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元社畜は慎重さと準備を武器に、搾取する幼馴染や家族を切り捨て、ダンジョンで自立した平穏を勝ち取る  作者: 日富美信吾


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第26話:適正価格の問題


 足を踏み入れた探索者協会のロビーは、朝特有の殺気立った熱量ではなく、どこか澱んだ停滞感に包まれていた。


 それを不思議に思いながら、今日の注意事項などを確認するため、私は壁際に設置された掲示板の前に立つ。


 頭の中には、数日前に構想を固めた新規プロジェクト――専用機材の開発要件があった。


 超音波による切削機能の実装。


 それを外注し、形にするためには、現在の私の手持ち資金を大きく上回る多額の初期投資が必要となる。


 資金繰りのため、新たな追加業務を行う必要があるのだが——。


「……駄目だ」


 私は頭を振った。


 余計なことを考え、そちらに気を取られていると、いつも通りのことですら、あり得ないミスを発生させてしまう。


 本末転倒だ。


 かつての『私』も経験したことである。


 私は息を吐き、意識を切り替え、本日の業務に集中する。


 まずは、改めて注意事項の確認だ。


 だが、私の視線は、掲示板の中央に貼られた用紙に向かった。


 赤い印字、しかも真新しい。


『緊急納品:高純度・土属性魔石30個』


 そこに書かれた文字だ。


 報酬は、通常の相場の約1.6倍。


「……破格の条件ですね」


 ならば、すでに誰かが引き受けていてもおかしくないのだが。


 周囲の探索者たちは遠巻きに眺めるだけで、誰一人として用紙に手を伸ばそうとしていなかった。


「……どういうことでしょう」


 私の耳に、ロビーの片隅から、ひそやかな会話が届いた。


「……マジか。あの『黒獅子』が半壊したって」


「……あの中層の第4区画。リーダーの魔剣が、真っ二つにへし折られたらしいわよ」


「嘘だろ? あの中堅が? なんでそんなヘマを——」


「わかんねえ。けど、あいつらで駄目だったんだ、俺らじゃ挽肉にされるのがオチだって」


 有望株と目されていた中堅パーティー『黒獅子』が手痛い失敗を喫し、撤退。


 その事実が、後に続く若手たちの足を完全にすくませているようだ。


『黒獅子』がなぜ失敗したのか、その理由は私にはわからない。


 ただ、対象となる中層の第4区画については、確かな事実を一つ知っている。


 先日発生した災害において、ベテラン探索者が作成した調査報告書。


 そのデータによれば、第4区画は元々広い空間だったが、岩盤が巨大な圧力によって極端に圧縮され、現在は両腕を広げることすら困難な狭隘(きょうあい)区画へと変貌しているのだ。


 出現する対象モンスターは鋼岩猪(ロック・ボア)


