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元社畜は慎重さと準備を武器に、搾取する幼馴染や家族を切り捨て、ダンジョンで自立した平穏を勝ち取る  作者: 日富美信吾
第1部

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第8話:見えない地雷と安全衛生管理


 ダンジョンの入口に私がやってくると、朝の冷たい空気の中に、いつもとは違う種類の熱が混じっていた。


「……ざわめき、か」


 それも、ダンジョンの中、思わぬ獲物を前にした時に感じるような興奮などではなく、


「……不安?」


 そう、不安だ。


 得体のしれない何か。


「……またリタイアかよ。浅い階層だってのに」


「……あり得ないでしょ」


「………………呪い、とか?」


 数メートル先、顔色の悪い若手探索者が数名、地面に座り込み、それを遠巻きに見ている探索者たちの姿がある。


 若手探索者たちは咳き込み、肩で息をして、とてもだるそうだった。


「い、いやいや、呪いってなんだよ!? モンスターの毒だろ! なんか甘い匂いがしたって言ってたやつもいるし!」


「けど、毒消しのキュアポーションが効かないって話よ?」


「だ、だからって呪いってことは……いくらなんでも……」


 それ以上、言葉にならないようで、外野の探索者たちは黙り込んでしまう。


 私はいつもどおり、自分の装備の確認をしながら、聞こえてきた情報を整理する。


 若手探索者たちは、主にこのような症状を訴えているらしい。


 咳、微熱、倦怠感。


 普通に考えるならば、風邪だ。


 しかし、彼らはダンジョンに入るまでは、なんでもなく、いたって健康だったという。


 しかも、同じような症状を訴え、探索を断念した探索者たちは、彼らだけではないらしい。


 他にも複数、それなりの数に登るという。


 だからこそ、外野が口走っていたような、毒、あるいは呪いという発想になったのだろう。


 わからなくはない。


 だが、私には、そんなものではないという確信があった。


 ……もちろん、ダンジョンなどというものが存在し、モンスターが跋扈している世界だ。


 呪いがないとは言わないし、実際に存在するだろう。


 しかし、今回は違う。


 私の記憶にあるデータベースが、別の可能性を検索結果として弾き出していた。


『空調が壊れたままのオフィス』


『しけたカーペット』


『次々と倒れていく同僚たち』


 シックハウス、あるいはカビ毒。


 常にカビと湿り気を帯びた独特の臭いが充満しているダンジョンという閉鎖環境であれば、そのリスクは地上の比ではないだろう。


 私はバックパックを開く。


 底から、以前、ホームセンターの防災コーナーで見かけて購入しておいたものを取り出す。


 防塵・防毒用の交換フィルター、それをセットするためのガスマスク。


 周囲の視線が私に集まるのを感じる。


「あいつ、また大げさな装備で」


「さすが臆病者、一味違うな」


 ……一味違う、か。


 本来の肯定的な意味で使っていないことは明白だ。


 だが、それが何だというのだろう。


 私は私が生きていくために必要な措置を講じるだけだ。


 マスクの紐を締め、私はその気密性を丁寧に確認した。




「……ここが」


 探索者たちが、次々と撤退を余儀なくされた問題のエリア。


 そこに足を踏み入れた瞬間、まとわりつく湿度が変わった。


 ダンジョンは地上に比べれば湿気の多いところではあるのだが、ここは突出している。


 そしてマスクをしていても感じる、嗅覚への違和感。


 カビ臭さ——ではない。


 微かに、だが、確かに感じる甘い芳香。


 果実が熟れすぎたような、あるいは花のような。


「……モンスター、か?」


 いや、違う。


 その気配はない。


 通路は静かなものだ。


 つまり、一見すれば、ただの安全なルートなのだ。


「……そこか?」


 私はライトを壁に向けた。


 石壁の隅、天井の角。


 白い綿のような付着物が密集していた。


 近づいて観察すれば、微細な胞子が空気の対流に乗って揺れているのが見えた。


「ダンジョン特有のカビ……おそらくだが」


 甘い匂いで生物を誘引。


 吸い込んだ者の肺を侵す。


 まるで目に見えないトラップだ。


 私はマスクのフィルター部分を手のひらで押さえ、吸気抵抗を確認する。


「大丈夫、正常に機能している」


 もしこの準備をしていなければ、遠からず私も肺の奥に違和感を覚え始めていたことだろう。


 私は手帳を取り出すと、簡単な地図を書き、カビが発生している箇所を塗りつぶした。


『呼吸器系への継続ダメージあり。立入禁止』


 次回、ここを通らないための業務日誌である。




 天然のトラップが設置されたその危険なエリアを抜けた先に、少し開けた空間があった。


「ここ、穴場じゃね?」


「モンスター全然来ないし」


「ちょっと早飯にしようぜ」


