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「………あいりは?」
なるべく感情を抑えようとしたら、思ったよりも低い声が出た。吉原はおれと目を合わせようとはしない。それが余計に、おれの心をもやもやさせた。
「帰ったよ」
おれには何も言わないで。
本当にあいりは、吉原に会うためだけに来たのだ。
「あいり、ええと、何だって?」
「うん?……あぁ、まぁ……」
うう……その曖昧なかんじが、なんか、好かんのだ。
「まぁって?あいり、吉原に何か用があったんでしょ?」
「用があったっていうか……たいしたことでは……あ、神波、すまん、前に言ったこと、訂正する」
「え?」
「あいりが……」
そこまで言って吉原は、周囲のギャラリーを見て眉をひそめた。
それとほぼ同時に、おれは吉原が話を逸らしたことに気付いたが、あいりが、の続きが気になって黙っていた。
「あいりが、お前を拒否できなかった、とか言ったこと」
吉原は声をひそめ、おれに耳打ちした。
そんなこと言ったっけ?
「あの子が拒否できなかったなんて、なんというか、………ありえないな」
「あいりは嫌ならイヤって言うよ」
「だろうな。というより、イヤの一言で済むのか?……あんな攻撃的な子だとは思わなかった」
攻撃的な子。
おれへの肘打ちのことを言っているのか、それとも吉原も同じような暴力を受けたのか。
「お前、大丈夫だったか?モロにくらってたけど」
「……別に、へーき」
「……何怒ってんだよ」
「別に怒ってないもん」
ため息混じりの吉原の声に、おれは少しだけムキになって言い返した。
吉原はおれを子供扱いする。
子供だと思っているに違いない。吉原のおれに対する言葉はいちいち、子供をあやすみたいにお優しい。おれを見る目だって、子供か弟でも見るようで、前からずっと、
「……前からずっと気に入らなかったんだよ」
「………うん?」
「どうせおれはさぁ」
堰を切ったように、とはこういうことを言うのだろう。
「どうせおれはチェリーだよ、天然記念物で絶滅危惧種で、ガキで幼稚で子供だよ!」
「……………は?」
目を丸くする吉原に、おれの苛々は頂点に達した。彼には自覚さえ無いのである、おれを子供扱いしているという自覚さえ。
「どうせおれは!吉原みたいにかっこよくないし、吉原みたいに頭よくないし、吉原みたいに大人じゃないし、吉原みたいに格好よくゴールも決められないし、吉原みたいにぱぱっと本の貸出しもできないし、吉原ほど色んなこと知ってたりしないし、吉原ほど歌も上手くないし、人の名前は間違えるわ、元々無いへそくりを探し回るわ、知らなかったとはいえ酒まで飲むわ、しかも酔って男とキスとかしちゃうわ、そりゃもうおれは人として最悪と言えるかもしれないけどさ!!」
「え……ちょっと待て神波、もしかしてあの写真、本当に合成とかじゃなくて、おれら、本当にしたのか?」
「今そんな話してないだろ!!」
「いや、でもここ結構重要なポイントだぞ」
「何だよここテストに出るからノートにメモっとけよみたいな!出ないじゃん!!」
「そりゃテストなんかに出やがったら人権侵害以外の何物でもないけど」
「おれだってさぁ!!」
つい吉原の胸ぐらを掴むと、吉原は驚いたようにおれを見下ろした。
「おれだって……吉原みたいに、なんでもできるようになりたい……」
あぁ、
これがおれの本音なのだ。
羨ましいのである。
吉原は少女マンガに出てきそうなくらいに完璧で、
だから、あいりだって、
おれなんかよりも、吉原を選ぶに決まってる。
「吉原は、ずるいよ」
“完璧”そのものを、こうもまざまざと見せられてしまったら、
おれじゃなくったって、めちゃくちゃへこむだろ。
「……ずるいのはどっちだよ」
と、
吉原は呟いた。
「……お前」
胸ぐらを掴み返され、おれは戸惑い、吉原を見上げた。
「お前は一体、どれだけ努力してるって言うんだよ?」
「………え?」
迫力と声の温度差におれは、自分がびくっとするのを感じた。
「ど……りょく?」
「何が俺みたいになりたいだよ、ロクに努力もしてないくせに」
憎悪?
嫌悪?
敵意?
吉原の言葉に何が込められているのか、わからない。
「何にも努力しないくせに何だってこなす……何なんだよお前、何がずるいだよ……馬鹿にしてんのか?」
「よ……吉原?」
「俺の方が何倍も努力してんだよ……本当なら、もっと差が出てもいいくらいだ」
低く冷たい声は、俺のすぐそばでそう言った。
「っ………放せよ、吉原」
おれを見下ろす吉原は、おれを侮蔑するみたいな目をしていた。
そんな吉原の態度が、
なんだか無性に悲しくて。
「吉原なんか嫌いだ」
まるで心に無いことさえ、
口からあふれた。
ぱちん、
と乾いた音。
左頬に痛み。
――ひらてうち?
「な……にすんだよ」
吉原に叩かれた。
こんな痛み、どうってことない、はず、なのに。
「……………」
吉原ははっとしたように手を引っ込めて、おもむろにおれを解放した、が、すぐに吉原の目は、もとの冷たいものに戻ってしまった。
「………っ」
ぶん、とおれの拳が宙を掻いた。かわされたことに驚く間も無い。反射的に反撃しようとする吉原の一撃は、おれの頬をかすめた。
「な……何、ケンカ?」
「吉原とチェリーが?」
「うん?痴話喧嘩?」
「先に手ぇ出したのは吉原くんで……」
「その前にチェリーが……」
周りがなんだか騒がしくなりはじめたが、おれにそんなのを気にする余裕は無かった。
「ま……待て、かん――」
吉原の言葉は途中で途切れた。
少しだけ焦りの表情を見せた彼の腹、丁度おれがあいりに肘をもらった位置に、おれは思いっきり、回し蹴りを入れたのだ。
「っ………ぐ、ぅ」
「あっ」
よろめく吉原の気持ちはよく解った。
おれもさっき、半端なくキツかったから。
「……ええと……」
吉原とはいえ、あのでたらめな攻防の動きは、おそらく素人だろう。素人相手にあんな的確な蹴りを入れてしまったことに若干の申し訳なさを覚えながら、しかしここで謝るのもなんとなくカッコ悪い気がする、などという考えも頭をよぎり、どうすることもできなくなったおれは、一瞬おろおろしてから、
「い……いーだっ!」
と言い残して、逃げた。
振り返らなかったから、吉原がどんな顔をしていたかはわからなかったけれど、追ってこなかったってことは、つまり、そんな顔をしていたのだろう。