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元社畜は慎重さと準備を武器に、搾取する幼馴染や家族を切り捨て、ダンジョンで自立した平穏を勝ち取る  作者: 日富美信吾
第1部

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第7話:損切りという名の業務遂行


 集合場所に漂うのは、ダンジョンから漂ってくる湿ったカビの臭いと、安っぽい制汗スプレーが混ざり合った独特の不快臭だった。


「諸君! 我々は今日、歴史を刻むことになる!」


 簡易的な朝礼台の上で、オーダーメイドと思しき真新しい戦闘服を着込んだ男が声を張り上げている。


 大手クラン『暁の剣』。


 その遠征隊リーダーだ。


「この未踏の領域を切り拓くのは、未知へと踏み出す、我々の熱き魂だ!」


 周囲の取り巻きたちが、「おお!」と感嘆の声を上げる。


 私は手元の手帳に視線を落とした。


 募集要項には『後方支援・荷物持ち』とあった。


 提示された報酬は、相場の1.5倍。


 内容と報酬のバランスは悪くない――いや、良すぎる。


 だからこそ応募した。


 良質なポーションや装備のメンテナンス費を確保するための、まとまった資金を得るために。


 先日、颯真くんとともにダンジョンの探索に赴いた時とは違う。


 今回の募集、今日までこなしてきた私の仕事をすればいけると、そう考えていた。


 しかし、


「……嫌な予感がする」


 と、私は小さく呟いた。


 この熱狂、この具体性を欠いた精神論。


 かつての『私』が、炎上確定のシステム開発の現場に途中投入された初日に感じた空気と、恐ろしいほど酷似していた。


 補給の段取り共有がない。


 撤退基準の明示もない。


 あるのは気合と根性、そして歴史に残るという、実体のない目標だけ。


 私はバックパックのベルトを締め直した。


 契約は済んでいる。


 前金も受け取った。


 ——受け取ってしまった。


 ならば、仕事は片付ける。


 ただし、私は支給された食料袋とは別に、自前の高カロリー保存食であるエナジーバーと、予備のライトの存在を指先で確認した。


 自分の身は自分で守る。


 それが、ブラックな現場における、唯一絶対の生存戦略だった。




 ダンジョンでの行軍が始まった。


 懸念は、開始早々に現実となった。


「止まるな! 罠など気合で抜けろ!」


 リーダーの指示は、現場を知らない上層部の思いつきそのものだった。


 最短距離での突破。


 罠の探知を時間の無駄と切り捨て、前衛の体力を消費して強行突破する。


「ぐっ……!」


 前方で、一人が毒矢を受けて膝をつく。


 本来なら一時停止し、解毒用のキュアポーションの使用と容体の安定を待つ場面だ。


「かすり傷だ! ここで止まれば士気に関わる! 歩きながら治せ!」


 休憩は許可されなかった。


 隊列の後方、荷物持ちの列に混ざりながら、私は手帳にボールペンを走らせる。


『現在、ポーション消費量、想定の2倍以上で推移。在庫が切れるまで、推定残り3時間』


『隊列の乱れ、疲労による注意散漫。事故の危険性が極めて高い』


「おい、そこの! 遅いぞ! 何をごちゃごちゃ書いている!」


 リーダーの怒声が飛んでくる。


 私は顔を上げ、努めて無表情に頭を下げた。


「後方支援としての仕事です。進捗管理のための記録を取っています」


「記録なんていいから前へ出ろ! 熱意が足りないんだよ、お前らは!」


 熱意。


 それは計画性のなさを誤魔化すための言葉でしかないことを、『私』は知っている。


 私は「申し訳ありません」と口先だけで謝罪し、ペンを握り直した。


 書くのをやめる? そんなわけにはいかない。


 そうしなければ、帰るための計算ができなくなる。


 私以外の探索者たちの使い潰されていく姿が、かつての『私』、かつての同僚たちと重なって見えた。


 このままでは、そう遠くない未来、現場ごと破綻するだろう。




 ダンジョンの深層手前にやってきた時、リーダーが足を止めた。


 配布された紙の地図には記載されていない、暗い横穴の前だ。


「俺の勘が告げている! この先の未踏破エリアには、お宝がある!」


 クランに所属していない探索者たちの間にざわめきが広がる。


 当初の予定にはない場所だ。


「つまり、ここを探索し、明らかにすれば我々は英雄だ!」


 限界だ。


 これ以上進めば、物理的に帰れなくなる。


 私は手を挙げた。


「待ってください」


 リーダーが振り返る。


 その目は血走っていた。


「あ? なんだ、怖気づいたのか? これだから底辺のソロ探索者は」


 リーダーが嘲笑すれば、取り巻きたちの空気も、それに同調する。


 だが、それが何だというのだろう。


 私は手帳を開き、記録した数字を淡々と提示する。


「現在のライトのバッテリーやポーションの残量、食料、および負傷者の歩行速度を計算しました。ここから先に進み、仮にあなたの言う『お宝』とやらを得たとしても、帰りの物資が3割不足します」


