設計しただけに落成するまで駿府の弱点に気付かなかったのだ。
次郎三郎たちが自分たちが引いた図面に気付かない欠点に、いち早く気付いたのが天海であった。
天海は柳生天台衆を密かに駿府に派遣し、物見をさせ、図面を引かせていたのだ。
天海はさすが、奇襲にて信長に悟られず、また気付かれずに本能寺で討ち果たした男である。
図面を見るなり駿府の弱点を見つけにやりと笑った。
その後、天海は天台宗よりくノ一を6人集め、飯炊きや風呂の世話、礼法や文学の修行を施す。
天海は彼女たちを駿府城内部に侵入させるつもりであった。
しかし、彼女らの身分は恐らく次郎三郎と風魔が厳しく詮議するであろう。
天海が一番困ったのが、彼女たちの身元の保証をする人物であった。
そこに天海が白羽の矢を立てたのが山科言経という公家であった。
言経の父は山科言継といい、その昔、織田信長が足利義昭を擁して京に上った際、義昭に対する将軍宣下の使者を務めた。
その後、義昭は室町幕府14代将軍・足利義栄の将軍宣下を画策した責任者の処罰を朝廷に要請した際に言継は「将軍宣下をした自分が1番の責任者である」と言い自ら自宅謹慎をした。
その潔い態度や義昭からの将軍宣下の使者要請にも臆せず応じた気概を大いに気に入られ、言継は不問とされ、その後は織田家の京都所司代を任された村井貞勝に朝廷の儀礼等を教授した。
その際に明智光秀とは顔を合わせ、義昭警護の為に在京している間、昵懇の仲となり、息子の言経とも何度も顔を合わせていた。
「山科殿に後ろ盾を頼むとしよう。」
天海はそう呟き書状を書く。
駿府城だけではなく、大名家で働くとなると、しかるべき立場の人間からの推挙を無くして働くことはまず出来なかった。
地方の10万石未満の大名家ならば町娘や村娘から奉公に上がる事はあったかもしれないが、徳川家は今や天下の将軍家。
並大抵の後ろ盾では相手にもされない。
その上、将軍家や天台宗の人間は次郎三郎に目をつけられている。
ここは信長の家臣時代に築いた人間関係を使うのが上策と天海は考えたのだ。
「まさか、山科がわしと繋がっているとは夢にも思うまい。あとは駿府が出来るのを待つばかりじゃな。」
次郎三郎にとって駿府は江戸の秀忠から自分たちを守るための城。
秀忠にとっては駿府落成は次郎三郎との戦の合図。
こうしている間にも駿府城は一日一日完成に近づくのであった。
ここまで読んでいただき誠にありがとうございます。
誤字脱字等ありましたらご指摘頂ければ幸いです。
これからも『闇に咲く「徳川葵」』をよろしくお願いします。




