第85話:更新される現場と、確かな実り
探索者協会のロビーに足を踏み入れれば、空調の効いた乾いた空気が満ちていた。
声をかけられた。
「静河さん」
見れば、少し疲れた顔をした権藤さんだった。
「……久しぶりですね、権藤さん」
「ああ、本当に」
権藤さんの口元が少しだけ緩み、私のそれも自然と緩んでいた。
「井葉さんからお忙しいと伺っていました」
彼が苦笑する。
「体力的にはそうでもなかったのだが、精神的にね。かなり疲れたよ。やはり、私には現場の空気が合っていると実感した」
彼が穏やかな表情でいたのもそれまでだった。
厳しい顔つきになって、権藤さんが言った。
「井葉くんに預けてくれたスケッチ、見たよ。……詳しく話を聞かせてもらえるだろうか」
「はい。私も、お話ししておきたいことがあります」
私たちは協会の会議室へと移動した。
「君の話を聞く前に、協会の方針を伝えさせて欲しい」
椅子に深く腰掛けた権藤さんが言った。
「探索者の自己責任の原則は、変わらない。今後も変えるつもりはない。ただ——」
「……これまで開示されてきたデータが、役に立たなくなる可能性がある」
私が続ければ、彼は小さく頷いた。
「地形もモンスターも変容して、先人たちが積み上げてきた記録との整合性が取れなくなっていく。そこで、ダンジョンを調査する専門のチームを編成することにした。新たなデータを積み上げるための班だ」
「……なるほど」
「それで、君のスケッチだが」
「変容の震源地、そうではないかと考えられる地点に辿り着きました。颯真くんと二人で。……いえ、彼と二人だったからこそ、辿り着くことができた」
「……そうか、坂垣くんと」
頷く権藤さんに、昨日、私たちが見たものについて話した。
溶けた岩盤が冷えて固まり、見たことのない稜線で鱗として押し出されていく、あの繰り返しのこと。
それを見ながら、私と颯真くんが辿り着いた推論のことを。
「……ダンジョンが自らを作り直している。それが、この変容の正体だと考えています」
私の言葉に、権藤さんは深く息を吐き出した。
「そうか……」
権藤さんは壁を見つめた。
だが、その視線は壁を見ているようで見ていなかった。
別の何かを見ているようで。
「……ダンジョンの危険性は、これからさらに増していくんだな。そして、それについていけずにここを去っていく探索者も間違いなく出てくる」
彼の声には、確かな寂しさが滲んでいた。
「……だが、引き止めることはできない。彼らには彼らの命と、守るべき生活があるのだから」
「ええ」
私が頷くと、権藤さんは私を真っ直ぐに見た。
「君は?」
「私は——」
準備広場のいつものベンチに腰を下ろした。
普段であれば、すぐに最終の安全確認を始めるが、今はただ静かに広場の様子を眺めていた。
探索者たちが、それぞれの手順で出発の支度をしていた。
装備を確かめる者。
パーティーを組む者。
ストレッチをしながら仲間に何か話しかけている者。
カウンターで最新の情報を聞いている者。
その中には見知った顔もあった。
上近少年は使い込まれたメモ帳を開き、真剣な顔で何かを書き留めている。
顔を上げた彼と目が合えば、彼は少し照れたように会釈をしてきた。
『蒼穹の翼』の伊織くんたちは互いの装備を確かめ合いながら、大きな声で笑い合っている。
彼らも私に気づき、手を振ってきた。
『赤き戦斧』のリーダーは、残されたメンバーたちと短い言葉を交わし、静かに顎を引いて挨拶をしてくれた。
紺色の防塵コートを羽織った『アルゴス』の涼下氏と瀬能氏が、センサー機材の調整を終え、私に向かって軽く会釈をして通り過ぎていく。
彼らは皆、それぞれのやり方で、自分の足で立ち、ダンジョンの暗がりへと進んでいく。
私はそんな彼らの背中を静かに見送った。
それから私は視線を落として、自分の足元に置かれたバックパックを見た。
これまで何度も命を繋いできた、私だけの装備。