 成体でも体高50センチ程度、一般的な中型犬ほどのサイズに収まる、名前が示すとおり土属性の猪型モンスターだ。


 私の主装備であるサバイバルナイフならば、そのサイズの標的を処理するのにリーチの不足はない。


 現在の空間的制約を一切受けないし、むしろ、刺突に特化させれば、背後や側面の迫った壁は私の盾として機能する。


「……とはいえ」


 通路の狭さと装備の擦れを防ぐための慎重な進行により、移動速度の低下は避けられない。


 通常よりも約1.3倍近くの時間的経費を要するはずだ。


「……しかし、報酬は1.6倍」


 時間というコストの増加分を差し引いても、充分な投資対効果があると判断できる。


「誰が受けるんだ? 誰もやれねえだろ——それこそ黒木さんとかベテランじゃねえと」


「いえ、待って。いるでしょ、他にも。彼が——」


「ああ、あいつなら——」


 若者たちが何か言っているようだが、先程よりも声が小さく、はっきりと聞こえなかった。


「……私には関係ないことです」


 そう結論づけて、私はその用紙を剥がし、カウンターに持っていった。


「すみません。この依頼を受けたいのですが」




 第4区画の空気は以前と異なり、土の匂いが濃くなっていた。


 災害の爪痕が作り出した圧迫感の中、私は身体を斜めに倒し、装備の引っ掛かりを防ぎながら慎重に足を進める。


 事前の予測どおり、鋼岩猪との遭遇は直線的なものとなった。


 荒い呼吸音とともに接近してくる緑褐色の塊。


 私は壁の微かな凹みを利用して半身になり、突進の軌道から最小限の動きで身体を逸らす。


 すれ違いざま、硬い外皮の隙間、首筋の動脈に相当する部位へナイフの切っ先を押し込んだ。


「——ッ!!」


 声にならない咆哮を上げ、光の粒となって消散するのを確認。


 床に落ちた魔石を拾い上げる。


 これを繰り返すことで目標数の8割を回収し、最深部手前に差し掛かった時点で、私は歩みを止めた。


 通路の右側。


 圧縮された岩壁の不自然な形状に、視線が固定される。


 岩肌に深く突き刺さっているのは、微光を放つ、金属の破片。


 魔導素材複合加工ブレード——通称、魔剣、その刀身の残骸だ。


 私は近づき、その破断面を観察した。


 斜めに欠けたのではなく、真っ直ぐに叩き折られた痕跡。


「……なるほど」


『黒獅子』たちはここで、何か極めて質量の大きい物体と正面から衝突したのだ。


 回避もままならない極限状態の中、咄嗟に魔剣を盾のように構えて突進を受け止めたが、魔剣は強度の限界を超え、粉砕された。


 そうして魔剣——数百万の投資は、ただの鉄屑に変わってしまった。


 そこまで思った時、


「ッ!?」


 床の岩盤を通じて、微かな振動がブーツの底から伝わってきた。


 空気が押し出され、風圧が顔を叩く。


 岩そのものが削れるような重低音とともに、通路の幅を完全に塞ぐほどの巨大な影が姿を現した。


 鋼岩猪である。


 ただし、通常の3倍以上ある体躯。


 事前の生態データには存在しない。


「変異種か……!」


『黒獅子』たちが遭遇したモンスターの正体に間違いない。


 後退しようにも、私の歩行速度ではあの突進の加速からは逃れられない。


 避けようにも、そのスペースがない。


 ならば倒すしかないが、


「……正面からナイフで受け止めても、私の腕の骨ごと粉砕されて終わりでしょうね」


 冷静に言ったつもりだったが、心拍数が跳ね上がるのが自分でもわかった。


 だが、思考を停止させるわけにはいかない。


 思考を停止した瞬間、私は死ぬ。


 生きるために、考え続けるのだ。


 視線を動かした。


 壁に食い込む、魔剣の残骸。


「そうだ、これだ……!」


 私は残骸へと駆け寄った。


 ブーツの踵で、突き出た刀身の根元を力強く蹴り込む。


 地殻変動で生じた岩の亀裂にさらに深く食い込ませ、固定の強度を上げる。


 次に行ったのは、角度の微調整だ。


 そうしてかつて魔剣だったものは、対戦車障害物のような、極めて鋭利で強固な固定スパイクへと変貌した。


 もっと調整した方がいいかもしれないとは思ったが、もう時間がない。


 私はそのすぐ脇、岩壁がわずかに窪んだスリット状の空間へと身体を滑り込ませた。


 その瞬間、重低音とともに、変異種が視界を埋め尽くした。


 圧倒的な質量と運動エネルギー。


 それが、壁に固定された魔剣の刃に正面から激突する。


 硬質な甲殻が砕け、肉を深く貫く凄まじい破壊音。


 物理法則を無視した魔導合金の強度が、変異種自身の恐るべき突進力を刃に変え、その急所を深々と抉り取った。


 変異種は自らの重みで前方へ崩れ落ちる。


 巨体が光となって消え去り、後には巨大な土属性の魔石と、限界を迎えてひしゃげた魔剣の残骸だけが残された。


