第1話 売れ残りが一つもない国には、笑顔も一つもなかった
前書き
「売れ残りしかない魔王城を、異世界最強の百貨店にする」
そんな無茶な挑戦から始まった物語は、ついに次の舞台へ進みます。
今回、直人たちが向かうのは、“売れ残りが一つもない帝国”。
一見すると、完璧な国です。
商品は余らない。
無駄もない。
誰も買い物に迷わない。
でも、その国には大きな問題がありました。
人々が、自分で「欲しいもの」を選べなくなっていたのです。
効率よく。
失敗なく。
無駄なく。
すべてが最適化された世界では、買い物すら「正解」を選ばされるようになっていました。
前作で直人が作ったのは、商品を売るだけの百貨店ではありません。
「どれにしよう」と迷う時間。
誰かのために贈り物を選ぶ時間。
必要ではないけれど、なぜか欲しくなるもの。
そんな、人が自分で選ぶ楽しさを守る場所でした。
だから今回、直人は再び問いかけます。
「売れ残りがゼロなら、本当に幸せなのか?」
リリスとの距離も少しずつ変わり、仲間たちとの日常や笑いもありながら、物語はやがて帝国そのものを揺るがす戦いへ進んでいきます。
剣や魔法だけでは変えられない世界を、
売り場と接客と「選ぶ自由」で変えていく。
『転生バイヤー、魔王城百貨店をはじめますⅡ』
売れ残りゼロの帝国で、「選ぶ自由」を取り戻した話。
前作より少し大きく、少し切なく、そしてもっと賑やかな物語を、ぜひ最後まで楽しんでください。
東の大陸から届いた、一枚の出店依頼
魔王城百貨店の開店ベルが鳴る少し前。
俺、高城直人は、総店長室の机に積み上がった書類の山と戦っていた。
戦況は、あまりよくない。
左には仕入れ申請書。
右には出店計画書。
正面には、魔王ヴァルディスから届いた「玉座の間に温泉まんじゅう売り場を作れないか」という要望書。
そして、そのすべての上にガルドの提出した始末書が載っている。
題名は、
《接客中にお客様を威圧してしまった件》
本文は一行だけだった。
《威圧したつもりはない。客が勝手に震えた》
反省の気配が、春の雪より薄い。
「書き直しだな」
俺は始末書を脇へ除けた。
その瞬間、机の向こうから白い手が伸び、紙を拾い上げる。
「店長。ガルドに文章を書き直させるより、笑顔を教えるほうが難しいと思いますよ」
銀髪の女性魔族、リリスが紙を眺めながら笑った。
魔王軍四天王の一人。
今では魔王城百貨店の衣料品・生活雑貨部門を任せている。
人の表情や流行の変化を読む力は、俺よりもはるかに優れている。
もっとも、本人にそれを言うと三日ほど機嫌がよくなり、売り場の装飾費が増えるので、めったに口にはしない。
「せめて『申し訳ありませんでした』くらい書かせる」
「ガルドの辞書に、その言葉は載っているでしょうか」
「武器名の間に挟んで覚えさせる」
「『申し訳ありませんでした・改』とか?」
「謝罪を武器っぽくするな」
リリスは小さく笑い、机の上へ黒い封筒を置いた。
その瞬間、俺の視線は封蝋へ吸い寄せられた。
黄金の歯車を囲む、翼を広げた双頭の鳥。
見覚えのない紋章だった。
「どこからだ?」
「東の大陸です」
「東方諸国から?」
「正確には、東方統制帝国ノルンから」
リリスの声から、いつもの軽さが消えた。
東方統制帝国ノルン。
世界最大の人口と領土を持ちながら、他国との商取引をほとんど行わない閉鎖国家。
食料不足も貧民街も存在しない。
犯罪率は低く、物価の変動もない。
その一方で、旅人が持ち込んだ品物は厳しく検査され、無許可の商売は重罪になる。
商人にとっては、地図に描かれた巨大な空白だ。
俺は封を切った。
中に入っていたのは、一枚の出店依頼書だった。
文章は短い。
魔王城百貨店総店長、高城直人殿。
