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元社畜は慎重さと準備を武器に、搾取する幼馴染や家族を切り捨て、ダンジョンで自立した平穏を勝ち取る  作者: 日富美信吾
第9部

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第98話:奪われた手札と、現場での証明


 スタンピード発生後の翌朝。


 探索者協会のロビーに足を踏み入れれば、ざわめきと怒号が入り交じり、空間全体が酷くささくれ立っていた。


 私は足を止め、視線を巡らせる。


 ダンジョンへと続く準備広場の手前に、臨時のバリケードが築かれていた。


 その前には何人もの協会職員が立ち、ゲートへ向かおうとする探索者たちを一人ずつ引き留め、バックパックを開けさせて中身を改めている。


 持ち物検査だ。


 列に並ぶ探索者たちが、苛立ちを隠さずに職員へ詰め寄っていた。


「なんでこれが駄目なんだよ! これがないと俺はどうやって戦えばいいんだ!」


「ルールが変わったんです。持ち込みは許可できません」


 無機質に応じる職員の手によって、探索者の荷物からいくつかの薬品のボトルや見慣れぬ道具が抜き取られ、傍らのコンテナへ放り込まれていく。


 掲示板を見れば、新しく張り出された通達があった。


 赤い印字で強調されたその文面には、ダンジョン内への持ち込み制限品目が細かく羅列されていた。


 ……なるほど。


 昨日の、化学物質使用に端を発するスタンピード。


 その未曾有の事態を重く見た協会が、探索者からの激しい反発を覚悟の上で、原因となり得る要素を根底から排除する強硬手段に出たのだ。


 私は小さく息を吐き、検査の列の最後尾についた。


 順番が来るまでの間、前方のやり取りを静かに観察する。


 弾かれているのは、やはり化学的な反応を伴う資材が中心のようだ。


 やがて、私の番が回ってきた。


「ご協力をお願いします」


 疲労の滲む顔をした職員に、私は無言でバックパックを差し出し、口を開いた。


 職員の手が内部を探り、いくつかの道具を取り出しては机に並べていく。


 そして、その手が止まった。


 彼が取り出したのは、私が粘性モンスター対策として常備している、化学凝固剤のボトルだった。


「これは、制限対象品目に該当します。お持ち込みいただけません」


「……それは、ダンジョンの構造そのものに使用するものではありません」


 私は事実を正確に伝えた。


「対象の表面にのみ散布し、即座に硬化させるためのものです。岩盤や地質に浸透し、免疫反応を引き起こす恐れはありません」


 実際に使用し、すでに確認済みだ。


「申し訳ありません」


 職員は首を横に振った。


「どのような用途であれ、持ち込まれた以上、現場でどう使われるか監視することは不可能です。環境を汚染し、再び暴走を誘発する可能性を完全に排除できない以上、持ち込みを許可するわけにはいきません」