 若手——といっても颯真くんと同じくらいの、つまりは静河くんより年上くらいの3人組パーティーだ。


 装備は探索者の標準的なものであり、マスクはしていない。


 いや、マスクをしている探索者を私は私以外、見たことがないので、むしろ当然のことではあるのだが。


 問題は彼らが、カビのコロニーが形成されている壁を背に腰を下ろしていることだった。


「ゲホッ、……なんか咳出るな」


「風邪かよ? だらしねえなぁ」


 ダンジョンであるため、小さな、しかし確かな笑い声。


 彼らはそこを、モンスターが出ない隠し安全地帯だと勘違いしている。


 そこが、天然のトラップであると知らずに。


 足を止める。


 関わるべきか?


 彼らは他人だ。


 注意したところで、素直に聞くとは限らない。


 むしろ、場所を横取りしに来たのかと反感をもたれるリスクの方が高いと判断できる。


 立ち去ろう。


 ダンジョンは自己責任の世界だ。


 自らの不注意で命を落とすことになっても、それは彼ら自身の選択による結果だ。


 私が関与すべきものではない。


 ——だが。


 かつての『私』には苦い記憶があった。


 安全基準を無視して作業を進めようとする現場。


「納期がねえんだよ!」


 そう怒鳴る職人。


 それを見過ごした結果起きた、転落事故。


 今、私の目の前で、防げるはずの労働災害が起きようとしている。


 同じことを繰り返すのか?


 私は小さく息を吐き、彼らに近づいた。


「君たち、早くここから立ち去ったほうがいい。ここは毒の沼地と同じです」


 私の声は、マスク越しにくぐもって響いた。


「は? なんだお前」


「ガスマスク? やべー奴来たんだけど」


「ここは俺らが見つけた場所だ。横取りする気か?」


 警戒と反発。


 予想通りの反応だ。


 彼らは状況が見えていないだけ。


 可視化されていないリスクは、存在しないも同然に扱われることを私は知っている。


「君の咳、それは風邪ではありません」


 いいですか、と続け、


「これを見てください」


 私は手持ちの強力なLEDライトを点灯させ、彼らの頭上の空間を照らした。


 光の帯の中に、無数の白い粒子が浮かび上がる。


 胞子だ。


 それらが雪のように舞い、彼らの周囲を濃密に取り囲んでいた。


「な……」


 美しくすらあるその光景に、若者たちが息を呑む。


「今はまだ咳で済んでいますが、このままここに居続ければ、探索者どころか、普通の生活も難しくなるかもしれません」


 脅しではない。


 事実としての予測値を伝える。


「……撤退を推奨します」


 リーダー格の男が、青ざめた顔で私と、空中の胞子を見比べる。


 判断に時間はかからなかった。


「……逃げるぞ!」


「お、おい待てよ!」


 彼らは慌てて荷物をまとめ、走り去る。


 ——いや、走り去らなかった。


 彼らは私を振り返り、頭を掻き、困ったような表情をしながら、


「なあ、あんた! 悪かったよ!」


「助かった!」


「サンキュー!」


 手を振り、今度こそ、本当に走り去っていった。


 感謝されたくてやったことではない。


 むしろかつての『私』の郷愁みたいなものだ。


 だが、それでも。


 彼らの言葉が、私の胸に不思議なあたたかさを宿したのも、また事実だった。




 定刻通り、私は地上へ戻ってきた。


 ガスマスクを外し、新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込む。


「……よし」


 私は協会へ向かい、モンスターを倒して手に入れた魔石を換金する。


 そして、そことは別のカウンターに足を進める。


 そこにいた職員に告げた。


「報告です。特定エリアでの有害カビの発生を確認しました」


「カビ、ですか?」


「ええ。地図にマーキングしておきました」


 用紙1枚の簡潔な報告。


 最初、職員は怪訝そうな目で私を見たが、何かに気づいたようにハッとして、


「まさか呪いの正体!?」


 と呟き、


「じゃあ……!」


 私を見る目が、怪訝そうなそれから一転する。


「周知はおまかせします」


 その場を後にしようとすれば、


「ちょ、ちょっと待ってください! あの、名前を……!」


 私にとって、これはあくまでヒヤリハット報告みたいなものであり、手柄を主張するためではない。


 私は呼び止める職員に、


「夕食の食材を買って帰らなければいけないので」


 そう言い残して、立ち去った。




 宿舎の自室。


 今日の夕食は、鶏むね肉を使ったチンジャオロース。


「うん、なかなかうまくできた」


 胸に宿ったあたたかさも、まだ持続していた。


 今日を無事、生き残ることができた私は、明日もまた、ダンジョンへと赴く。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

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