東方統制帝国ノルンへの出店を要請します。 我が国には、売れ残りも品切れもございません。
国民は必要な物を、必要な時に受け取ることができます。 しかし、誰も笑わなくなりました。 どうか、この国へ「店」を作ってください。 東方統制帝国第二皇女
ミレイア・ノルン
俺は最後まで読み、もう一度、最初から読み直した。
売れ残りがない。
品切れもない。
百貨店で働いてきた人間なら、一度は夢見る言葉だ。
売れ残りは利益を圧迫する。
食品なら廃棄につながり、衣料品なら保管場所を奪い、薬なら必要な人へ届かないまま期限を迎える。
売れ残りをなくすため、俺は何年も数字とにらみ合ってきた。
天候。
客数。
季節。
価格。
前年実績。
周辺店舗の動向。
答えが出ない夜も多かった。
それでも最後は、担当者が責任を持って仕入れを決める。
予測を外せば叱られた。
大量に余らせれば、売り場の仲間へ頭を下げた。
だから、売れ残りゼロという言葉には、甘い響きがある。
けれど。
この手紙を読んで、俺の胸に浮かんだのは羨望ではなかった。
違和感だった。
「誰も笑わない……」
「妙でしょう?」
リリスが窓辺に寄りかかる。
「物が足りているなら、人は幸せになれる。店長は以前、そう言っていましたよね」
「必要な物が届けば、少なくとも苦しむ人は減る」
「でも、この国では笑顔まで減っている」
「問題は、何が届いているかじゃないのかもしれない」
「では?」
「誰が選んでいるかだ」
俺は出店依頼書を机へ置いた。
その下から、魔王の温泉まんじゅう要望書が半分だけ顔を出している。
世界の大問題と、魔王の甘味欲が同じ机に同居していた。
百貨店という場所は、だいたいいつもこんなものだ。
「行くんですね」
リリスが尋ねる。
「ああ」
「やはり」
「止めないのか?」
「止めて、店長が止まったことがありましたか?」
「市場調査だ。危険なことはしない」
「店長がそう言う時は」
リリスは出店依頼書を指先で軽くたたいた。
「だいたい国の仕組みが一つ壊れます」
「壊しているんじゃない。改善している」
「壊された側も、たいてい同じ言い訳をします」
彼女の口元は笑っていた。
だが、紫色の瞳には、わずかな不安が浮かんでいる。
俺はそれに気づきながら、何も言わなかった。
言葉にすれば、その不安へ責任を負わなければならない気がしたからだ。
その時の俺はまだ、商品を選ぶことと、人を選ぶことが、どれほど似ているのか知らなかった。
海が俺に酔っている
出発は三日後に決まった。
魔導商船《カリヨン号》。
魔石を動力に空と海の両方を進める、魔王城百貨店の大型輸送船だ。
積み荷は、視察用の商品と非常用の食料。
同行者は、俺、リリス、ガルド、バルグ、ゼファー。
魔王ヴァルディスは留守番である。
本人は同行を希望したが、王が他国へ行くだけで侵略と誤解される可能性があるため却下した。
代わりに、魔王からは木箱いっぱいの菓子が届いた。
箱には、
《外交用》
と書かれていた。
中身の半分には、
《魔王用。勝手に食べるな》
と札が貼ってある。
留守番なのに、自分用の菓子を積む意味が分からない。
「陛下は遠隔映像で参加するつもりらしい」
ゼファーが言った。
「菓子だけ先に旅行させるな」
俺が答えた、その直後。
甲板の端から、低いうめき声が聞こえた。
ガルドが手すりへ両手をつき、青い顔で海をにらんでいる。
「大丈夫か?」
「問題ない」
「顔色が死体より悪いぞ」
「俺は酔っていない」
ガルドは荒れる海を見下ろした。
「海が俺に酔っている」
「海に謝れ」
「なぜだ」
「今まで聞いた船酔いの言い訳で、一番失礼だからだ」
「船酔いではない!」
船が大きく揺れる。
ガルドの顔色が、青から緑へ変わった。
「これは戦場なら負傷扱いだぞ」