靴紐の結び方、ポーションの位置、機材の配置。
すべてが私の身体に馴染んでいる。
だが、ダンジョンは今、根本からその姿を変えようとしている。
これまでの手順や経験が、今日、通用する保証はどこにもない。
……これで本当にいいのか。
震源地で見たあの圧倒的な光景が、私の内側で静かな波紋を広げていた。
私はゆっくりと息を吸い込んだ。
……今日を生きて、明日を迎えるために。
それが私にとっての最善であると信じるほかに、道はない。
準備を終え、立ち上がり、バックパックを背負う。
歩き出す前、もう一度だけ、広場を振り返った。
しばらく眺めていたら、カウンターの奥から井葉さんが声をかけてきた。
「静河さん? どうかしましたか?」
「……いえ。なんでもありません」
「? そうですか。お気をつけて!」
「ありがとうございます」
井葉さんに見送られ、私はダンジョンへ足を踏み入れた。
中層の通路は、昨日とは違う匂いがした。
気のせいではない。
壁の湿り気も、空気の流れも、私がこれまで記録してきたものと僅かにズレている。
少しずつ、すべてが違っていた。
もう、過去のデータにすがることはできない。
私は五感を研ぎ澄まし、今、目の前にある事実だけを頼りに進んだ。
現れたモンスターの僅かな挙動の変化を見極め、適切なタイミングでサバイバルナイフを滑り込ませる。
終わってみれば、いつもと変わらなかった。
私は定時に帰還した。
帰還することができた。
賑やかな夕刻のロビーに。
またゼロから、築き上げていけばいい。
ただ、それだけのことなのだ。
換金カウンターで魔石の換金を終え、帰ろうとした時だった。
「静河さん、お待ちください」
井葉さんに呼び止められた。
彼女はカウンターの下から、小さな段ボール箱を重そうに取り出して私に差し出した。
「静河さん宛てに、荷物をお預かりしています」
荷物。
私に荷物を送ってくる人間など、心当たりがない。
……いや、可能性だけなら、静河くんの家族、あるいは幼馴染の麗美さんという線もある。
だとすれば、あまり気分の良いものではなかったが。
私は戸惑いながらも、段ボール箱を受け取った。
結論から先を言えば、ずしりと確かな重みがあるそれを送ってきたのは、静河くんの家族でも、幼馴染からでもなかった。
宿舎の自室に戻り、手を洗ってから、テーブルの上に段ボール箱を置いた。
荷物は、実家の米農家を継ぐため、故郷へ帰っていった『赤き戦斧』の青年からだった。
私はガムテープを剥がし、段ボール箱を開けた。
中に入っていたのは、透明な袋に詰められた白米。
そして、便箋が同封されていた。
『実家に戻りました。新米ではないですが、実家の米です。家族も元気です。静河さんも、お体に気をつけて。新米ができたら、また送ります』
私は袋を開け、米の匂いを嗅いだ。
かすかに、土の香りがした。
「……今日はこれをいただきましょう」
私は米を丁寧に研ぎ、水に浸した。
米を堪能するため、おかずはシンプルでいい。
小さな鍋で豆腐とわかめの味噌汁を作り、小皿に梅干しを一つ乗せる。
炊飯器から蒸気が上がり、やがて炊きあがりの音が鳴る。
蓋を開けると、艶やかな米粒が立っていた。
茶碗によそい、テーブルへ。
箸を取り、まずは白米だけを口に運んだ。
私がいつもスーパーで買っているものとは、明らかに違う味だ。
「……確かに。これは美味い」
あの日、定食屋で彼が言っていた言葉は、決して大げさな故郷自慢ではなかったのだ。
梅干しを食べれば、その酸味が米の甘みを引き立てた。
味噌汁で喉を潤せば、これ以上ないくらい米が進んだ。
ダンジョンから離れた場所で、彼は彼の生活を営んでいる。
その事実が、この一口の米に詰まっていた。
新米ができたら、また送ってくれるらしい。
秋が来るのが、今から楽しみになった。
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