 静まり返る通路に、私の声だけが響く。


「計算上、私たちは地上に戻れなくなります」


 私の指摘に、リーダーの顔が赤く染まっていくのがわかった。


「計算? 計算だと!? ごちゃごちゃうるさいんだよ貴様は!」


 リーダーが私を指さし、叫ぶ。


「そうやってリスクばかり考えて、熱意がないから、お前はいつまでも底辺なんだ!」


 その言葉は、私の心を微塵も抉らなかった。


 むしろ、最後の一線を引くための合図となった。


「……なるほど、理解しました」


 私はバックパックを下ろすと、自分の私物以外の、支給された共有資材を抜き取り始めた。


「薄々わかってはいたが、あなたの作戦には『生存』という項目が含まれていないようだ」


「な、何を言って——」


「契約条項第4項。『生命の著しい危機が予見される場合、隊員の判断による離脱を認める』を行使します」


 私は軽くなったバックパックを背負い直す。


「私は、英雄になるために探索者になったわけではありません。今日を生きていくために探索者になったのです。だから、昨日までそうだったように、生きて帰り、そして夕食を食べたいと思います」


「夕食、だと!? お前……!」


 私の言葉に、リーダーが逆上する。


「この業界で生きていけなくしてやるからな!」


 ネットで晒してやる、そんな罵声が私の背中に突き刺さったが、


「どうぞ、ご自由に。死んでしまっては、業界も何もありませんから」


 私はそのまま、これまで進んできた通路を戻っていく。


「臆病者が……!」


 まったくそのとおりなので、否定はしない。


 その時、


「お、俺も……!」


 背後で声が上がった。


「俺も、降ります……!」


 立ち止まり、振り返れば、私と同じ荷物持ちをしていた一人だった。


「あいつの言うとおりだ……ライトの予備もないし、ポーションも、食糧も……」


 一人、また一人。


 数名のソロ探索者が、隊列から離れ始めた。


 私は来た道を、自分が生きて帰るために書き留めておいた帰りのルートに従って歩く。


 彼らが私の背中を追ってくる。


 構わない。


 私は立ち止まることなく、足を動かし続けた。




 来る時に目印をつけておいた安全地帯で休息を取り、深呼吸をする。


 バックパックから取り出したエナジーバーを一口齧れば、身体がどれだけ疲れているかを実感する。


 恐怖がないわけではない。


 足がすくみそうになる瞬間もある。


 ここは私にとって、未踏エリア。


 協会が出しているダンジョンのマップは頭の中に入っているとはいえ、やはり現実は頭の中で思い描いたとおりにはいかない。


 だから、私は手帳の記録を見返す。


「……大丈夫だ。計算は合っている」


 物資も足りている。


 一歩ずつ、確実に足を進めていけば、必ず戻れる。




 地上への出口が見えた。


 そこから覗く空はすでに茜色に染まっていた。


 遠く、街の喧騒が聞こえてくる。


「あ、ああ……」


 後ろをついてきた探索者たちが、コンクリートの地面に崩れ落ちる。


 肺いっぱいに吸い込んだ空気は、排気ガスの匂いが混ざっていたが、そんなことが気にならないほどうまいと感じた。


「……退勤しました」


 思わずそんな言葉が口をついて出て、私は一人苦笑した。




 リーダー率いる本隊がその後どうなったのか、詳しいことはわからない。


 ただ、未帰還者リストに、その名前が載ったということだけは、事実としてここに記しておきたいと思う。


 現実に生きていてもそうだが、ダンジョンという極限の世界において、他人に命を預けるのはリスクが高すぎる。


 ……その他人に、颯真くんに助けられたことのある私が言うのもおかしな話だが。




 リーダーと決別し、なんとか戻って来られたその日の夜。


 私はリーダーに宣言したとおり、夕食を食べていた。


 宿舎のキッチンで自炊した豚の生姜焼き。


 炊きたての白米。


 湯気の立つ味噌汁。


 箸を伸ばし、肉を一切れ、口に運ぶ。


 噛みしめる。


 脂の甘みと、タレの塩気が口いっぱいに広がる。


「……うまい」


 誰に臆病者と言われても構わない。


 私は明日も生きていくために、しっかりと白米をかきこんだ。

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