「戦場じゃない。医務室へ行け」
「四天王が船ごときに屈するか!」
「海へ向かって吐きながら言う台詞じゃない」
ガルドを医務室へ運んだ後、俺は食堂へ向かった。
そこでは、巨人族のバルグが航海用のパンを焼いていた。
彼は食品部門と品質管理を担当している。
無口だが、食材を見る目は確かだ。
ただし、保存性を重視しすぎる傾向がある。
テーブルの上には、茶色いパンが並んでいた。
見た目は普通だ。
「試作品か?」
「ああ」
バルグが一つ差し出す。
受け取った瞬間、腕が下がった。
重い。
パンというより、小型の石材だった。
「ずいぶん密度が高いな」
「三か月もつ」
「味は?」
「三か月変わらない」
「おいしいとは言っていないな」
俺は試しにパンをテーブルへ置いた。
ごつん、と鈍い音がする。
テーブルの表面がへこんだ。
パンは無傷だった。
「今、甲板を傷つけなかったか?」
「保存性を追求した結果だ」
「追求する方向を間違えてる!」
バルグは少し考えた後、真顔で言った。
「武器にもなる」
「食料品が武器へ転職するな」
「保存パンだ」
「何から保存してるんだ。空腹か?」
そこへ、両手いっぱいに紙袋を抱えたゼファーが入ってきた。
情報収集と交渉を担当する青年魔族である。
仕事は速い。
商売の機会を見つける速度は、もっと速い。
「店長、いい知らせと悪い知らせがある」
「先に悪い知らせを聞こう」
「魔王様から預かった東方視察用の予算を使い切った」
「まだ出港して半日だぞ!」
「いい知らせは?」
「船内販売の売上が過去最高になった」
「視察予算で商品を仕入れて、同行者へ売ったのか?」
「需要があったからな」
「自分たちの財布から予算を回収しているだけだ!」
ゼファーは胸を張った。
「これぞ循環型経済」
「違う。身内でお金を回しているだけだ」
「経済は回ることが大事だろ?」
「お前の首まで回したくなる前に、帳簿を出せ」
「帳簿はリリスに渡した」
「なぜ?」
「店長の機嫌が悪い時は、リリスを間に挟むと生存率が上がる」
学習能力だけは高い。
「店長」
背後から声をかけられた。
振り返った俺は、言葉を失った。
リリスが、黒と深緑を基調にした礼装を抱えて立っている。
「着替えてください」
「今の服では駄目か?」
「東方統制帝国へ正式に入国するのですよ」
彼女は俺の着古した上着をつまんだ。
「倉庫番の格好では困ります」
「俺は元々、売り場より倉庫にいる時間のほうが長かった」
「それを誇らないでください」
「これでも洗ってある」
「清潔と外交は別問題です」
半ば強制的に船室へ押し込まれた。
リリスは俺へ礼装を渡すと、背を向ける。
「自分で着られますか?」
「四十二歳を何だと思ってる」
「昨日、左右の違う靴下を履いていた四十二歳です」
「暗かったんだ」
「片方は赤、片方は青でした」
「売り場の色分け確認をしていた」
「朝食の席で?」
言い逃れが崩れていく。
俺は礼装へ袖を通した。
だが、背中の留め具へ手が届かない。
「リリス」
「何でしょう」
「これは、どう留めるんだ?」
「やはり」
彼女がこちらへ近づいた。
背中へ細い指が触れる。
留め具を整えるため、自然と距離が近くなった。
銀色の髪が肩へ落ち、ほのかに甘い香りがした。
いつもの売り場では気づかないほど、柔らかな香り。
俺は急に、自分の手をどこへ置けばいいのか分からなくなった。
「動かないでください」
「動いてない」
「肩が固いですよ」
「慣れない服だからだ」
「本当に、それだけですか?」
「ほかに何がある」
「さあ」
背中の留め具が閉じる。
振り向いた瞬間、リリスの手と俺の手が触れた。
ほんの一瞬。
それだけだった。
けれど、なぜか離すタイミングを失った。
彼女も何も言わない。