 彼の言うことは、管理側の論理として極めて正しい。


 例外を一つ認めれば、そこから制度は崩壊する。


 私はそれ以上言葉を重ねる意味がないと判断し、手元に残された装備だけをバックパックへ戻し始めた。


「……すまない、静河さん」


 背後から、低く重い声が聞こえた。


 振り返ると、権藤さんが立っていた。


 いつも整っているはずの彼のネクタイは僅かに緩み、目元には深い疲労の影が落ちていた。


「この強硬な措置をなんとか撤回し、個別の申請で対応できるよう上層部へ掛け合ったのだが……力が及ばなかった」


 苦渋に満ちた表情で頭を下げる彼に、私は静かに首を振った。


「権藤さんの責任ではありません。スタンピード発生を防ぐための、協会としての正しい判断です」


「……しかし、君は——」


「ええ、そうですね。それらの資材を活用し、魔石を回収しています」


 手札を奪われることは、ダンジョンという不条理な現場において死に直結しかねない死活問題だ。


 変容が起こり続けている今の現場であれば、なおのことだ。


 だが、ここで感情を爆発させたところで、没収された資材が戻ってくるわけではないし、私だけ例外的に認められるわけでもない。


「限られた持ち物の中で、やりくりをするだけです」


「……そうか」


 権藤さんは苦しそうに、しかし微かに口元を緩めた。


「気をつけて」


「はい」


 私はバックパックの留め具を締め、権藤さんに一礼して、準備広場に向かった。


 ダンジョンに向かうための、最終確認をするためにだ。




 本日の目的地は、乾燥した岩場区画に変更した。


 当初は湿潤エリアを想定していたが、化学凝固剤を失った今、そこに向かうことは無謀な選択でしかない。


 だからといって、この岩場区画が安全とは限らない。


 装甲亀(アーマー・タートル)でさえ、昨日までと同じように動くという保証はどこにもないからだ。


 私は一歩ごとに足元の岩盤の強度をゼロから評価しながら、慎重に進んでいった。


 そして通路の奥、入り組んだ岩の窪みへ差し掛かったところで、私は立ち止まることになった。


 乾燥した岩場で、重い湿気を感じたからだ。


 ライトの光軸を絞り、前方の通路へ向けた。


「……これは」


 岩盤の表面が不自然に濡れ、水が滴り落ちて泥濘を作っていた。


 それだけではない。


 周囲の壁面には、暗緑色の水苔が広がり、岩の隙間に付着している。


 変容だ。


 進むべきか否か、それを判断するため、さらに詳しく観察しようとした時だった。


 前方の泥濘が、不自然に波打った。


 泥の中から、酸性粘体(アシッドスライム)が這い出してきた。


 本来の生息域から離れたこのエリアに、環境の変容とともに発生したのだろう。


 対象が体を伸縮させ、跳躍の予備動作に入る。


 距離は近い。


 今すぐ背を向けて逃げたとしても、対象に捕まる可能性が極めて高い。


 これまでなら、化学凝固剤を使用することができたが、没収されてしまった。


 私は素早く周囲の地形を視界に収めた。


 狭い通路。


 低い位置に、鋭く突き出た硬質な岩角がある。


 今、私にあるのは、サバイバルナイフと、ロープや楔といった物理的な道具のみだ。


「……これなら」


 ある方法を思いついた。


 跳躍してくる対象の軌道上にロープを張り渡し、空中で受け止める。


 対象は強酸性を帯びている。


 普通のロープなど触れれば瞬時に溶け落ちるだろう。


 だが、完全に破断するまでにコンマ数秒の遅延はあるはずだ。


 その遅延が作り出すロープの張力と、対象が前へ飛び出そうとする運動エネルギー。


 その二つが拮抗した瞬間、粘性の高い体組織は空中で強制的に引き伸ばされ、装甲の代わりを果たしている粘液層が極限まで薄くなるはずだ。


 そこを突けば、サバイバルナイフの刃でも内部の硬い核へ直接届くのではないか。


 さらに詳しく検討している余裕はない。


 私は素早くバックパックのサイドポケットから、ロープを引き抜いた。


 岩壁の低い位置に突き出た鋭い岩角へ、ロープの片端を素早く引っ掛ける。


 もう片端を両手で強く握りしめたまま、私は対象の進行ルートを横切るように、反対側の岩壁へと横っ跳びに飛んだ。


 私の動きに反応し、対象が跳躍した。


 足元すれすれの高さに、一本のロープがピンと張り渡される。


 空を飛んできた対象の巨体がロープにぶつかり、粘性の高い体組織がロープに深く食い込んだ。


 不快な音とともに白煙が上がり、強酸がロープの繊維を猛烈な勢いで溶かし始めた。


 手元に伝わる張力が急速に失われていく。


 だが、完全に溶け落ちるまでのコンマ数秒間。


 対象が前へ進もうとする運動エネルギーと、ロープの残された張力が拮抗し、その巨体が空中で大きく引き伸ばされた。


 狙い通りだ。


 私は酸で千切れる寸前のロープを手放し、腰からサバイバルナイフを抜き放った。


 空中で引き伸ばされて粘液が最も薄くなった下腹部へ、刃を突き入れた。


 対象が光の粒となって霧散して魔石と、酸で焼き切れたロープの残骸が床へ落ちた。


 私はナイフの刃を拭い、鞘に戻してから、魔石を拾い上げた。


 化学薬品という手札を奪われても、新しい手順を構築できた。


 特定のものに依存せず、自らの頭で考えた仮説と泥臭い検証が、この理不尽な現場で確かに通用した。


