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元社畜は慎重さと準備を武器に、搾取する幼馴染や家族を切り捨て、ダンジョンで自立した平穏を勝ち取る  作者: 日富美信吾
第9部

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第96話:探索者の矜持


 ——その日、再び、スタンピードが発生した。




 昨日はダンジョンでの業務を完全に中止し、休息に充てた。


 疲労を取り除くと同時に、郊外の大型ホームセンターへ足を運び、新たな資材を調達してくるためだ。


 購入したのは、化学物質によらない物理的な固定具である。


 そして今朝。


 探索者協会のロビーへ足を踏み入れれば、掲示板の前に無数の探索者が人だかりを作っているのが見えた。


 人の間を縫って、私も見てみた。


 ……なるほど。


 私が休息を取った昨日、協会から正式な通達がなされたらしい。


 ダンジョンそのものに対し、化学物質を浸透させるような行為を禁止する、と。


 モンスターの暴走を誘発するためである、と。


 探索者たちの声を拾えば、


「昨日も見たけど……」


「衝撃だよ……」


 などの声が聞こえてくる。


 確かに、これは衝撃的な出来事ではある。


 だが、事実だ。


 その時、一人の探索者が呟いた。


「……ほんの少しなら、バレないんじゃないか?」


 私——いや、静河くんより、少しだが年上の探索者だった。


 楽をして稼げる方法がある。


 なら、使用したくなる。


 それは当然の欲求だ。


 だが、その言葉を聞いた、彼の隣りにいた探索者が、彼の胸ぐらを強く掴み、声を荒げた。


「お前、本気で言ってるわけじゃないだろうな!? それでスタンピードが発生したら、今度は死ぬかもしれないんだぞ!!」


 周囲の探索者たちの多くは重々しく頷く者たちばかりだったが、中には、少しだが、顔を背けたり、俯かせる者たちがいた。


 やってみようと、そう思っていたのだろう。


 だが、探索者が発したスタンピードという単語が、あの時の絶望的なモンスターの濁流を思い出させ、その気持ちを霧散させたに違いない。


 目先の利益のために命を天秤にかける。


 そのような真似は割に合わない。


 そう理解したはずだ。


 私は掲示板から視線を外した。


 いつものベンチに向かう途中、見知った人物を見かけた。


 上近少年だ。


『蒼穹の翼』の伊織くんや、『赤き戦斧』のリーダーたちと何かを話し合っていた。


 そこには、あの少女も混じっていた。


 情報交換をしているのだろう。


 変容し続けるダンジョンに適応し、生き残っていくために。


 私はそのままいつものベンチに向かう。


 腰掛け、確認作業を行おうとしていると、


「よう、静河」


 という声とともに、私に向かって缶コーヒーが放り投げられた。


 颯真くんだった。


「おはようございます」


「おう」


 彼は私の隣に腰掛け、自分の分、カフェオレの缶を開け、口に含んだ。


「昨日、休みだったが、なんかあったか?」


「休息を取る方が、変容したダンジョンにおいては効率がいいことを学びました」


「よく学び、よく遊べってやつだな」


「……少し違うような気もしますが」


「細けえことは気にすんなって」


 颯真くんは笑って、そう言った。


 私はそれに苦笑で応答する。


「あれ、お前が見つけたんだろ?」


 彼の視線は、掲示板に向けられていた。


 協会からの通達のことを言っているのだろう。


「私と黒木さんで報告しました。黒木さんも同じ事象を深層で確認しています」


「やっぱりな。ダンジョンで魔剣じゃなくて、化学物質をつかうような奴はお前か黒木さんくらいだもんな」


 そこまで言ってから、彼は少しだけ意地悪そうな感じで口角を上げた。


「けど、いいのか?」


「……いいとは?」


「お前の得意技が封じられちまったわけだろ? これからどうするんだよ」


「昨日、休息を取る中で、新しい資材を調達してきました。問題ありません」