船の外で波の音がする。
遠くから、ガルドが「海め、卑怯だぞ」と叫んでいる。
非常に雰囲気が悪い。
「……終わりました」
先に手を離したのはリリスだった。
何事もなかったように衣装の襟を整える。
「似合っていますよ、店長」
「そうか」
「少なくとも、倉庫番には見えません」
「褒め方が弱いな」
「百貨店の店長には見えます」
彼女は微笑み、部屋から出ていった。
扉が閉まる直前。
銀髪の間から見えた耳が、赤く染まっていた。
俺はしばらく、その扉を見つめていた。
「……暑いのか?」
船室はむしろ寒かった。
欲しいと言わない子どもたち
三日後。
魔導商船は東方統制帝国の港へ入った。
甲板から見えた街は、息をのむほど美しかった。
白い建物。
広い道路。
等間隔に植えられた街路樹。
塵一つ落ちていない歩道。
物乞いも、路上で眠る人もいない。
すべての建物が同じ高さに揃い、看板は一枚も掲げられていなかった。
美しい。
だが、人の暮らす街というより、巨大な模型に見えた。
「市場はどこだ?」
ガルドが尋ねる。
船酔いから回復した彼は、陸へ降りた途端に元気を取り戻していた。
「港町なら、普通は魚市場があるはずだ」
ゼファーが周囲を見回す。
「露店も、酒場の呼び込みもない。値切り交渉の声すら聞こえない」
「静かすぎる」
リリスがつぶやいた。
街には多くの人がいる。
全員が灰色か薄い青色の服を着ていた。
服の形も、ほとんど同じ。
人々は決められた方向へ歩き、決められた建物へ入り、同じ大きさの箱を受け取っている。
笑い声はない。
怒鳴り声もない。
立ち話すら聞こえない。
「整然としているな」
ガルドが言う。
「軍隊の行進みたいだ」
「あれは配給所だ」
俺は箱を受け取る人々を見た。
入口に掲げられた記号。
衣服。
食料。
生活用品。
文字が読めない者でも分かるよう、絵で分類されている。
魔王城百貨店で俺たちが導入した売り場案内と、よく似ていた。
矢印の形まで同じだ。
「店長?」
リリスが俺の視線を追う。
「あの案内記号、うちのものに似ていませんか?」
「似ているな」
「偶然でしょうか」
「分からない」
俺は配給所へ近づいた。
係員が箱を渡し、住民が受け取る。
中身を確認する者はいない。
「何が入っているんですか?」
俺が一人の男性へ尋ねると、男性は驚いたように立ち止まった。
「今週分の生活物資です」
「中身は?」
「必要な物です」
「具体的には?」
男性は困った顔をした。
「開ければ分かります」
「欲しい物が入っているか、確認しないんですか?」
「欲しい物?」
本当に意味が分からないらしい。
「必要な物は、帝国が決めてくださいます」
男性は箱を抱え直した。
「間違いがなくて、安心です」
そう言って去っていく。
歩き方は規則正しい。
表情には不満もない。
ただ、喜びもなかった。
俺たちは街の中心部へ向かった。
途中、子どもたちとすれ違う。
誰も菓子をねだらない。
玩具を欲しがる者もいない。
そもそも、菓子屋も玩具屋も存在しない。
「変ですね」
バルグが珍しく自分から口を開いた。
「何がだ?」
「子どもが、食べ物を見ない」
彼は食品売り場の責任者だ。
どれほど静かな子どもでも、甘い匂いがすれば振り返る。
色鮮やかな菓子を見れば、目が動く。
それは種族が違っても変わらない。
けれど、この国の子どもたちは、俺たちの荷物を見ようともしなかった。
見ないよう、教えられているようだった。
その時。
小さな女の子が、母親に手を引かれて近づいてきた。
五歳ほどだろうか。
灰色のワンピース。
髪には何も飾られていない。
少女は最初、地面を見ていた。
だが、リリスとすれ違う直前、その目が動いた。
リリスの荷物から、赤いリボンがのぞいている。