 その事実が、私の胸の奥に静かな熱を灯した。




 夕刻の探索者協会のロビー。


 換金カウンターへ向かうと、そこには見慣れた姿があった。


 ここ最近、上層部との会議に追われ、現場から離れていた権藤さんが、久しぶりにいたのだ。


 私はハードケースから取り出した魔石を、トレイの上に置いた。


 権藤さんはそれを受け取り、無言でテスターにかけていく。


 緑色のランプが点灯する。


 彼は明細を打ち出し、私へと差し出した。


「……どんな状況であっても変わらない君に、正直に言おう。敬服する」


 権藤さんは言った。


「私はやれることをやっただけです」


「……それができる人間が、いったいどれほどいるのだろうか」


 権藤さんは疲れた顔ながらも、確かに笑った。


 私は明細を受け取り、彼に向かって一礼した。


 協会を出たところで、


「静河さん」


 と、横から声をかけられ、足を止める。


 見れば、紺色の防塵コートを羽織った『アルゴス』のリーダーである瀬能氏が立っていた。


 彼女は一人だった。


「……また、間引きの依頼ですか」


 私が尋ねれば、彼女は首を横に振った。


「いえ、今日は違います。まだ正式に決定したわけではありませんが、お伝えしておこうと思いまして」


 彼女は周囲に人がいないことを確認し、声を落とした。


「国が本格的に探索者を管理する方向へ舵を切りそうです」


 国による介入。


 それは、協会の持ち物検査どころではない、根本的な自由の制限と、徹底した監視体制の構築を意味するのではないか。


「……『アルゴス』が言えた義理ではないですが、これまで発生していなかったスタンピードをこの一年の間に二回も発生させてしまった事態を、深刻に受け止めているからです」


 瀬能氏が苦い表情でそう言った。


 一度目の原因は、『アルゴス』にあった。


 そして二回目のスタンピードは昨日、探索者であり続けようと藻掻いていた男が引き起こした。


 魔石はすでに重要資源として位置づけられている。


 それを回収できなくなる事態を避けたいというのは、当然のことだろう。


 だが、わからないことがあった。


「……なぜ、その情報を私に?」


 私が尋ねると、彼女は微かに目を細めた。


「当社のシステムでは到底たどり着けない領域で生きるあなたが、このような事態でどのような選択をするのか、見てみたかったからです」


 以前、『金剛石の回廊』で彼女が口にした評価だ。


 大企業を背景に持つ『アルゴス』は、国の管理下に入っても充分に対応できる資本とシステムを持っている。


 だが、個人の探索者は、身動きが取れなくなる可能性が高い。


 ここで探索者に見切りをつけるか、それとも企業に属するか。


「……そうですね」


 私は真っ直ぐに彼女を見返して、告げた。


「私のやり方は、変わりません」


 彼女も私を真っ直ぐに見返してくる。


「国がどう動こうと、環境がどう変わろうと、私は私が生き残るために、自分にできることをする。ただそれだけです」


 私の答えを聞いた瀬能氏は、静かに口元を緩めた。


「……あなたなら、きっとそう言うと思っていました」


 彼女は小さく会釈をした。


「『アルゴス』のリーダーではありますが、一人の探索者として、応援しています」


 その言葉を残し、瀬能氏は夕暮れの街へと去っていった。




 宿舎に戻ってきた私は、装備を片付けながら考えていた。


 化学凝固剤を使わずに粘性モンスターの弱点を露出させるための、今日検証したロープの罠。


 これをさらに確実なものにするため、明日はホームセンターで摩擦係数が高く、かつ酸に強いワイヤーや、固定用の軽量な金具を調達してから現場へ向かうべきだろうか。


 私は手帳を取り出し、ペンを走らせる。


 それから、キッチンに立った。


 持ち込める資材が制限され、稼ぎが減ることは確定している。


 生活費にはまだ余裕があるが、これから先、ダンジョンも社会も何が起こるかわからない。


 無駄な支出は抑え、手持ちのカードを最大限に活かす必要がある。


 それは、現場だけでなく、日々の食卓でも同じことだ。


 なので、本日の食材は、安価な鶏胸肉と、冷蔵庫に残っていた半端な野菜だ。


 鶏胸肉はそのまま焼けばパサつく。


 私は肉を削ぎ切りにし、少量の酒を揉み込んでから、薄く片栗粉をまぶした。


 フライパンに油を引き、弱火でじっくりと火を通していく。


 肉の表面が白くなったところで、余り物のピーマンと玉ねぎを加え、醤油、黒酢、僅かな砂糖で作ったタレを一気に回し入れた。


 酸味のある香ばしい匂いが立ち上る。


 皿に盛り付け、炊きたての白米と一緒にテーブルへ運んだ。


 箸を取り、黒酢のタレが絡んだ鶏肉を口へ運ぶ。


 片栗粉のコーティングが肉の水分を閉じ込め、しっとりとした柔らかな食感を生み出している。


 黒酢のまろやかな酸味が、何より、


「……美味い」


 限られた素材でも、工程を工夫すれば、確かな結果を引き出すことができる。


 私は白米を頬張りながら、深く満足していた。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

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