 颯真くんは私の言葉を聞き、楽しそうに笑い声を挙げた。


 この場所に、このような楽しそうな笑い声が響き渡るのは、久しぶりのような気がした。


「さすが静河だ。そうこなくっちゃな」


 彼は私の肩を軽く叩いた。


 それから、真面目な顔になって、カフェオレの缶を両手で包み込むようにし、飲み口に視線を落とした。


「……正直、静河の今回の発見は魅力的すぎる。これまでの苦労がなんだったんだってレベルで、楽に稼げるからな」


「……ええ」


 魔剣を購入するために組んだローンも、簡単に返済することができるだろう。


「けど、俺たちはその方法を取っちゃいけねえ」


「スタンピードが発生しますからね」


「違う」


 私の言葉を、颯真くんは否定した。


 それからすぐに、彼は慌てた様子で、


「あ、いや、もちろん、それが大部分の理由だ。けどな、俺たちは何だ? 探索者だろ。楽して稼ぎたいから、探索者になったわけじゃねえはずだ」


「……そうですね。楽に稼ぐためなら、他にいい職業はいくらでもある」


 常に死が隣りにあるダンジョンを職場に選ぶ必要などない。


「ああ、そうだ。それでも俺たちは探索者を選んだ。……俺たちが選んだんだよ。ここにいる奴らは、全員そうなんだ」


 彼はカフェオレを一気に飲み干すと、立ち上がった。


 カフェオレの缶をゴミ箱に向けて放り投げる。


 放物線を描き、缶はゴミ箱の中に入った。


「……ここにお袋がいたら、行儀が悪いって怒られるけどな」


「いい親御さんです」


「……お前が俺より年下だってことを時々忘れるよ」


 私が苦笑で応じれば、彼は拳を突き出してきた。


「じゃあな、相棒。またな」


「ええ、また」


 私が自身の拳を彼のそれにぶつければ、彼は迷いのない足取りでダンジョンへと消えていった。


 その姿を見送った直後、私の視界に一人の男が入ってきた。


 大衆食堂で唐揚げ定食を食べていた、あの中堅探索者だ。


 あの時も、一昨日も、彼は昏く沈んだ顔をしていた。


 だが、今日の彼は違った。


 真っ直ぐにダンジョンに向かっていくその横顔には、かつて見た覇気が戻っていた。


 何かしら手応えを掴んだのだろう。


 変容が起こる前は幅を利かせていたのだ。


 ダンジョンで生き残ってきたのだ。


 その事実は、変容が起こったとしても、変えられない。


 颯真くんに続き、彼の姿もまた、ダンジョンの中へ消えた。




 今日の目的地は、中層の湿潤な通路だ。


 化学物質を用いた岩盤の補強は使えない。


 それ以外の資材でどこまで安全を担保できるか、その検証を行うつもりだった。


 現場に到着した私は、周囲の安全を確認してからバックパックを下ろし、昨日調達した新しい資材を取り出した。


 拡張式アンカーボルト、そして補強用金属プレートだ。


 通路の岩盤に走る微細な亀裂を見つけ、ハンマーで軽く叩く。


 返ってくる音の反響から内部の密度を推測し、限りなく安全だと思われる箇所を見極める。


 打音検査も欺かれることがある今、以前のような、完全な安全を確かめるすべはない。


 私は鈍い音が返ってきた亀裂を跨ぐようにプレートをあてがい、ハンマーでアンカーボルトを打ち込んだ。


 ボルトの先端が岩の内部で物理的に拡張し、ガッチリと食い込む感触が伝わる。


 ウレタンを注入して塞ぐやり方に比べれば、手間も時間もかかる。


 だが、打ち込んだアンカーとプレートはしっかりと岩盤を縫い止め、私の体重をかけても微動だにしない強固な支保工として機能した。


「……問題なく対応できますね」


 また、昨日、しっかりと休息を取ったおかげだろう。


 変容によって行動パターンが変わったモンスターの動きを、つぶさに観察することができた。


 もちろん、これまでも行ってきたことだ。


 だが、一旦リセットできたおかげで、精神的な消耗が解消されていることが実感できた。


 そのおかげで、新しい攻撃パターンを見抜くことができた。


 この事実はしっかりと記憶し、夜、手帳に記録するつもりだ。


 この不条理な環境の中で、確実な一歩を積み重ねられているという手応えがあった。