出店準備用の商品見本だ。
少女は足を止めた。
母親が二歩進んでから、娘がついてきていないことに気づく。
「どうしたの?」
少女は赤いリボンを見つめていた。
まばたきもせず。
まるで、世界で初めて色を見つけたように。
「それ……」
少女の唇が動く。
「きれい」
その瞬間、母親の顔から血の気が引いた。
「いけません!」
少女の口を手で塞ぎ、強く抱き寄せる。
「欲しがってはいけません!」
少女の目が大きく見開かれた。
リリスの表情が変わる。
彼女はゆっくりとしゃがみ、少女と同じ高さへ目線を合わせた。
「これは赤いリボンよ」
優しい声だった。
売り場で泣いている子どもへ話しかける時と同じ声。
「髪に結ぶと、きっと似合うわ」
リリスがリボンを取り出す。
母親が一歩下がった。
「受け取れません」
「贈り物です」
「未承認物品です」
「ただの布ですよ」
「違います」
母親の声が震えた。
「娘が、自分で欲しがった物です」
その言葉に、胸をつかまれた。
商品に問題があるのではない。
欲しがったことが問題なのだ。
リリスが少女へリボンを差し出そうとした、その時。
石畳を打つ重い足音が響いた。
機械の駆動音。
街角から、黒い鎧をまとった兵士たちが現れる。
人間ではない。
魔導機械で作られた帝国兵。
兜の奥で、赤い光が灯っている。
《秩序騎兵》。
先頭の一体が、無機質な声を発した。
「未承認物品の譲渡行為を確認」
リリスの手から、赤いリボンを奪おうとする。
彼女は手を引かなかった。
「この程度の贈り物が、罪になるのですか?」
「個人の判断による物品選択は、社会秩序を乱す」
「選ぶだけで?」
「選択は格差を生む」
「それで、欲しいと思うことまで禁じたの?」
「感情は、配給計画の対象外である」
リリスの笑顔が消えた。
彼女の指先から、細い魔糸が伸びる。
「店長」
「分かってる」
俺は周囲を見回した。
秩序騎兵は六体。
少女と母親の背後には住民がいる。
道路の左に配給用の荷車。
右に小麦粉を積んだ箱。
正面には、狭い路地。
正面から戦えば、住民を巻き込む。
「ガルド、剣は抜くな」
「なぜだ!」
「ここは街中だ。相手を壊しても、人を傷つけるな」
「難しい注文だな」
「店長の仕事は、難しい注文をすることだ」
「覚えておけ。いつか値上げするぞ」
「給料の交渉は帰ってからだ!」
商品を渡しただけで、罪になる国
秩序騎兵が一斉に動いた。
先頭の一体がリリスへ腕を伸ばす。
「未承認物品を没収する」
「お断りします」
リリスの魔糸が騎兵の関節へ巻きついた。
細い糸が鋼鉄へ食い込み、腕の動きを止める。
「店長、今です!」
「ガルド、左の荷車を倒せ!」
「任せろ!」
ガルドが荷車の側面へ肩をぶつけた。
荷車が横倒しになり、道路の半分を塞ぐ。
秩序騎兵の進路が狭まった。
「バルグ、小麦粉を!」
バルグが袋を持ち上げる。
一袋で人間二人分ほどの大きさがある。
「食材を粗末にするな」
「今だけ許す!」
「後で買い取れ」
「経費で落とす!」
袋が破られ、白い粉が道路へ舞った。
秩序騎兵の赤い視覚器官が点滅する。
「視界不良」
「対象認識率低下」
小麦粉の粒子が、魔導視覚を妨害した。
「ゼファー、住民を路地へ誘導しろ!」
「任せろ!」
ゼファーが両手を広げる。
「皆さん、こちらへ! 本日限定、安全な避難路です! 今なら無料!」
「避難に料金を取るな!」
「宣伝文句だ!」
住民たちは怯えて動けない。
命令を待っているのだ。
自分で逃げる方向を決めることすら、慣れていない。
俺は声を張り上げた。
「右の路地へ逃げてください!」
それでも動かない。
「これはお願いではありません!」
言ってから、一瞬迷った。
命令しなければ動けない人々へ、また命令をするのか。
