宰相が眠る夜
ここ数日、ヴィンスの帰りが、目に見えて遅くなっていた。
貴族利用の噂を鎮めるための後処理に加え、通常の政務も重なっているらしい。
朝食の席にも姿を見せないことが増え、屋敷の空気にも、どこか落ち着かないものが漂い始めていた。
「今日も、書斎にこもったままですか」
夕食の席に姿を見せないヴィンスを気にかけ、陽向はオズワルドに尋ねる。
「かれこれ、三日ほどまともに眠っておられないかと」
その言葉に、陽向とレオは顔を見合わせた。
書斎の扉をそっと開けると、山積みの書類に囲まれたヴィンスの姿があった。
蝋燭の灯りの下、ペンを握る手だけが、機械的に動いている。
顔色は、明らかに悪かった。
「ヴィンスさん」
声をかけると、ヴィンスはびくりと肩を揺らし、慌てて笑顔を作った。
「これは、お二人揃って。何か御用ですか」
「今日はもう休んでください」
「……そうも参りません。私が休めば、困る人間が大勢いますので」
淡々と、いつもの調子で答える。
その声にすら、疲労がにじんでいた。
「でも、倒れたら僕が困ります」
陽向がそう言うと、ヴィンスは軽く笑おうとした。
「そこまで、大げさな話では」
「俺も困る」
低く短い一言が、レオの口から続く。
その瞬間、ヴィンスの手が、ぴたりと止まった。
「……」
いつもならすぐに返るはずの言葉が、出てこない。
宰相として。
国のために必要とされることには、慣れていた。
けれど、こんなふうに、ただ一人の人間として「困る」と言われたことは、記憶にないほど久しぶりだった。
政治家としての価値ではなく、ヴィンス自身が、ここにいてほしいと望まれている。
その事実が、じわじわと胸に染み込んでいく。
「……分かりました」
ようやく、そう答える声は、いつもよりずっと小さかった。
陽向とレオに促されるまま、ヴィンスは書類を机に置いたまま、寝室へと向かった。
寝台に横になった瞬間、張り詰めていた気が、ふっと緩む。
仕事を残したまま眠るのは、いつ以来だろうか。
思い出せないくらい、久しぶりのことだった。
「おやすみなさい、ヴィンスさん」
扉の向こうから聞こえた陽向の声に、ヴィンスは小さく答える。
「……おやすみなさい」
その夜、ヴィンスは久しぶりに、夢も見ないほど深く眠った。
翌朝、目覚めたとき、窓の外はすでに明るくなっていた。
こんなに長く眠ったのは、何年ぶりだろう。
体の奥に、これまで気づかなかった疲れが溜まっていたのだと、今更のように思い知る。
誰かに必要とされることの意味が、少しずつ、形を変え始めていた。
朝食の席に降りていくと、レオが黙って果物の皿を差し出してきた。
「……ありがとうございます」
素直にそれを受け取ったヴィンスの様子に、陽向は思わず頬が緩む。
完璧な宰相の仮面の下に、今はただ、少し疲れた一人の人間の顔があった。
それでいいのだと、陽向は思う。