 変容前とほぼ同じだけのノルマを達成し、私は定刻通りに地上へと帰還した。




 夕刻の探索者協会のロビーは、無事に生還した者たちの熱気でごった返していた。


 換金カウンターの列に並び、順番を待っていると、前方の窓口付近が異様に騒がしいことに気がついた。


「ねえ、本当なの……!?」


「一人で、あんな量とかあり得ないだろ!」


 列の先頭に立っていたのは、今朝見かけたあの中堅探索者だった。


 彼がカウンターのトレイに広げた魔石の量は、一人の探索者が一日の業務で回収できる常識的な範囲を明らかに超えていた。


 周囲の探索者たちが羨望の声を上げ、どよめいている。


 だが、中には、先日までの彼の深刻な不調を知っている探索者たちがいて、怪訝な顔で囁き合っていた。


「……なあ、おかしくねえか? 昨日まであいつ、全然稼げてなかったよな?」


「……調子が戻ったとしたって、今日一日であんな数を狩るとか、異様を超えて異常だって」


 彼らから発せられた疑念の声は、その場にいた探索者たちに広がり、


「……確かにそうだよな」


「……おかしいどころの話じゃないわよね」


 という声が大きくなっていった。


 中堅探索者はその声に対して、肩をビクリと震わせ、


「う、うるせえ! 実力でやったんだ!」


 声を荒げ、周囲を威嚇した。


 皆が疑惑の目を向ける中、私は彼を静かに観察した。


 あれほどまで異常な量の魔石を一人で、しかも短時間で回収したというのに、彼の息は全く上がっておらず、防具に激しい戦闘を繰り広げたような傷跡が一切ない。


 その代わり、彼の手袋や靴には、モンスターの体液とは異なる、白く硬化した樹脂のような飛沫の痕がこびりついている。


 私の脳裏に、最悪の推測がよぎった。


 彼が今日、あれほど異常な量の魔石を回収できた理由。


 それは、私が協会に報告し、封印した最適解を用いたのではないか。


 化学物質をダンジョンそのものに浸透させ、大量のモンスターを誘発し、同士討ちをさせるという、あの禁忌の手法を意図的に繰り返し何度も使ったのではないか。


 あの短時間で、戦闘の損耗もなくこれほどの量を回収するには、それ以外にあり得ない。


 窓口の係員も彼の様子と魔石の量から異常を察知したのだろう。


 背後を振り返り、他の職員たちとアイコンタクトを取ると、


「……恐れ入りますが、少し別室でお話を伺わせてもらえませんか」


 中堅探索者の元へ、職員たちがやってくる。


「な、なんで俺が! 俺はただ魔石を換金しにきただけで——」


 彼が一歩後退し、声を上ずらせて抗弁しようとした、その時だった。


「モンスターの群れが溢れ出してきた!」


 ダンジョンへと繋がる連絡通路の奥から、探索者パーティーが息を弾ませ、血相を変えながらロビーへと駆け込んできたのだ。


 ロビーにいた探索者たちが息を呑み、ありえないくらいの静寂が訪れる。


 誰かの掠れた声が漏れた。


「スタンピード……」


 その呟きが引き金となり、爆発的なパニックが空間全体へ伝播した。


『全探索者へ緊急通達です! 中層境界線、および大竪穴上部に絶対防衛線を構築してください! これは全探索者に対する協会からの緊急防衛命令です……!』


 井葉さんの声がロビーに設置されたスピーカーから流れた。


 普段の彼女からはとても考えられない、張り詰めた声だった。


 帰還したばかりで、それでも疲れた体にムチを打ち、ダンジョンに向かう探索者がいた。


 ロビーの柱の陰に隠れ、頭を抱える探索者がいた。


 変容が起こっている中で発生してしまったスタンピードが、前回同様とは思えない。


 死者が出るかもしれない。


 それも相当数の。


 怒号と悲鳴が入り混じる喧騒の中、私は、事態の震源地にいるであろう一人の男を見下ろしていた。


 床にへたり込んだ彼は、震える唇から力なく言葉を零した。


「……こんなはず、こんなはずじゃ、なかったんだ」

最後まで読んでいただきありがとうございます。

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