この国と同じではないのか。
だが、今は命を守る必要がある。
「自分と、隣の人を守るために動いてください!」
一人の老人が顔を上げた。
次に、母親が少女の手を引く。
二人が路地へ走り出すと、ほかの住民も続いた。
「動きました!」
ゼファーが叫ぶ。
「あとは誘導を頼む!」
俺は秩序騎兵へ向き直った。
ガルドが一体の腕を受け止めている。
「剣を抜かずに戦うのは面倒だ!」
「商品を傷つけない接客と同じだ!」
「こいつは客じゃない!」
「敵ではなく、お客様だと思え!」
「この鉄塊に何を売る!」
「反省だ!」
「売れそうにないぞ!」
ガルドが騎兵を投げ飛ばす。
別の一体が背後から迫った。
バルグが俺の前へ出る。
手には、あの航海用の硬いパンが握られていた。
「使うぞ」
「何に?」
「保存食だ」
「その持ち方は武器だ!」
バルグがパンを投げた。
茶色い塊が空を切る。
秩序騎兵の胸部へ直撃。
金属音とともに装甲がへこみ、騎兵が後方へ吹き飛んだ。
パンは地面へ落ちる。
無傷だった。
「パンは食べ物じゃなかったのか!」
「保存性を追求した結果だ」
「追求する方向を間違えてる!」
「役に立った」
「今回はな!」
最後の一体が、赤いリボンを持つリリスへ飛びかかる。
リリスは魔糸を伸ばしたが、先ほどの騎兵を縛ったままだ。
一瞬、動きが遅れた。
「リリス!」
俺は反射的に彼女の前へ出た。
戦えるわけではない。
剣も魔法も使えない。
それでも、体が動いた。
鋼鉄の腕が振り下ろされる。
「店長!」
リリスの魔糸が俺の腰へ巻きつき、体を引き寄せた。
騎兵の拳が石畳を砕く。
俺はそのままリリスの腕の中へ倒れ込んだ。
顔が近い。
紫色の瞳が、怒りと恐怖で揺れている。
「何をしているんですか!」
「君を守ろうと……」
「店長に守られるほど、私は弱くありません!」
「知ってる」
「でしたら、後ろにいてください!」
「それも難しい」
「どうしてですか!」
答えられなかった。
総店長だから。
仲間だから。
大切な店長だから。
理由はいくつも浮かんだ。
そのどれも、今の感情を正確には説明できない。
「話は後だ!」
ガルドの声で我に返る。
リリスが俺を後方へ投げるように押し出した。
「後で、必ず説教します」
「営業時間外にしてくれ」
「延長料金をいただきます」
魔糸が閃く。
秩序騎兵の両足が縛られ、地面へ倒れた。
ガルドが装甲を押さえ込み、ゼファーが背中の制御魔石を抜く。
最後に残った一体が、赤いリボンへ手を伸ばした。
少女がそれを見ている。
欲しいと言っただけで、母親に口を塞がれた少女。
その目の前で、リボンが罪の証拠として奪われようとしている。
俺は地面へ落ちた木箱を見た。
配給用の商品箱。
大きさは騎兵の足元へぴったり収まる。
「ガルド、右へ押せ!」
ガルドが騎兵の肩へ体当たりする。
「バルグ、箱を滑らせろ!」
バルグが木箱を蹴り出す。
騎兵の足が箱へ乗った。
体勢が崩れる。
「リリス!」
「はい!」
魔糸が騎兵の両腕を縛る。
ガルドが背後から押し倒し、バルグが硬いパンを胸へ置いた。
「重しだ」
「パンに重しという役割まで増やすな」
秩序騎兵の赤い光が消えた。
戦闘は終わった。
住民に負傷者はいない。
少女も、母親も無事だ。
けれど、誰も喜ばなかった。
遠くから、こちらを見ているだけ。
助けてもらったという表情ですらない。
また規則から外れてしまった。
そんな恐怖だけが、顔に浮かんでいた。
リリスが少女へ近づいた。
赤いリボンを差し出す。
「今度こそ、受け取って」
少女は手を伸ばしかけた。
だが、母親がその手を抱き込む。
「申し訳ありません」
母親は深く頭を下げた。
「受け取ることはできません」
「でも、この子は欲しがっています」
