27
麻生の呼び止める声も、すれ違う生徒たちの驚く声も無視して、おれは長い廊下を、全力で駆け抜けた。
歩き慣れた廊下のはずなのに、なんだか妙な感じがする。
こんなに長かったっけ?
「―――あいり!」
3階にようやくたどり着いて、
「あ、おにーちゃんだぁ」
いつものようににぱっと笑うあいりを、視界に入れた。
あいり。あいりあいりあいり。おれが間違えるはずもない、おれの可愛いあいりだ。あいり。どうしてこんな時間にこんなところに。……うふ、可愛いなぁあいり。……じゃねぇよ、ええと、学校、中学校はどうしたんだ?
南中はおれも通っていたからわかる、まぁおれの記憶が正しければという条件も必要になるが、今の時間南中は、そろそろ5限の予鈴が鳴る頃である。授業始まっちゃうよあいり。しかも5限は体育だから着替えてしかも体育館に移動までしなきゃいけないんだよ。こんなところで油売ってる暇は無いんだよ。
なんて、なんでおれ自分の5限の授業憶えてないくせにあいりのは憶えてるんだよ、記憶力はもっと有効に使えっての。まぁあいりのことを憶えるのに無効なことなどないのだろうけど。
「あ……あいり……ええと、なん……なんで?」
とりあえず、きいてみた。
無駄だということくらい、わかってはいたけれど。
「うーん、なんでだろね?」
あいりの口調はおちょくるようで、なのに本当に不思議そうな顔だった。
「じゃあ、ええと、学校は?」
「うーん、どうしたんだろ?」
訂正、おちょくるよう、なのではなく、おちょくっているのである。
あの女子生徒が言うとおり、小学生にしか見えない中学3年生は、円らな瞳をおれに向けて首をかしげた。
「おにーちゃんは?なにをそんなにいそいでいるの?」
ゆっくりだけど息継ぎはしない、少し舌足らずな、普段通りのあいりの喋り方。
「……さぁ……なんでだろな」
あいりの台詞を真似てようやく、自分が息を弾ませているのがわかった。
図書室からここまで、たったそれだけの距離を全力で走っただけなのに。
「うん、ま、ヒトのこーどーのりゆうなんてそんなもんだよねぇ」
「あー……、そだね」
けどそれは、今この時間にあいりが中学校ではなく高校にいる理由にはならないだろう。
「……あいり」
「んー?」
「帰りなさい、学校に」
おれがため息とともに言うと、あいりは、
「なにいってるの、おにーちゃん?ここがガッコーだよ」
と相も変わらず白々しく答えやがるのだった。
「ここは高校だろ。あいりはまだ中学生なんだから、中学校に帰るんだ」
「やだよ、せっかくここまできたんだもん、もちょっとあそんでから」
「だめだ。帰りなさい」
おれとあいりが他愛の無い兄妹の会話を繰り広げているうちに、人だかりは随分と綺麗に、おれとあいりの間に花道を作ってくれていた。道を開けた観客の間を通って、おれはあいりに歩み寄る。
「やだぁ」
「やだじゃない、帰――」
そう、おれは油断していたのである。
あいりの細い腕を掴んだおれは、ひどく久々に、
あいりの暴力を、喰らった。
観客は一斉に声を上げた。無理も無い、こんないたいけな少女が、こうも容赦無く、優しい兄の腹に肘打ちなんぞを入れるなんて、あいりを知る宇垣以外に、誰が予想できただろう。
「あいりはまだもくてきをはたしていないんだよー」
畜生、なんでだろねとか言っときながらちゃんと目的ってもんがあるんじゃねぇか。嘘ばっか言いやがって。
よろめくおれを余所に、あいりはきょろきょろと周囲を見回した。何かを探しているようだが、何も探していないのかもしれない。
「うー……あいり……」
「チェリー」
がし、と、
倒れかけたおれは、後ろから誰かに抱き込まれた。
おれの身体を支え、おれのあだ名を呼んだハスキーボイスは、
「おぉ……津田ちゃん」
そうだ、今日の5限はたしか、彼女の教える日本史だった。
「いよぅ、やっとあたしの名前覚えてくれたかい」
「やだなぁ、おれが津田ちゃんの名前を間違えたことなんてちょっとしかないでしょ」
「ちょっとじゃねぇよ、大有りだよ」
「大有りかぁ」
束ねた髪に伊達眼鏡、真っ赤なジャージに薄いメイクという、某極道先生をフルに意識したナリをしているそのかっちょいい教師は、挨拶もそこそこに、きょろきょろどころかぐるぐるし出したあいりを見て、
「ところでチェリー、あの美少女は一体何だい」
と眉をひそめた。
「あいりだよ。可愛いでしょ」
「自慢はいらん。え〜、あ、最終兵器的な?最終兵器彼女的な?」
「元ネタはわかんないけどさ、あいりは最終でも兵器でも彼女でもないよ」
「そぉか?チェリーに一撃をお見舞いできちゃうくらいだから、相当なのかなぁと思ったんだけどな。あ、そういやお前身体大丈夫か?」
「心配するの遅いよね……まぁ大丈夫だけどさ。慣れてるし」
「慣れてんのか……どんな日常をおくってんだよお前は」
「んー、や、最近はこういうのなかったんだけどさ」
言ってしまってから、あれ、そういえば最近っていつからいつまでのことを言うんだったっけ、と考えた。
「おにーちゃん」
と、
あいりはおれに駆け寄ってきた。
それを確認した津田ちゃんは、ひょいとおれから一歩離れた。巻き添えはごめんだぜ、という彼女の心の声が聞こえた気がする。
「あいりはひとをさがしているのだ」
「……人?」
「よしはらクン」
あいりはいたずらっぽく、にぱっと笑った。
「……吉原?」
「おにーちゃんはいつからヒトのゆうことをやたらとくりかえすうっとーしいキャラになったの」
「ご……ごめん」
「よしはらクンはどこ?」
しゃがみこみ上目遣いで、それはもうとびきり可愛く、あいりはおれに尋ねた。
どうしよう。
是非ともあいりに吉原を差し出したい。
「でもなんで吉原なの?」
「どうしてもおはなししないといけないことがあるんだよ」
「お……お話?」
あ、また繰り返しちゃった、とおれが考えると同時に、あいりはにぱっと笑って、
「おにーちゃんにはカンケーないはなしだよ」
おれを、突き放した。
多分、周りで見ていた津田ちゃんや生徒たちには、わからなかっただろうけど、
おれにとってそれは、酷く冷たい言葉だった。
「おーい美少女、ちょいといいかい?」
津田ちゃんが口をはさむと、あいりは津田ちゃんを見上げた。あいりは自分が美少女だと自覚しているのだ、と、おれは今初めて知った。
だが、おれの頭の中は、それどころではなかった。
「お嬢さんのお探しになっている吉原クンとやらは、もしやこの少年のことかい?」
津田ちゃんの小さい体に比べて、だいぶん大きな吉原の首根っこを、津田ちゃんは人混みの中から掴み、引っ張って来たのである。
吉原は観念したように、大人しく津田ちゃんに引きずられていた。
いつものおれなら、そんな可笑しな光景に、けらけらと笑えたかもしれない。
けれどおれは、笑えなかった。
あいりが吉原に何かを言うのも、吉原があいりに何かを答えるのも、おれの耳には入らなかった。
おれはようやく、あることを思い出していた。
その時になって、ようやっと。
それは本当に、どうしようもなく、遅すぎるものだった。
そう、
吉原もあいりのことが好きだったのである。




