第二話 初めての編集
半透明のキーボードへ指を近づける。
触れた感覚はない。それなのに、キーの上へ指を置いたことだけは分かった。
視界に浮かんでいるのは、たった二行。
power = 1
mana = 1
`power`は、おそらく手のひらに集める魔力の強さ。
`mana`は使う魔力量だろう。
前世なら、変数へ入っている数字を書き換えるだけだ。試すなら、一から二。影響範囲も小さい。
間違っても、いきなり百などとは入力しない。
俺は点滅するカーソルを、`power = 1`の数字へ合わせた。
「レオン?」
ハンナ先生の声に、指が止まる。
「どうしました。難しいですか?」
先生にはキーボードもコードも見えていない。俺が手を出したまま固まっているようにしか見えないのだろう。
「いえ。ちょっとだけ、試してみたいことがあって」
「試す?」
「魔力を、ほんの少し強くします」
先生の表情が引き締まった。
「無理に押し出してはいけません。少しでも痛みや息苦しさを感じたら、すぐ止めること」
「はい」
止め方を先に確認する。
大切なことだ。
俺は数字の一を消し、二と入力した。
power = 2
mana = 1
変更された数字が淡い青色に光る。
その下に、小さな表示が現れた。
EXECUTE ?
実行するか、と聞かれている。
心臓がうるさい。
ただの数字一つだ。前世なら、これくらいの変更で緊張することはない。
だが今、目の前にあるのは画面の中のテストデータではない。俺の身体を流れる、本物の魔力だ。
失敗すれば何が起きるのか分からない。
「……実行」
意識の中で決定する。
瞬間、手のひらの光が一回り大きくなった。
「わっ」
周囲の子供たちから声が上がる。
熱くない。痛くもない。胸の奥にあった温かさが、ほんの少し減った感覚だけが残った。
「レオン、そのまま維持して」
先生は俺の腕を下から支え、光をじっと観察した。
「力任せに魔力を流した様子はありませんね。ずいぶん滑らかに出力を変えました」
「できてますか?」
「ええ。初めてにしては驚くほど上手です。ただし――」
先生が指を一本立てる。
「上手にできた時ほど、もう一度同じことができるか確かめなさい。偶然と技術は違います」
胸へ刺さる言葉だった。
俺は出力を止めた。コードが薄くなり、手のひらの光も消える。
もう一度、同じ手順を思い浮かべる。
コードが現れた。
power = 1
mana = 1
「戻ってる……」
さっきの変更は保存されていない。
毎回初期値から始まるのか。それとも、保存する操作が別にあるのか。
俺は再び一を二へ変えた。
二回目も成功。
三回目も、同じ大きさの光が出た。
「うん。制御に再現性があります」
先生は満足そうにうなずいた。
俺も、ようやく息を吐く。
編集できた。
魔法の――いや、まだ魔法になる前の、ごく単純な魔力操作。それでも、表示された処理を書き換え、結果を変えたのは間違いない。
嬉しくないわけがなかった。
前世で何時間も追い続けたバグが直り、テスト結果が緑色になった瞬間と似ている。
もっと試したい。
`power`を三にしたら。`mana`を二にしたら。二つの数字の関係は。先生が使った`create_fire()`を追加したら。
疑問が次々に湧いてくる。
「では、今日はここまで」
先生が手を叩いた。
俺の実験意欲も、そこで強制終了された。
「えっ、もう?」
「もう、です。初めて魔力を動かした日は、本人が思っているより疲れています。続きは次の講習で」
言われてみれば、身体が少し重い。たった三回の実行でも、確実に何かを消費している。
先生は全員の顔を見回した。
「家へ帰って、ひとりで火の魔法を試さないこと。いいですね?」
子供たちが声をそろえて返事をする。
俺も「はい」と答えた。
嘘をつくつもりはない。
火は試さない。
ただ、光なら少しくらい――。
そう考えたところで、ハンナ先生と目が合った。
「レオン」
「はい」
「今、別のことを考えましたね?」
「……再現確認は大事だな、と」
「次の講習で、私が見ている時にしてください」
「はい」
保守担当として、教える側の制止を無視するのはよくない。
でも、コードが見える理由まで、先生に説明することはできなかった。
帰り道、俺は自分の手のひらを何度も見た。
今は何も浮かんでいない。
魔力を集めようとすると、あの二行が薄く現れる。
読むだけではない。
俺の意思で、書き換えられる。
「魔法が……プログラムで動いてる?」
口に出してみても、意味不明だった。
ここにはコンピューターも、Pythonという言葉もない。
それなのに魔法の向こう側では、見慣れた構文が確かに動いている。
なぜ俺にだけ見えるのか。
どこまで編集できるのか。
そして、もし間違えたら何が起きるのか。
最後の疑問だけは、好奇心より重かった。
前世でコードを間違えても、壊れるのはデータやシステムだった。
この世界では、炎が出る。
人が傷つく。
俺は浮かれかけた気持ちへ、自分で蓋をした。
「試すなら、小さく。戻せる範囲で。できれば誰かに見てもらう」
十歳の独り言としては、あまりにも可愛げがない。
それでも、これだけは譲れなかった。
書き換えられることと、書き換えていいことは違うのだから。