「だからこそ、受け取れないのです」
母親は少女を連れ、足早に去っていった。
少女は何度も振り返る。
赤いリボンを見つめながら。
最後まで手を伸ばせないまま、人混みの中へ消えた。
リリスの指先で、リボンが風に揺れる。
「店長」
彼女の声は小さかった。
「私たち、間違えたのでしょうか」
「何を?」
「欲しいと思わせたことを」
俺は答えられなかった。
物を欲しがることは、悪いことではない。
そう信じている。
けれど、選択したことで罰せられる世界では、欲しいという感情そのものが人を危険にさらす。
正しさだけでは、人を守れないことがある。
日本にいた頃にも、似たことがあった。
「お客様のためです」
そう言いながら、本当に客の声を聞いていただろうか。
売れる商品を揃えることばかり考え、選ばれなかった商品を失敗と呼んでいなかったか。
効率を優先し、迷う時間を無駄だと切り捨てていなかったか。
この国は極端だ。
けれど、その入口に、自分も立ったことがある気がした。
「商品がないんじゃない」
俺は少女が消えた方向を見た。
「欲しいと言えないんだ」
リリスが赤いリボンを握りしめる。
「では、私たちは何を売ればいいのでしょう」
「まだ分からない」
俺は正直に答えた。
「でも、少なくとも商品だけじゃない」
俺たちがこの国へ届けなければならないもの。
それは、パンでも服でも薬でもない。
自分で欲しいと言っても、誰かに罰せられない安心。
迷ってもいいと思える時間。
選び直せる場所。
百貨店は、そのために作れるかもしれない。
誰か一人の頭の中
帝国兵による事情聴取は、意外なほど早く終わった。
俺たちは外国からの正式な使節であり、第二皇女の招待客でもある。
そのため拘束はされなかった。
代わりに、持ち込んだ商品はすべて記録された。
係員が赤いリボンへ札を貼る。
札には細い黒線が並んでいた。
俺はそれを見て、息を止めた。
「これは……」
日本式のバーコードに似ている。
異世界の文字ではない。
太さの異なる線。
下部に並ぶ数字。
読み方は分からない。
それでも、見慣れた仕組みだった。
「どうしました?」
リリスが尋ねる。
「これを、どこで使っているんだ?」
俺は係員へ尋ねた。
「中央演算魔導具が、物品を識別するために使用しております」
「誰が作った?」
「帝国物流管理局です」
「設計者は?」
係員の動きが、一瞬だけ止まった。
俺の胸元に差した万年筆を見ている。
日本で初めて大きな契約を取った時、記念に買った物だ。
黒い軸。
銀色の金具。
異世界へ来た時も、なぜか手元に残っていた。
係員の目に、明らかな動揺が浮かんだ。
だが、すぐに無表情へ戻る。
「設計者に関する情報は開示されておりません」
「今、この万年筆を見ただろ」
「確認作業は終了しました」
係員はそれ以上答えなかった。
俺たちは帝国が用意した迎賓館へ向かった。
街のあちこちに、魔王城百貨店と似た案内表示がある。
矢印。
分類番号。
通路の色分け。
配給所の入口配置。
まるで、誰かが日本の小売店や物流倉庫を参考に設計したようだった。
夕暮れ。
迎賓館の窓から街を見下ろしながら、リリスがつぶやいた。
「この街、誰か一人の頭の中みたいですね」
「一人の頭の中?」
「はい。すべてが同じ考え方で作られている」
彼女は配給所へ並ぶ人々を見つめた。
「道も、服も、商品も、人の歩き方まで」
「無駄がない」
「だから怖いんです」
リリスがこちらを見る。
「人間は、こんなにきれいに揃う生き物ではありません」
ガルドなら命令より先に剣を抜く。
ゼファーなら制度の隙間で商売を始める。
バルグは食品を武器へ進化させる。
リリスは接客研修の予算を装飾費へ移す。
そして俺は、出店予定のなかった場所へ店を作る。