 私は岩の窪みから這い出し、その特大の魔石を回収した。


 ひしゃげた残骸を一瞥する。


 魔剣は岩盤の亀裂に深く食い込んでおり、引き抜いて回収するには時間と労力がかかりすぎる。


 しかし、このまま放置して魔力が漏洩し、ビーコン化すれば、明日以降の私の業務環境を汚染するリスクとなる。


 私はバックパックから絶縁テープを取り出すと、岩から突き出た破断面に隙間なく何重にも巻きつけ、物理的な封止処理を施した。


 これで魔力漏洩は防げる。


 撤退行動に移る。


「……予定よりも11分の遅延です。ですが、必要な工数でした」




 探索者協会のロビーは、夕刻特有の疲労と熱気に包まれていた。


 私は換金窓口へ向かい、バックパックから厚手のチャック付きポリ袋を取り出す。


 中には、依頼の品である三十個の土属性魔石が、互いに傷つけ合わないよう隙間なく梱包されている。


 隣の窓口では、派手な装飾の魔剣を背負った若手探索者が、係員に食って掛かっていた。


「なんでこんなに安いんだよ! 俺の魔剣で三枚に下ろしてやった大型だぞ!?」


 彼のトレイに乗っているのは、C品の魔石だ。


 モンスターを倒すと、光の粒となって消滅し、魔石を残す。


 この時、いかにモンスターのエネルギーを空中に散逸させず、圧縮、結晶化させるかで、魔石の品質は変わる。


 モンスターに無数の傷を与えたり、長時間にわたって戦闘を行ったりすると、傷口から生体エネルギーが揮発する。


 結果として、ドロップする魔石はエネルギー密度の低い、スカスカの粗悪品となる。


 また、魔剣による攻撃や爆炎グレネードなどの魔道具を使用した場合、外部からの異質な魔力がモンスターのエネルギーと衝突、干渉。


 これにより結晶化のプロセスにノイズが生じ、魔石にヒビが入る、あるいは属性が濁るといった劣化を引き起こす。


 つまり、彼の魔石がC品であるのは、彼が宣言したとおり、魔剣で三枚に下ろしてしまったからだろう。


 生き残るために強い武器を、魔剣を手にすること自体、私は否定しない。


 だが、魔剣でモンスターを攻撃することで、魔石の商品価値を落とすという事実も考慮すべきなのだ。


 私は彼らから視線を外し、自分の担当窓口へポリ袋を提出した。


 担当の係員が袋を受け取り、一つを取り出して専用のテスターにセットする。


 機械が微かな駆動音を立て、数秒後、異常なしを示す緑色のランプが点灯した。


 液晶ディスプレイに表示された数値を確認した係員の動きが、ぴたりと止まった。


「……これは」


 係員はテスターの数値を二度見し、それから魔石そのものを光にかざして表面の構造を目視する。


「魔力保全率、ほぼ100パーセント。結晶への外部魔力干渉を示すノイズも、一切検出されません」


 係員は短く息を呑み、信じられないものを見るような目を、手にした魔石に落とす。


「絶命時のエネルギー揮発も、魔法による濁りもない、完全な結晶です。すべて、極上品質のA品です……!」


「規定数、三十個揃っているはずです」


 私の声で係員がこちらを向く。


 そして、私を見て、係員の顔が驚愕から、納得のものに変わった。


「ああ、静河さんでしたか。すみません、気づかなくて。静河さんなら、この結果も当然でしたね」


 提示された明細の金額は、基本報酬にA品としてのプレミアが上乗せされ、事前の計算を上回るものだった。


 これで、次期機材である超音波振動破砕鞘の開発に必要な初期投資額が完全に確保できたことになる。


 今回の報酬はすべて銀行に振り込んでもらい、明細を受け取ると、背後のロビーから、ひそやかなざわめきが波及していくのが背中越しに伝わってきた。


「おい、見たか。あいつ、あの緊急依頼の納品を一人で……」


「中堅パーティーでも失敗して、魔剣を折って逃げ帰ってきた依頼だぞ」


「それに、あの奥には事前のデータにない規格外の変異種がいたって話だ。あいつ、安物のナイフでどうやって……」


 変異種。


 その単語から、彼らが『黒獅子』と情報を共有していることがわかった。


 私は軽く会釈をして窓口を離れた。




 帰り道、スーパーの精肉コーナーに立ち寄る。


 次期プロジェクトへの開発資金は、これで確保できたが、余裕があるわけではない。


 私は特売の豚バラ肉と、数十円で買えるモヤシを手に取った。


「これでいい」


 宿舎に戻ってきた。


 豚バラ肉に含まれる疲労回復が期待できるビタミンB1と、もやしの食物繊維やビタミンCを効率よく摂取できる、豚バラともやしの無水レンジ蒸し。


 簡単だが、これが、


「うまい」


 生きている、その実感を与えてくれた。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

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