確かに、揃わない。
だからこそ、魔王城百貨店は騒がしく、失敗が多く、時々とんでもない事件を起こす。
それでも、売り場には笑い声がある。
「店長」
「何だ」
「先ほどは、ありがとうございました」
「何のことだ?」
「私の前に出たことです」
「考える前に体が動いただけだ」
「次からは考えてください」
「善処する」
「信用できません」
リリスはそう言いながら、少しだけ頬を緩めた。
「ですが……嫌ではありませんでした」
「何が?」
彼女は窓の外へ視線を戻す。
「もう知りません」
それ以上は聞けなかった。
聞けば、売り場とは別の扉を開けてしまう気がした。
そして、その扉の向こうに何があるのか、まだ俺には選ぶ勇気がなかった。
その時。
街中に低い鐘の音が響いた。
一度。
二度。
三度。
窓の外で、建物の壁に埋め込まれていた魔導映像板が一斉に光る。
通りを歩いていた人々が、同時に立ち止まった。
全員が同じ角度で顔を上げる。
映像板に、一人の男が映し出された。
黒いスーツ。
白髪交じりの髪。
銀縁の眼鏡。
年齢は六十歳前後だろう。
異世界の貴族服ではない。
日本のビジネスマンそのものだった。
俺の手から、万年筆が落ちた。
床に当たり、乾いた音を立てる。
映像の男が微笑む。
そして、日本語で言った。
『ようこそ、後輩バイヤー君』
リリスたちには意味が分からない。
だが、俺には一語残らず理解できた。
『君が魔王城で作った物流網は、実に素晴らしい』
「誰だ……」
男は俺の問いに答えず、ゆっくりと眼鏡を押し上げた。
『だから今日から、その物流網をこの国がすべて買い取ろう』
「断る」
反射的に答えていた。
男は楽しそうに目を細める。
『そう答えると思っていたよ、高城直人君』
背筋が凍った。
俺の名前を知っている。
それだけではない。
次に男が口にした言葉は、この異世界で誰も知るはずのないものだった。
俺が日本で二十年近く勤めていた、あの地方百貨店の正式名称。
忘れるはずがない。
忘れられるはずもない。
『覚えているかね?』
男の笑みが深くなる。
『私はそこで、君より先に売れ残りをゼロにした男だ』
映像が切り替わる。
帝国中央にそびえる白い塔。
その周囲に表示されたのは、見慣れた在庫管理表だった。
日本語で書かれた、発注数、販売数、廃棄数。
そして最下段。
赤い文字で、一つの項目が点滅していた。
《自由選択による損失》
数値。
ゼロ。
『高城君』
男は静かに告げた。
『君は商品を選ばせて、人を幸せにしたつもりなのだろう』
街の人々が、同じ顔で映像を見上げている。
笑う者はいない。
泣く者もいない。
誰も、自分の意志で目をそらそうとしない。
『だが、選択こそが不幸を生む』
男が右手を上げる。
帝都中の配給所が、一斉に閉鎖された。
金属製の扉が地面を揺らす。
『三日後、君の目の前で証明しよう』
『完璧な品揃えほど、お客様を不幸にするということを』
映像が暗転する直前。
男の背後に、一枚の古い社員証が映った。
俺と同じ百貨店の紋章。
そして、その下に刻まれた日本人の名前。
黒瀬征司。
日本で、「売れ残りをなくした男」と呼ばれた伝説の物流責任者。
二十年以上前、突然失踪した人物。
その男が今。
売れ残りゼロの帝国の中心で、俺を待っていた。
第1話・完
次回
第2話
完璧な品揃えほど、お客様を不幸にする
飢えと買い占めによって、大切なものを失った黒瀬征司。
「客に選ばせるから、奪い合いが起きる」
「必要な物は、国が決めればいい」
彼の思想へ反論するため、直人たちは三日間だけ実験店舗を開く。
並べる商品は、わずか三種類。
しかし、最初のお客様が口にしたのは、あまりにも悲しい質問だった。
「どれを選べば、処罰されませんか?」




